ヘーゲル(3)神と人間の繊細すぎる関係

思想の解説

前回「ヘーゲル(2)正・反・合の弁証法」では、ヘーゲルが世界の法則だと考えた「弁証法」について解説しました。

ヘーゲル(2)正・反・合の弁証法
前回「ヘーゲル(1)ヘーゲル思想の超超超入門」では、ヘーゲル思想のアウトラインをごく大まかに紹介しました。 今回はヘーゲル思想の代名詞である「弁証法」について簡単に説明したいと思います。 この弁証法という考え方はヘーゲルからマル...

今回も引き続き、ヘーゲル哲学の特徴の中で僕が重要だと思うことを述べていきます。

 

人間は神の自己表現

 

ヘーゲルは、絶対者である神はまずロゴス(摂理)として存在し、そのロゴスが大自然として現象化すると考えました。

次にロゴスは人類の精神活動としても現象化します。その結果としての文化現象や社会現象もすべて絶対者の自己表現なのです。

あらゆる事物やあらゆる現象に内在し、それらを支配するこのロゴスこそが「弁証法」です。

 

さて、以上の説明のうち「神が自然として現象化する」というのは(信じるかどうかはともかく)比較的理解しやすいのではないでしょうか?

キリスト教では「神が自然を創造した」と説きます。「創造」と「現象化」とでは若干ニュアンスが違うとは言え、神が原因となって自然が生まれるという点は同じです。

 

それに対して、「神が人間の精神活動として現象化する」というのはピンと来ない部分かもしれません。

これを僕なりに簡略化して説明するとこうなります。

神は絶対者であり無限者であり普遍的な存在ですが、その神が言わば「分裂」し、有限者であるそれぞれの人間となっているのです。

もちろんほとんどの人間は「自分が神の一部である」などとは気づいていません。

しかしそれでも、人間1人ひとりは神の一部が現象化したものであり、僕たちはそれぞれに神の自己表現なのです。

人間の肉体もそうですが、心もそうです。思考・感情・知覚・意志といった人間の精神活動は神の活動の一端を担っているのです。

それぞれに神の顕現である人間たちは、お互いに協力したり、特には敵対したりしながら、社会や文化を築いていきます。そうして築かれた社会や文化もまた神の自己表現です。

人間たちは自分の意志で活動していますが、それと同時に、人間たちの活動を介して神の意志もまた実現されてゆくのです。

 

仏教ではよく「人間と仏はつながっている」「人間には仏性(仏の性質)が宿っている」と説きます。例えば「外の世界にではなく心の内側に仏を求めよ」と言ったりしますね。

これに対してユダヤ教・キリスト教・イスラム教などは、一般的には「神と人間との圧倒的な違い」を強調する宗教だと言えます。

しかしそういう宗教でも「神秘主義」という伝統はあって、神秘主義者は瞑想その他の修行によって神と一体になることを目指します。神と人間は本質的につながっていると考えているのです。

ヘーゲルもこういう思想的系譜に属していると言えるでしょう。

 

人間の尊厳の根拠とは

 

ヘーゲル自身の著作にはない喩えかもしれませんが、こんな風に考えてはどうでしょうか?

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A君は神の一部である。Bさんもまた神の一部である。A君はBさんを愛している。

A君がBさんを愛しているということは、言い換えれば、神(A君)が人間(Bさん)を愛しているということだ。また人間(A君)が神(Bさん)を愛しているということでもある。

さらに言えば、神(A君)が神自身(Bさん)を愛しているということでもある。愛の力が神の内部で循環しているのだ。

一見すると「人間と人間との関係」にすぎないと思えるものでも、それは同時に「神と人間との関係」であり「神の神との自己関係」でもある。

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ということです(笑)何となくイメージしていただけたでしょうか。

 

僕としては、このような「人間は本質的に神とつながっている」という思想は「人間の尊厳」を説明するために非常に重要だと思っています。

神や仏など「人間を超えた存在」を想定しないと「人間が尊い理由」を説明できないというのが僕の考えです。

人間を超えた存在を持ち出さずに「人間が尊い理由」を説明しようとすると、「人間が自分で『人間は尊い』と決めたから尊いのだ」ということになってしまわないでしょうか?

