ハイデガー(1)「存在」を哲学する

思想の解説

 

今回からドイツの哲学者ハイデガー(Martin Heidegger / 1889-1976)を紹介していきます。しばしば「20世紀最大の哲学者」とも呼ばれる人物です。

非常に奥深い思想を生んだ一方、「ナチスに協力した哲学者」という汚名も負っていて、いろいろな意味で問題含みの人です(汗)

そんなハイデガーの思想を、なるべく平易な言葉で解説してみたいと思います。

 

存在の忘却

 

ハイデガーが生涯をかけて探究したテーマはズバリ「存在」です。「存在するとはどういうことなのか」「存在するということの意味」ですね。

西洋の哲学の歴史において、この「存在」についての考察は忘れ去られていたとハイデガーは主張したのです。

 

①「存在」の探究は「真に存在するもの」の探究ではない

 

もちろん、過去の思想家や哲学者たちが「存在」についてまったく言及しなかったわけではありません。

例えばプラトンの「イデア論」などもある種の存在論でしょう。プラトンは「目に見える事物は幻のようなもので、真に存在すると言えるのは『イデア』だ」と説きました。

イデア論については下の記事を参照。

↓↓↓↓↓↓

プラトンの哲学(3)イデア論とはどんなもの?
「プラトンの哲学(2)ソクラテスの教え」では、プラトンの師ソクラテスの生き様と教えを紹介しました。 それでは、ソクラテスに学んだプラトン自身はどんな哲学を遺したのでしょうか? ポイントはいくつかありますが、今回は「イデア」...

 

これに対して「真に存在すると言えるものは『物質』だ」と答えるのが唯物論ですね。

 

しかしハイデガーに言わせるなら、イデア論であれ唯物論であれ、これらは「何が存在しているのか」の探究ではあっても「存在そのもの」の探究ではありません。

つまり「本当の意味で『存在する』と言えるものは何か?」という疑問に対して、それぞれ「それはイデアだ」「いや物質だ」と答えているだけです。

ハイデガーはそうではなく、まず探究すべきことは「そもそも『存在する』とはどういうことなのか」(存在の意味)だというのです。

このように、ハイデガーの言う「存在そのもの」の探究とは「何が存在しているのか」の探究ではありません。

 

②「存在」の探究は「存在するものの本質」の探究でもない

 

また「存在そのもの」の探究は「存在するものの本質」を分析することでもありません。

例えばデカルトは存在者を「精神」と「物体」の2種類に分けました。そして精神の本質は「思考すること」、物体の本質は「3方向に広がっていること」だと述べました。

これもハイデガーには不満足です。デカルトは精神の本質(すべての精神に共通する特徴)および物体の本質(すべての物体に共通する特徴)を指摘しているに過ぎません。

デカルトは「存在者に共通する特徴」を述べてはいるが、それは「存在そのもの」の探究とは異なるというのですね。

 

このような「何が真に存在するのか」「存在するものの本質とは何か」というのは、「存在するもの」についての探究ではあっても「存在そのもの」の探究ではありません。

まず「存在そのもの」を探究して、その後に「存在するもの」へと考察を進めるのがスジであるのに、過去の哲学者たちはこの最初のステップを抜かしていると仰るのですね。

過去の哲学者たちは「存在するもの」(存在)は扱ってきたが、「存在そのもの」の探究は忘れ去られていたのだとハイデガーは言うのです。

これを「存在忘却」と言います。そしてハイデガーは「存在そのものの意味」を問う彼自身の哲学を「基礎存在論」と呼びました。

 

「存在の意味」を問う

 

それではハイデガーの言う「存在そのもの」の探究って何なのか。例えば次のように考えてみてはどうでしょうか。

 

人間は深い絶望に陥ると「うおぉー、なぜ俺は存在してしまっているんだー!」とか「私なんかが存在する意味なんてあるの?」とか考えてしまうことがあるでしょう(多分)。

こういうときに自分自身の「存在」に意義が感じられず、無意味感・虚無感に負けてしまうと自殺に至ったりするのかもしれません。

このように、人間は自分自身の「存在の意味」を問うてしまう生き物です。ここでは自分という1人の人間の「存在」が問題になっているわけです。

ここで悩みの渦中にいる人が聞きたい答えは「真に存在するもの」(イデアとか物質とか)でも「すべての存在者に共通する特徴」でもないでしょう。

彼らが求めているのは、自分自身が「存在することの意味」です。「どうして存在しているのか」という理由です。

 

