今回はフォイエルバッハ(Ludwig Feuerbach/ 1804-1872)の思想を取り上げたいと思います。
今の日本ではそれほど有名ではないかもしれません。しかしこのフォイエルバッハ、実は現代思想に巨大な影響を与えている人なんです。
まず第一に、彼はマルクスやエンゲルスの共産主義に深い影響を与えています。共産主義はフォイエルバッハの無神論を土台にしているんです。
また、フォイエルバッハは精神分析の祖フロイトによる宗教論の先駆になっています。直接的な影響もあるかもしれません。
さらに、現代でも人気のある無神論者のニーチェという哲学者がいますが、彼も若い頃にフォイエルバッハの勉強をして影響を受けています。
マルクス、フロイト、ニーチェ……。無神論のビッグネームが揃っていますね(笑)
フォイエルバッハは彼らの先輩思想家として直接・間接に深い影響を与えています。その意味では「現代的無神論の源流」とでも言うべき人物ではないでしょうか。
ヘーゲル哲学の歪曲
後世に大きな影響を与えたフォイエルバッハですが、彼自身は誰から強い影響を受けたかと言うとヘーゲルです。
フォイエルバッハは学生の頃にヘーゲル教授の講義を聞いて強い影響を受けています。しかし間もなくヘーゲル哲学から離反し、それを独自に解釈し直すようになります。
ヘーゲルの思想は「神の哲学」と言えるほど神秘的なものですが、フォイエルバッハはそのヘーゲル思想を無神論にしてしまいました。
その辺りの事情については以前、ヘーゲルの記事の中でご説明しました。
詳しいことは上の記事に譲りますが、ごく簡単に言うとこういうことです。
ヘーゲルによれば、神は人間世界から超越した場所に存在するのではなく、人間の精神や人間の活動の中に言わば「内在」し、その中で自己を現していきます。
この「神と人間とは表裏一体である」というのがヘーゲル哲学の大きな特徴です。
しかしヘーゲル哲学がフォイエルバッハに継承される際に、以下のような重要な「解釈変更」が起こってしまったのです。
神と人間とは一体である。
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人間の外に神が存在するわけではない。
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神とは人間の想像の産物である。
ヘーゲル的な「神と人間は一体である」という思想が微妙にすり替わり、フォイエルバッハの「神は人間(の想像)にすぎない」という思想に変質したわけですね。
この「神は人間の想像の産物である」という考え方は、現代人(特に知識人)の思考をガッチガチに支配しています。
フォイエルバッハの後、このタイプの議論は大いに流行りました。精神分析学の祖とされるフロイトなどはその典型でしょう。
大きな書店の心理学や脳科学のコーナーに行ってみて下さい。「人間の心理はいかにして神を生むのか」「人間の脳はいかにして神を生むのか」という趣旨の本がズラッと並んでいます。
この「いかにして」というのがミソです。問題とされているのは「いかにして」という〈方法〉の部分であって、脳や心が神を生むということは〈事実〉として最初から前提されているわけです。
あることを前提してその次の議論を延々としているのですが、こうすると「前提そのものはすでに証明されている」「前提はもはや論ずるまでもない」という心理的な錯覚が生じます。
誰1人として「神は人間の想像である」などと証明した人はいないはずなのに……です。
個人的にか組織的にかは分かりません。意図的にか無意識的にかも分かりません。それでもアカデミズムの世界では「神の存在」を闇に葬る巧妙な「洗脳体制」が敷かれているのは確かです。
類的存在としての人間
さてフォイエルバッハも「人間の心がいかにして神を想像するのか」ということを論じていますので、そこを紹介しておきましょう。
フォイエルバッハは人間が「類的存在」であることを強調します。
類的存在とは、自分が「類」(グループ)であることを意識する存在のことです。人間とは、自分が「人間」という類に属するものだと自覚する存在だということです。
多分ですが、犬は「僕は『犬』というグループに属している」とは思っていないでしょう。猫も多分「吾輩は『猫』というグループに属しているのである」とは自覚していないでしょう。
フォイエルバッハは「自分がある類に属することを自覚できるのが人間である」と言うのです。これが「類的存在」であるということです。
さて類的存在である人間は、人間が「類」(グループ)として持っている特徴(人間の本質)を意識することができます。
フォイエルバッハが考える「類」としての人間の本質とは「理性」「意志」「心情」です。この心情とは「愛」のことだと思えばいいでしょう。
そしてフォイエルバッハによれば「人間1人ひとりの理性・意志・愛は有限なものだが、人類全体として見た類としての理性・意志・愛は完全であり無限である」というのです。
この辺りは僕にとっては少し分かりにくいところです。