それだと、もし人間が「人間は悪だ」と決めたら人間は悪になってしまいます。人間自身がどう判断しようと、それとは関係ないところで人間の価値が決まっていないと困ります。

例えばどこかの独裁国家が「人間に基本的人権はないものとする!」と法律で決めたら、それで基本的人権がないことになってしまうなら大変でしょう。

だから哲学レベルで「人間と神とはつながっている」「だからこそ人間は尊いのだ」という思想を確立しておくことが大事で、ヘーゲル哲学は実際にそうなっているのです。

カントも人間に宿っている「実践理性」は神の理性と同質のものであると考えていました。タイプは違いますが、カントも神との同質性を根拠として人間の尊厳を導いていると思います。

 

無神論への転落

 

ヘーゲルによれば、神とは大自然や人間の活動に内在するロゴスであり、それらを内側から駆動させる力のようなものです。この世界のすべては神の顕現であり神の自己展開なのです。

ここまでに説明した通り、ある意味で「神と人間は表裏一体である」ということです。

しかし、この「神と人間とは一体である」という思想はけっこう“キワドイ”部分があります。解釈によってはヘーゲルの意図とは大きく異なった風に受け取られる可能性があるのです。

それはこういうことです。

 

神と人間とは一体である。

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人間の外に神が存在するわけではない。

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神とは人間の想像の産物である。

 

要するに「神とは人間が自らをモデルにしてこさえた幻想である」ということですね。

このように受け取られる可能性があるのです。実際、後輩の思想家の中にはヘーゲル哲学をこう解釈する者たちが出てきました(フォイエルバッハなど)。

 

このあたりは非常に難しいところですが、ヘーゲル哲学においては神は無限なる絶対者であり、人間という有限な存在とはあくまで別物です。

その無限者と有限者が、あくまで別物でありながら実は根底でつながっている……。この「違うけど同じ」というところがミソなんですよ(^^;)

日本の哲学者・西田幾多郎は、この「違うけど同じ」ということを「絶対矛盾的自己同一」と表現しました。「絶対に矛盾したものなのに同一である」ということですね。

ヘーゲルの段階では「違うけど同じ」と言っていたのに、ある人々はここから「違うけど」を抜いて単純に「同じ」だけにしてしまいました。

すると当然、神が人間の次元にまで引き下げられることになります。「人間が自分をモデルにして投影した虚像が神だ」ということになるでしょう。

フォイエルバッハなどヘーゲル左派(青年ヘーゲル派)と呼ばれる思想グループはそのようにヘーゲル哲学を換骨奪胎して「無神論」にしてしまいました。

マルクスもこの辺りから思索をスタートさせています。20世紀に蔓延したマルクスの唯物論・無神論もこの「歪められたヘーゲル哲学」を土台としているわけです。

マルクスの共産主義は唯物論ですから、人間は単なる物質ということになります。また共産主義は無神論ですから、神が定めた正義や善悪などというものはありません。

共産主義がどこでも必ず破壊・闘争・虐殺を招くのは、こういうことが理由だと思います。

 

 

ただ僕としては、ヘーゲルを歪めて解釈した人たちだけが悪いとも思えません。やはりそう解釈されてしまう側にも問題があったのではないでしょうか。

例えばヘーゲルが「天国があるのだ。そこにデンと神様が座っておられるのだ」という簡単な思想を説いていたならば、後世に無神論として解釈されることはなかったでしょう。

こういう宗教的な考え方について、ヘーゲルは「難しい哲学が理解できない人にはそういうイメージで説明するしかないよね」という冷めた態度をとっています。

 

ヘーゲルは世界や人間に「内在」する神ということを強調しすぎて、世界や人間を「超越」して外側に存在する神(宗教的な神)への理解が薄かったと言えます。

どうせ「違うけど同じ」という絶対矛盾的自己同一を言うなら、「世界や人間に内在すると同時に超越している」という絶対矛盾的自己同一の神を考えてもよかったはずです。

そうすれば、伝統宗教が説くような「天国にデンとおられる神」をヘーゲル哲学の中に組み込むこともできたと思います。無神論が出てくる余地はありません。

高度に精神的・神秘的であったヘーゲル哲学が唯物論的・無神論的に解釈され、そこから生まれたマルクスの共産主義が闘争と破壊の世界を生んだことは大きな悲劇だったと思います。

こうした悲劇を反省するためにも、「ヘーゲル哲学がどうして唯物論・無神論に転落したのか」を深く研究しておくことが大事だと僕は考えています。

 

次回「ヘーゲル(4)歴史は『自由への旅』である」では、神の自己表現である世界はどこへ向かっていくのか、ヘーゲルの歴史観を見てみたいと思います。

ヘーゲル(4)歴史は「自由への旅」である
前回「ヘーゲル(3)神と人間の繊細すぎる関係」では、神(絶対者)と人間とがどのようにつながっているのかについて、やや詳しく説明しました。 人間が精神活動を行う結果として、様々な文化現象(芸術・学問・宗教)や様々な社会現象(道徳・法...

 

 

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