ここで「どうして存在しているのかの理由」と言っても「それは君のお父さんとお母さんが出会って……云々」ということではありません(^^;)

存在の意味を問う人たちが知りたいのは、そういう物理的次元の話ではないはずですよね。

なぜか僕たちは、物理的な理由とは別に「存在の意味」「存在の理由」があると考え、それを求めてしまうのです。

ハイデガーが問うているのは、まさにこういう人たちへの回答になるような「存在の意味」なのです。

 

もちろんハイデガーは特定のAさんやBさんだけの「存在の意味」を問題にしているわけではありません。

AさんやBさんではなく(それが何であれ)そもそも「何かが存在する」のはどうしてなのかということです。

人間はもちろんですが、動植物なりその他の自然物や人工物なり、とにかく何かが「存在していること」の意味や理由を解き明かそうというのです。

Aさんが「なぜ俺は存在しているんだー!」という疑問をさらに深化させて「そもそもなぜ世界なんてものが存在しているんだー」と叫んだとしましょう。

ここまで来ると、ハイデガーの意図する「存在そのもの」の探究に近いかもしれません。

 

そもそもなぜ(無が支配しているのではなく)何かが存在しているのか?

 

まとめると、これこそがハイデガーが探究しようとした問題です。

しかし先ほども言いましたが、これは物理的次元の話ではありません。

何かが存在している理由と言っても、「ビッグバンがあって……」「それ以前にインフレーションが……」ということを探究しているわけではないのです。

 

これは、神学者であれば「神」を持ち出して説明するような宗教的な問題です。「世界に何かが存在するのは、『神』がそれらを創造されたからだ」というわけです。

これなら確かに物理的・科学的な説明を超えた説明です。ビッグバンやインフレーションで宇宙の始まりを説明するのとは違いますよね。

ビッグバンで宇宙ができた。その前にインフレーションがあった。その前には量子の揺らぎがあった。その前には……。

このようにして仮に時間の開始点に到達したとしても、そこで何らかの出来事が起きたのはなぜか? そもそも時間というものがあるのはなぜなのか?

このように考えてくると、存在の探究が物理的次元を超えて(あえて言うなら)宗教的な次元に突入していることがお分かりかと思います。

 

現代の知識人の中には、物理的・科学的ではない「存在そのもの」の探究ということをバカにしてハイデガーを無視する人もいます。「そんなの非科学的だ」というわけです。

でも先ほども言いましたが、人間はそもそも物理的な説明だけでは満足できない存在です。

ならば、そうした人間の真実にリアリティを認めて、科学を超えた探究をしたっていいはずです。「科学がすべて」などとは誰も証明していないのですから。

ハイデガーの「存在そのもの」の探究、「存在の意味」の探究はまさにそうしたものです。

 

そういうわけで、ハイデガーの存在論は非常に宗教的な色彩が強いものだと僕は解釈しています。

確かにハイデガーは「神」を直接に持ち出すことはせず、「存在」を何とか哲学の範囲内で説明しようとしています。

20世紀の哲学者として、「神」を明確に思想の中心に据えるということはカッコ悪いと思ったのかもしれません。まぁ、ちょっとスカしているんですよ(笑)

しかしこのような問題を提起して考察しようとするあたり、根本的には宗教的な感受性を持っていた人だと思います。

ハイデガーを「無神論的」と評する向きもありますが(僕の手元にある『高校倫理』の参考書にもそう書いてあります)僕としてはやや承服しかねるところです(^^;)

 

さて「存在そのもの」「存在の意味」を探究するといっても、どこから探究を開始すればいいのでしょうか?

何をきっかけにして「存在そのもの」へ迫っていけばいいのでしょう?

ハイデガーによれば、それは他ならぬ人間(=現存在)です。

次回「ハイデガー(2)現存在(人間)と世界」では、「存在」分析の端緒に位置するハイデガーの「人間」分析をご紹介します。

ハイデガー(2)現存在(人間)と世界
前回記事「ハイデガー(1)『存在』を哲学する」では、ハイデガーが「存在の意味」を探究したことをご紹介しました。 なぜ(無が支配しているのではなく)何かが存在しているのか。ハイデガーはこれを探究しようとしました。 これは「ビッ...

 

 

 

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