ハイデガー(2)現存在(人間)と世界

哲学者ごとの解説

 

前回記事「ハイデガー(1)『存在』を哲学する」では、ハイデガーが「存在の意味」を探究したことをご紹介しました。

ハイデガー(1)「存在」を哲学する
今回からドイツの哲学者ハイデガー(Martin Heidegger / 1889-1976)を紹介していきます。しばしば「20世紀最大の哲学者」とも呼ばれる人物です。 非常に奥深い思想を生んだ一方、「ナチスに協力した哲学者」という汚名...

 

なぜ(無が支配しているのではなく)何かが存在しているのか。ハイデガーはこれを探究しようとしました。

これは「ビッグバン」や「インフレーション」を持ち出すような物理的・科学的な説明を求めているのではありません。

そういう科学的な説明とは別に、人間は「存在の理由」「存在の意味」を問うてしまう生き物です。

そういうレベルの問いに対する回答を求めているのです。

 

人間は「現存在」である

 

とは言え、一体どこから研究を始めればいいのでしょう? 「存在の意味を探究する」と言っても漠然としすぎていますよね。

 

ハイデガーが研究の出発点にしたのは「人間」です。彼は人間の分析からスタートします。

なぜ「存在」を探究するのにまず「人間」から始めるのか? このあたりのハイデガーの思考を辿ってみましょう。

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おそらく「存在の意味」を問うてしまうのは人間だけであろう。犬や猫は「存在とは何だ?」「自分はなぜ存在しているんだ?」などと悩みはしないはずだ。

つまり「存在」ということの意味を(もちろん漠然とではあるが)理解しているのは人間だけなのである。

ということは、「存在」が露わになってくるのは「人間」という舞台においてであると言える。人間という現場に存在という明かりが射しているのだ。

したがって「存在」を探究しようとするならば、その端緒としてまず「人間」を分析するというのが正しい方法なのではないか。

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ハイデガーが言う通り、猫は「吾輩はなぜ存在しているのであろうか?」「存在とは何ぞや?」などと悩んだりはしていないでしょう(多分)。

もちろん動物もいろいろな存在物に囲まれて生きています。そして身の回りの存在物といろいろな関係を結びながら暮らしているでしょう。

でも彼らは身の回りの存在物を「存在するもの」「存在者」という風に一括りにして理解してはいないと思われます。

ネズミのチュー太にとってドラ猫のミイは「自分を襲ってくるアイツ」であって、他のものと同じ「存在者」というカテゴリー(分類)に入れて理解しているわけではないでしょう。

ネズミが「猫」という一般概念を持っているかすらも分かりません。その都度その都度、猫を見たら本能的に警戒しているだけの可能性もあります。

ましてや「存在者」というさらに上位のカテゴリーを理解しているとは思えません。

 

それに対して人間は森羅万象を「存在者」という括りで眺めることができます。

あるハイデガー研究者の言い方を借りると、「人間は『存在という視点』を設定できている」ということになります。

人間は「存在」という視点(ものの見方)を設定し、それを周りに投射することによってあらゆるものを「存在者」というカテゴリーに入れて理解しているのです。

人間が「存在」という視点を設定し、自分に対して現れるあらゆるものを「存在者」として眺めるというこの事態を「存在了解」と呼びます。

※ここで「了解」というのは「理解」ということです。ハイデガー研究では「了解」という言葉を使うのでそれに従っています。

 

人間というのは、「そこ」(ドイツ語でダー)に「存在」(ドイツ語でザイン)が現れてくるという、その場所なのです。

そういうことから、ハイデガーは人間のことを「現存在」(ダーザイン)と呼びます。

したがって「存在」を知るためにはまず「現存在」(=人間)を知らねばならないというわけです。

ハイデガーは「現存在はどのようなあり方をしているのか」をまず探究するのです。

 

被投的投企と世界-内-存在

 

ではハイデガーは「現存在」(人間)はどのようなあり方をしていると考えたのか。

いったん「存在」の分析から離れるように思えますが、彼の考えを追ってみましょう。

 

まず現存在は、まるで世界の中へ「投げ出される」ようにして存在させられています。

国や地域、時代、親兄弟、友人、コミュニティ、文化、言語……等々、自分で選べたわけでもない(と思える)定まった環境の真っ只中にいつの間にか存在させられています。

このような、いつの間にかある環境の中へ放り出されるようにして存在していることを「被投性」と言います。受動的に「投げ出されている」というニュアンスです。

 

しかし現存在は「投げ出されてそれで終わり」というわけでもありません。

投げ出されたその環境を受け入れて、そこを出発点にしながらも、自分の力で未来を選んでいくこともできるでしょう。

自分の未来の姿を思い描いて、今の自分をそこへ向かって「投げ込む」能動的なイメージです。これを「投企」と呼びます(「企投」と訳す場合もある)。

つまり現存在は、宿命的に過去を引き受けつつも(被投性)そこから積極的に未来へ飛び込んでいく(投企)のです。ハイデガーはこれを「被投的投企」と言います。

 

人間が「被投的投企」という生き方をしているその舞台が「世界」です。

ハイデガーは現存在(人間)を「世界-内-存在」とも呼びました。

 

世界-内-存在?

