アリストテレスの哲学(1)アリストテレスの生涯

哲学者ごとの解説

 

今回は古代ギリシャの哲学者アリストテレスを取り上げます。

アリストテレスはプラトンの弟子です。

 

前にも書きましたが、ソクラテス→プラトン→アリストテレスと続いた師弟関係の流れは「世界史上の奇跡」にも思えます。

この3人は西洋思想にそれぞれ絶大な影響を与えており、みんな「何百年に1人」というレベルの思想家のはずなんです。

それが連続して登場するなんて……「感嘆」とも「呆れ」ともつかない感情が湧いてきます (^^;)

 

このアリストテレス……。とにかく「超人的」と言うか、「スーパー哲学者」なのですが、今回はそんなアリストテレスの生涯をご紹介します。

 

アカデメイアで学ぶ

 

アリストテレス(前384年ー前322年)はスタゲイロスという都市国家で生まれました。ギリシャ北部のハルキディキ半島にあった都市で今はスタギラと呼ばれているようです。

スタゲイラはアリストテレスが生まれた頃にはすでに(後にアレクサンドロス大王が登場することで有名な)マケドニア王国に支配されていたようです。

マケドニア王国も(やや傍流とはされていますが)ギリシャ系の人々が建てた国です。

 

父方も母方も医師の家系で、アリストテレスの父はマケドニア王の侍医であり友人でした。幼少期はおそらくマケドニアの首都ペラに住んでいたと推定されますが、両親は早くに亡くなってしまいます。

そのため親戚に引き取られ、この親戚が住んでいた小アジア(現トルコ)に移り住んだと考えられています。

 

さてアリストテレスは17歳か18歳の頃、アテナイにあるプラトンの学校「アカデメイア」にやってきてそこで学ぶことになります。

 

師プラトンと弟子アリストテレスは共に思想史上のスーパースターです。この2人がどんな関係だったのかについては興味が尽きません。

昔の人たちもやっぱりいろいろ勝手な憶測や作り話をしていたようで、残されている逸話には信用できないものが多い(笑)。

プラトンがアリストテレスについて「あいつは(勉強しすぎだから)手綱が必要だ」と言ったとか、「読書家」と評したとか、いろいろとあります。

アリストテレスがお洒落で出しゃばりで毒舌だったから、プラトンは彼を嫌っていたとか。あるいはアリストテレスが優秀だったから「学校の精神」と評したとか。

 

ともあれプラトンが亡くなるまでの20年間、きちんとアカデメイアで研究しているわけですからそこまで関係が悪かったとは思えません。一応、弟子としての礼をきちんとわきまえて学んでいたのではないでしょうか。

 

さてプラトンが亡くなって甥のスペウシッポスという人物がアカデメイア第2代学頭となると、アリストテレスは仲間のクセノクラテス(後の第3代アカデメイア学頭)と一緒に現トルコのアッソスという都市(今は遺跡になっている)に旅立ちます。

アッソスにはプラトンを崇拝するヘルミアスという君主がおり、彼を補佐するためにアカデメイアから先に呼ばれていたアリストテレスの学友たちもいました。

その後、対岸にあるレスボス島のミュティレネに移ったりもしています。

 

「アリストテレスは自分がアカデメイアの学頭になれなかったことに反発してそこを離れた」という意見もあり、もしかするとそうかもしれません。

ただ、その後も以前の学友たちと行動を共にしているのでアカデメイア全体と完全に絶縁したというよりは、スペウシッポス以下アカデメイア主流派と少し思想的なズレが生じ始めたという方が事実に近いのかもしれません。

 

アレクサンドロスを教育する

 

アッソスやミュティレネにいた頃、アリストテレスは2度結婚しています。一度目の結婚では数年で妻が亡くなってしまいましたが、二度目の結婚で1人の息子ニコマコスを授かります。

アリストテレスが書いた西洋思想史上もっとも有名な倫理学書の1つ『ニコマコス倫理学』の名称は、この息子ニコマコスが編集したことに由来しています。

 

