ヘーゲル(2)正・反・合の弁証法

哲学者ごとの解説

前回「ヘーゲル(1)ヘーゲル思想の超超超入門」では、ヘーゲル思想のアウトラインをごく大まかに紹介しました。

ヘーゲル(1)ヘーゲル思想の超超超入門
今回はヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel / 1770-1831)の解説をしたいと思います。 ヘーゲルは近代までの思想をある意味で集大成・体系化した人物で、その思想のスケールは「巨大」の一言に尽きます...

 

今回はヘーゲル思想の代名詞である「弁証法」について簡単に説明したいと思います。

この弁証法という考え方はヘーゲルからマルクスに受け継がれて、共産主義者たちはこれに基づいて歴史や社会の分析をしていました。

またインテリの世界では共産主義の影響がとても強かったので、「弁証法」もそうですがヘーゲルからマルクスに受け継がれた概念をよく使っていたようです。

1960年代から70年代にかけての学生運動では、インテリ学生たちが「君、それはベンショーホー的じゃないね」「お前の考えこそアウフヘーベンされていない」などなど、意味不明の会話をしていたようです。

今はさすがに少し廃れたと思いますが、団塊の世代には「懐かしい響きだ」と思う方もおられるかもしれません。

 

前回のおさらい

 

では前回のおさらいから。

 

ヘーゲルによれば、この世界のあらゆる事物・あらゆる現象は「絶対者」「神」の顕現(自己表現)なのでした。

自然現象もそうですし、人間が営む文化現象や社会現象もそうです。大自然も神の顕現であり、文化現象(芸術・宗教・学問)や社会現象(道徳・法律・政治・国家)も神の顕現です。

しかしながら、そのような自然現象や文化現象のすべてを貫く「ロゴス」(摂理)ようなものがあります。この「ロゴス」(摂理)によって自然現象や文化現象は発展していくのです。

絶対者(神)は自然現象や文化現象として自らを顕現させるより前に、まずこうした「ロゴス」あるいは「摂理」として存在します。

というわけで、絶対者(神)は以下のような3部構造になっています。

 

① ロゴス(摂理)としての絶対者

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② 大自然として現れる絶対者

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③ 人類の文化として現れる絶対者

 

この①「ロゴス」(摂理)こそが「弁証法」です。つまり、あらゆる自然現象・文化現象・社会現象はこの弁証法というメカニズムに従って展開していくというわけです。

 

弁証法の簡単解説

 

では、その「弁証法」とはどんなメカニズムなのか。ごく簡単にまとめます。

 

〔正〕まず最初の状態がある。

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〔反〕最初の状態に潜在していた矛盾が明らかになり、対立が現れる。

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〔合〕対立が統合され、より高い状態へ移行する。

 

これです(笑)

たまに「正・反・合」という表現を聞くことがあるかもしれませんが、それはここから来ています。

※ちなみにヘーゲル自身は「正・反・合」という用語を使っておらず、「即自」「対自」「即自かつ対自」などと表現しています。

とは言えピンと来ないと思いますので、ちょっとだけ例を挙げましょう。

例えば人間の成長ということであれば……。

 

〔正〕幼年時代:最初にあるがままの姿。

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〔反〕青春時代:「現実の自分」と「あるべき自分」が分裂し、煩悶する状態。

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〔合〕大人:「現実の自分」が「あるべき自分」となり、統合された状態。

 

このあたりは何となくイメージしていただけるでしょうか。

小さい子どもの頃はただ素直に存在しているだけです。しかしやがて自我が芽生えて思春期を迎えると、将来の目標が出てきたり「自分探し」を始めたりするようになります。

現状の自分と理想の自分との矛盾が生じ、それがぶつかり合って葛藤するわけですね。

一通りそういう経験をしていい大人になると(理想を諦めて現実に合わせるか、理想を実現して現実にしてしまうかはともかく)理想と現実の距離が縮まって落ち着いていくでしょう。

 

思春期に出てくるような矛盾・対立はその時期にならないと出てきませんが、人間である以上、それは子どもの頃から潜在していたのです。

子どもの中に潜在していた矛盾が思春期に顕在化しますが、その矛盾状態はさらに高次の大人の段階に移行することによって解決します。

矛盾の状態は決して「なくてもよかった」というものではありません。それがあるからこそ大人になれるわけです。思春期の葛藤を経るからこそ「心が成長する」というか、人間としての認識力がアップしますよね。

 

単純な論理学では、「A」ということを否定して「非A」にして、さらにその「非A」を否定するともとの「A」に戻ります。「否定の否定」は元通りです。

でも現実はもっと奥深いとヘーゲルは考えるのです。真に大人になっていれば、青春時代のような分裂・葛藤は克服しています。その意味では幼い頃と同じ統一状態にあります。

しかし大人と子供は違います。元に戻っているわけではありません。もともとの統一状態(正)と分裂と葛藤を克服してから実現した統一状態(合)とでは、言わば「深み」が違います。

 

ヘーゲルはこの弁証法こそが世界の根本法則だと考えました。「あるものが分裂し、また元に戻る。しかし戻ったものは元よりも複雑かつ高度なものへと進化している」ということです。

 

廃棄しつつ保持する「止揚」

 

 

もっとスケールの大きな歴史も弁証法的に展開します。

 