確かに1人の知識や知恵は大したことなくても、人類全体が蓄積した叡智(科学や学問や経験知)はすごいかもしれません。それは分かりますが、でも無限ではないですよね(^^;)
意志や愛についてもそうです。人類全体の意志が完全であるとは限らないし、人類が互いに憎しみ合うこともあるので、愛も完全だとは言えない気がします。
まぁともかくフォイエルバッハとしては「類的存在としての人間の理性・意志・愛は無限であり完全である」と考えました。
そしてここがポイントですが、フォイエルバッハは続けて次のように論じます。
人間は類的存在として見たときの完全無欠な理性・意志・愛を「対象として」(=自分の外部にあるものとして)意識する。そうして外部に投影されたものが「神」である。
つまり「個人としては有限な人間であるが、類としての人間の能力は無限である。その無限なる能力を外部に投影して神を創作したのだ」ということですね。
フォイエルバッハは「人間と神とは1つである」「人間にとっての神とは人間の精神である」「神とは露わになった人間の内面であり、語り出された自己である」などと述べています。
神の理性は無限なので、神は「全知」です。神の意志は完全なので、神は道徳的に「最善」の存在です。神の愛は完全なので、神は「慈悲」の存在です。こうして神の特徴づけがなされます。
喩えるなら、人間が自分の姿を(だいぶ理想化して)鏡に映したものが神ということになります。そして人間は鏡に映った自分の姿を他者だと思って崇めているということです。
宗教では神と人間との対比が強調されますが、フォイエルバッハによれば、これは「類としての人間」と「個人としての人間」との対立です。彼は「宗教とは人間の自己分裂である」と言います。
類としての人間の本質が無限であるのに、個人としての人間は有限であるため、人間は前者を神として立ててそれを崇拝するというわけです。
現代まで続く「神とは人間の心理が生み出したものである」という思考パターンは大昔からあったものではありますが、このフォイエルバッハがさらに強化したように思えます。
この思考パターンの例として、すでに名前を挙げたフロイトがいます。
フロイトは、人間を育む一方で恐ろしい脅威ともなる大自然を擬人化したのが「神」だと主張しました。擬人化すれば対話・交渉できる相手となり、ある意味で安心できるからです。
神とは、安心を得ようとした古代人の心理が生み出したものということになります。
フロイトは他にも「自分たちの族長を殺害した太古の人々が、その罪悪感から族長を『神』として奉った」とかテキトーな説を述べています。
現代では、こういう風潮がますます強まっています。
脳科学や心理学が発達したことも影響しているでしょう。「脳や心がいかにして神を生むのか」について各論者が自分なりの見解を述べ、世間にはそれらが乱立している状況です。
宗教はもう要らない?
人間がいかにして神を創作するかということについて、フォイエルバッハの考えを述べました。
フォイエルバッハはここからさらに「宗教」についても議論を進めています。
フォイエルバッハによれば、宗教には「人間の本質を『神』として立て、それを尊重すべきものだと考える」という意味では人間的な側面があります。
しかしその一方、「完全なる神と人間個々人との違いを強調して人間を貶める」という非人間的な側面も持っていると言います。
宗教には、人間を尊重する部分と人間を貶める部分の二面性があると言うのです。
人間が自らつくった自分の影(神)によって貶められるこの現象を「疎外」と言います。この「疎外」という概念は形を変えてマルクスの社会思想にも継承されました。
フォイエルバッハは次のように主張します。
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これまで人間は、神について「慈愛」「完全」「全知」であるなどと言ってきたが、これらはすべて人間にとって目指すべき理想を外部に投影したものである。
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それを知ったならば、人間はもはや神を信じる必要はない。むしろ人間疎外という倒錯現象を引き起こす従来の宗教はなくすべきである。
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神への愛は人間愛に、神への信仰は人間の尊厳への信仰に置き換えればよいのだ。
こうすれば、宗教が持っていたよい部分(人間尊重)は引き継ぎつつ、宗教の悪しき部分(人間疎外)は排除できるというわけです。
この辺のフォイエルバッハの思考パターン、現代の知識人や左翼系の人たちが内心で思っていそうなことですね。
それはおそらく、フォイエルバッハが現代における無神論・唯物論の「原型」「大枠」を定めたからだと思うんです。
以上、ごく大まかにですがフォイエルバッハ思想を紹介しました。
このフォイエルバッハ思想をどう評価すべきかということについては、次回「フォイエルバッハ(2)無神論に根拠はあるか」に回そうと思います。