デカルト(2)神と世界の存在を語る

哲学者ごとの解説

「デカルト(1)我思う、ゆえに我あり」では、この言葉の背景や意味をご説明しました。

デカルト(1)我思う、ゆえに我あり
今回は17世紀に活躍した哲学者デカルトの解説をやってみます。 良くも悪くも、近代以降の人類の思考法に大きな影響を与えた人です。 近代人・現代人の発想法の源流をつくった思想家ということなら、何人かの名前を挙げることができるでしょうが、...

 

デカルトはこの「我あり」(=自分の精神は存在する)を疑うことのできない確実な真理とし、そこを出発点としてどんどん思索を進めていきました。

最初にネタバレで言ってしまうと、デカルトは次のような順番で議論を展開しました。

「私の(精神の)存在証明」

↓↓↓↓↓↓

「神の存在証明」

↓↓↓↓↓↓

「外界の存在証明」

今回はこの辺りの流れを簡単に解説してみます。

 

神の存在証明

 

 

では、「私の精神の存在」から出発してどのように「神の存在」が証明できるのか?

デカルトは『方法序説』『省察』『哲学原理』など複数の著作で何度も神の存在証明を試みています。それらは大筋では似ていますが、デカルト研究者に言わせれば、それぞれの特色があるということです。

ここでは「我思う、ゆえに我あり」の原理から連続して理解しやすい『方法序説』の議論を簡単に紹介しておきます。

 

以下、『方法序説』での議論……。分かりやすくなるように多少リライトしています。

〔神の存在証明〕

私(の精神)が存在するということは分かったが、その私の精神は疑ってばかりである。「疑う」ということは明らかに「私は不完全な存在だ」ということである。分からないことだらけということだからだ。

↓↓↓↓↓↓

ところで、自分の「不完全性」を理解できるということは、それとは反対の「完全性」の概念を私はすでに自分の内に持っていることになるだろう(※)。

※「不完全性」と「完全性」は対になっている概念で、一方を理解するには(無意識にであれ)もう一方を理解していなければならない。「北」が分からなければ「南」は分からないし、「南」が分からなければ「北」も分からないのと同じ。

↓↓↓↓↓↓

しかし私の内にある「完全性」の概念は不完全な私から生じたとは思えない。不完全なものから完全性の概念が生じるなどというのは不条理だ。

↓↓↓↓↓↓

完全性の概念は完全なる存在から生じた。その完全なる存在こそが「神」である。

 

さて、いかがでしょうか? これで神の存在が証明されているでしょうか?(^^;)

実はこの部分については、「我思う、ゆえに我あり」での論証の鮮やかさに比べると、かなり見劣りするなぁ……というのが僕の正直な感想です。

 

そもそも「完全性」や「不完全性」の概念を軸にして論証すること自体、現代の僕たちからすればやや奇異な印象を受けます。

さらに「完全性の概念は完全なる存在(神)に由来する」という考え方も、中世の神学的な発想という感じがします。

現代人なら「人間が不完全である自分を慰めるために、『完全なる存在』という幻影を創作した」と主張する人も多そうです。

 

いずれにしても、反論の余地がなかった「我思う、ゆえに我あり」に比べ、こちらの「神の存在証明」はとても万人を納得させるものとは思えません。

デカルトは「哲学にも数学のような確実性を持たせたい」と願ったわけですが、そういう意味ではデカルト哲学は「神の存在証明」の段階ですでに躓いているのです。

 

外界の存在証明

 

しかしデカルトは神の存在証明ができたことを前提に、さらに先に進みます。

僕としては「神の存在証明で躓いているので、そこから先は怪しい」と思うのですが、ここで止めてしまうとデカルト哲学の全体像が分かりません。

「神の存在証明」ができているかどうかはペンディングして、そこから先の展開を見てみます。

 

神が存在するとして、そこから何が言えるか?

デカルトによれば「外界の存在」です。

「外界」とは私の精神が眺めている世界のことです。私が経験している世界は私の内部だけにあって私だけが見ている幻想のようなものではなく、私とは独立して私の「外」にちゃんと存在しているということです。

デカルトは「方法的懐疑」としていったんあらゆることを疑いました。それは「自分が見ているこの世界は幻かもしれない」として、外界の存在まで疑うという徹底したものでした。

しかし、神の存在が証明できているこの段階に至って、ようやくその疑いは払拭されることになる(とデカルトは考えた)のです。

 

神の存在からどうして外界の存在が出てくるのか。その論理構造はこうです。

 

〔外界の存在証明〕

神は完全なる存在である。

↓↓↓↓↓↓

完全な存在であるならば誠実である。

↓↓↓↓↓↓

誠実な神が幻影を見せるなどして私を騙すはずがない。

↓↓↓↓↓↓

私が見ているものは幻影ではなく、実際に存在する。

 

神は誠実な存在なのだから、幻の世界を見せて私を騙すはずがない!

……ということなのですが、これはもう哲学と言えるかどうか(^^;)

 

でも、とりあえず「世界は存在する」ということを言っておかないと、安心して自然科学に興じることはできません。

世界なんて「自分だけが見ている幻」にすぎないと思っていたら、自然を探究するといっても何だか力が入りません。やる気が出てきません。

 

僕の意見としては、デカルト流の「神の存在証明」「外界の存在証明」は成功しているとは言い難いものだと思っています。

でも、こういう大胆な思想を示したことで、これらの問題について後世の哲学者たちは大いにインスピレーションを受けました。間違いなく哲学の発展には貢献したのではないでしょうか。

それに「証明に成功していない」とは言っても、それは数学や論理学のように「万人が納得せざるを得ない」という意味での強制力がないというだけで、デカルトの証明に魅力を感じる人がいることも事実です。

彼の議論を参考にして、それを現代的に洗練させることができないとも限りません。現に、本質的にはデカルトと似たような方法で神の存在証明を試みる人は現代にもいます。

現代の思想家や哲学者にも大いに参照されているわけで、やはりデカルトという人の巨大さを感じます。

 

次回「デカルト(3)世界は機械である?」では、現代にまで影響を及ぼしている「デカルト的思考法」にスポットを当ててみたいと思います。

デカルト(3)世界は機械である?
前回の「デカルト(2)神と世界の存在を語る」では、「我思う、ゆえに我あり」で自分の精神の存在を証明したデカルトが、次に「神の存在証明」「外界の存在証明」へと進んだことを見ました。 外界の存在証明とは、「自分が見ている世界は幻で...