〔正〕古代:個人が共同体との一体感を感じている世界。

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〔反〕中世:自由な個人と共同体の論理が分裂・対立する世界。

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〔合〕近代:個人の自由が共同体の論理として吸収され両者が和解する世界。

 

これはかなりヘーゲルの歴史観が色濃いものですが、やはり弁証法のかたちになっています。

ヘーゲルによれば、古代は社会(共同体)とその構成員(個々人)との一体感が非常に強い時代でした。言うなれば「国家の栄光は俺の栄光」「国家の死は俺の死」という感じでしょうか。

しかし中世では(キリスト教の影響などによって)人々が内面世界を開拓するようになり、個々人の「心」の重要性が増してきます。あるいは個人の自由ということが意識されるようになります。

こうなると国家や共同体の論理と個人の自由とが衝突する場面が出てくるでしょう。

隣国と戦争している国家としては兵士としてバンバン死んでほしいのに、個々人は個々人で独立した意志を持ち始めて、盲目的に従うのを嫌がるようになる。

仕方ないので、国家としては個人の「自由」や「人権」を保障する近代的制度を備えるようになる。こうして誕生した近代国家では国家の論理と個人の対立は解消され、お互いに貢献し合う関係が生まれる。

 

大体こんな感じです。

この例でも、矛盾・対立のステップがなければ次の段階に移行できないことは明らかですね。

個人の自由と共同体の論理がぶつかるという経験がなければ、共同体の制度として自由が保障される社会もできなかったはずです。

こうした意味において、弁証法における矛盾・対立というステップは「棄てられつつも保持される」としか言えません。単純に否定されるのはなく、次の段階の中に生きているのですね。

弁証法における「棄てられつつも保持される」という側面をヘーゲルは「止揚」(アウフヘーベン)と呼びました。

 

絶対者の3部構造もまた弁証法的です。

 

【第一段階】

絶対者はまず「ロゴス」(摂理)である。〔正〕

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【第二段階】

ただロゴス(摂理)として存在するだけでは抽象的であり、具体的に展開する場面がない。だから絶対者はロゴスに対立する自然を生む。

絶対者は「自ら(ロゴス)が自ら(自然)に対立する」という展開に移行する。これは絶対者が自己分裂している状態である。〔反〕

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【第三段階】

物理的自然という有限で目に見えるものへの展開は、絶対者にとっては堕落であり自己疎外でもある。鈍重な物質をまとったロゴスはさらなる自己発揮を求める。

物理的自然の制約を超えた活動をするのが思考する存在すなわち人間である。自然から生まれた人間は思考活動を開始し、そこから文化や社会が生まれる。

物理的自然を舞台に人間が精神活動を付け加えることによって、そこに再びロゴスが顕現する。自然とロゴスが統合される。〔合〕

 

これがヘーゲル哲学の一番大枠での弁証法ですね。絶対者は3部構造になっていますが、1つひとつの構造はまたその内部で弁証法的構造を持っています。弁証法が何重にもなっているわけです。

 

哲学的情熱の功罪

 

いやはやすごいスケールではありますが、ヘーゲルはすべてをこの弁証法で説明しようとします。

あらゆる現象の根底にある原理というのですから、当然ながら物理法則もこの弁証法に従って存在していることになります。

ヘーゲルの「自然哲学」では、例えば惑星の運行法則(ケプラーの法則)や落体法則といった物理法則も弁証法から無理やりに説明しようと試みています。

したがってすごいコジツケ……じゃなかった、「込み入った説明」になっています。中世の錬金術や占星術の文献のような箇所もあるくらいです。

 

僕としては、自然現象の背後に何らかの「神秘的な摂理」(ヘーゲルの場合は弁証法)を感じること自体は構わないと思っています。

それが偏見となって科学者としての客観的な視点を曇らせてしまってはいけませんが、「まずは事実を尊重する」という態度さえあれば、神秘思想そのものに大きな問題があるとは思いません。

けれどもヘーゲルの場合、「弁証法で完璧に説明しなければ意味がない」という哲学的情熱が強すぎたために(特に物理現象の説明のあたりで)無理が生じているわけです。

例えば「弁証法のおかげで自然が成り立っている」という思想を主張する場合、僕だったらただそう言うだけで満足すると思うのです。

もちろん学問ですから「そう思う理由」を自分なりに補足するかもしれませんが、その程度でしょう。反対意見があっても、それはそれで仕方ありません。

でもヘーゲルは「その摂理からどのようにして自然現象が成立しているか、それを詳細に説明すべきだ」「そこまでやらないと哲学ではない」と考え、実際にやってしまっているのです(^^;)

その執念のせいで、ヘーゲルの自然哲学は現代人の視点からするとかなりヘンテコなものになってしまっています。

ついでに言うと、へ―ゲルは「ドイツが最高!」という人なので、イギリス人であるニュートンの業績に一生懸命にケチをつけるというイタイこともやっています。

 

神秘的な力や原理が存在することを「想定すること」と、それを用いて「無理やりに説明してしまうこと」とは違うという教訓になると思います。

学問的情熱にも使い方があるということですね(汗)

 

次回「ヘーゲル(3)神と人間の繊細すぎる関係」では、「神が人間活動として現象化する」という部分にもう少し踏み込んでみたいと思います。

ヘーゲル(3)神と人間の繊細すぎる関係
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