さて、アリストテレスはマケドニア王ピリッポス2世から当時13歳だった王子の教育係として招聘されることになります。

アリストテレスはこれを受諾し、幼少期を過ごしたであろうマケドニア王国の首都ぺラへと旅立ちます。

 

そう、この王子こそが有名なアレクサンドロス大王です。アリストテレスはアレクサンドロス大王の教育係だったのです。

王子が王として即位するまでの大体6~7年間、教育係としての務めを果たすことになります。

 

すごいですね~~。確かにすごいのですが、ただ「どんな教育をしたのか」はまったく分かっておりません(笑)。

昔の人たちは「偉大な哲学者の偉大な教育により偉大な帝王が生まれ、そのおかげで偉大な業績を遺したのだ!」と妄想しがちでした。

反対に近現代の学者さんたちはそういう夢のある話を潰すのが大好きなので(^^;)「アリストテレスの教育に大した影響なんかなかっただろう」などとつまらないことを言いがちです。

 

真相は不明ながら、アレクサンドロスが征服した先々にギリシャ文化を根付かせていったことなどを考えると、僕としては「(ギリシャ優越主義者だった)アリストテレスの影響もあったんじゃないかな~」などと考えてしまいますね。

 

アレクサンドロスはアカデメイアのあったアテナイをも支配します。

教育係の大任を終えたアリストテレスはおそらく凱旋に近い感じでアテナイに帰還し、師プラトンのアカデメイアとは別の学園「リュケイオン」を開きます。

アリストテレスは学園の散歩道を歩きながらいろいろと議論したとされます。散歩道のことをギリシャ語で「ペリパトス」と言うことから、彼の学派は「ペリパトス学派」などと呼ばれます。歩き回っていたことから「逍遥学派」とも言います。

 

この時期がおそらく彼の人生の絶頂期だったでしょう。

 

晩年期

 

しかし紀元前323年、アレクサンドロスが遠征中に病気で亡くなると事態が急展開します。

大王の死をきっかけにアテナイでも反マケドニア熱が高まり、当然ながら「親マケドニア」と見られていたアリストテレスの立場も危うくなったのです。

単なる言いがかりでしょうが、瀆神の罪で告訴されるなど実際に身の危険を感じるようになります。

そこでアリストテレスは「アテナイ市民に再び哲学を冒瀆する機会を与えないために」と言って同じギリシャのカルキスに逃れます。

 

彼の「再び哲学を冒瀆する」云々と言うセリフは、何十年か前にアテナイ市民がソクラテスを死刑にしたことを念頭に置いたものですね。

中には「ソクラテスと違って逃げたのか~~」と仰る人もいるかもしれません。ただソクラテスは「死して生き様を遺す」という選択をしたわけですが、アリストテレスの場合は少し事情が違いました。

書いたものを遺さなかったソクラテスと違って、アリストテレスは著作をする哲学者でした。未完のまま残っている自分の草稿を整備しなければ世界に貢献できません。

だから生き延びてきちんとした著作を後世に遺すことを使命と考えたのではないでしょうか? 少なくとも僕はそう解釈したいです。

 

しかし皮肉なことに、アリストテレスにさほどの時間は残されていませんでした。亡命の翌年、胃の病のために帰らぬ人となりました。62歳でした。

 

このため、現代に伝わっているアリストテレス著作集とされるものは、本人の手による最終チェックを受けていない草稿群だと言われています。

本人が用意した講義用ノート、覚え書き、弟子による聴講ノートなども多く混在しているのです。

また若い頃に発刊され、古代にはよく読まれていたアリストテレスの著書がかなりあったようですが、それは今日ほとんど失われて断片しか残っていません。

 

しかし、それらは未完の草稿であるにもかかわらず、歴史を変えるのに十分な威力を秘めていました。アリストテレスの哲学はなんと約2千年もの間、文系・理系を問わず学問の世界を支配することになるのです。

 

「アリストテレスの哲学(2)すごい業績を大まかに紹介」では、彼の業績をごく大まかにご紹介します。

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