 

世界の中に存在するもの……。当たり前のように聞こえますよね(^^;)

しかしハイデガーは「宇宙という空間があって、そこに人間が一定の位置を占めている」という物理的なことを言わんとしているのではありません。

むしろここで言う「世界」とは「意味のつながり」のようなイメージです。

 

例えば……

 

僕の眼の前にあるコップはコーヒーを飲むためのもの。

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コーヒーを飲むのはリラックスるするため。

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リラックスするのは仕事をはかどらせるため。

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仕事をするのは……。

 

こういう風に、僕たちの身の回りの様々な事物はそれぞれの「意味」「目的」「意義」「価値」を持ち、それらが互いに網の目のようになってつながり合っています。

このようにしてできている「意味の網目」「意味の編み物」のことをハイデガーは「世界」と呼ぶのです。

 

そしてハイデガーが言いたいことのポイントは「現存在(人間)の態度によって世界は変わる」ということです。

 

どういうことか?

 

甲子園出場に青春を賭けている野球少年ならば、ボール・バッド・グローブといった野球用具は彼の「世界」で中心的な位置を占めているでしょう。

野球をするための道具、野球をするための時間、野球をするためのグラウンドが彼の人生の重大事となり、それ以外のものは背景に退いてそれを支える格好になるはずです。

子どもを有名幼稚園に入れたいと願っているお受験ママであれば、子どもの教育に関する事柄が彼女の人生の中心となり、それ以外のことは背景に退きます。

 

人間は未来へと自分を投げ込んでいきますが(被投的投企)、どのような未来を目指しているかによって、その人を取り巻く世界(意味の網目)は変わってくるのです。

物事は「これは大事」「これはそうでもない」という具合に序列化されて配置されていますが、人間の未来への態度によってその序列が変わり物事の再配置が起こります。

現存在(人間)の態度によって世界が変わるというのはこういう意味です。

 

現存在(人間)は「世界」(意味の網目)の中を生きざるを得ません。そのように「世界」に制約されていますが、その一方、自らの手でその「世界」を編み上げてもいるのです。

どちらか片方が先にあって、その後にもう一方があるというのではありません。現存在と世界はある意味で表裏一体なのです。

ハイデガーが現存在を「世界-内-存在」と呼ぶとき、このような複雑なニュアンスを込めているのです。

 

意味に満ちた世界

 

ハイデガーによれば、人間が存在するということは「意味に溢れる世界を生きる」ということなのです。「意味」は「意義」「目的」「価値」と言い換えても構いません。

世間のハイデガー解説本ではあまり強調されていないように思いますが、僕はこれもハイデガー哲学の最重要ポイントの1つだと思っています。

 

近現代の哲学の歴史は「世界から意味を剥がしていく」歴史でした。

機械論や唯物論が台頭した結果、人間を取り囲む世界は「物理的世界」「物質の集合」に過ぎなくなり、特別な意味や価値はないことになりました。

ついにはニーチェのような哲学者が登場し、「世界に意味などない!」と高らかに宣言する「ニヒリズム」(虚無主義)を説くに至ったのです。

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しかし人間が生きる以上、「自分なりの価値観」というものを持たずに生きていくことは不可能です。

ニヒリズムを説いたニーチェにしても、本当に世界に意味や価値がないというなら、あれほど熱心に自分の考えを主張する必要はなかったでしょう。

彼なりに「こうしたい」「こうあるべきだ」という強い情念があったからこそ、それに突き動かされて執筆していたはずです。

本当にニヒルになり切れるなら、何事にも無関心の態度を徹底し、植物のように生きればよかったのです。

人間が生きるということは、自身の周りに意味世界を形成するということです。人間がそれ以外のあり方をすることは無理なのです。それが人間というものだからです。

 

「ハイデガー(3)死を分析する」では引き続き、彼の現存在分析を見ていきます。

ハイデガー(3)死を分析する
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