ロック(2)ロックの社会契約説

哲学者ごとの解説

 

前回記事ではジョン・ロックの生い立ちを時代背景とともにご紹介しました。

ロック(1)歴史を動かした哲学者
今回からイギリスの哲学者ジョン・ロック(1632-1704)を扱いたいと思います。 前回までホッブズの思想を紹介しましたが、ロックはその次の世代に属する人です。 ホッブズについては以下をご参照ください。 ホッブズは「国家は...

 

今回は主著『市民政府二論』で説かれたロックの政治思想について論じてみます。

 

ホッブズの考える自然状態と社会契約

 

ロックの政治思想は「社会契約説」の系譜に属するものです。

ホッブズの記事で述べましたが、この「社会契約説」とは「国家は人々の〈契約〉によって成立したとし、国家の正統性を契約に求める思想」です。

この点ではホッブズもロックも同じです。しかし2人の社会契約説はかなり色合いが違ったものになっているのです。

 

ホッブズの考える自然法(社会が生まれる前の自然状態で人々を支配している法)とは「汝、生き残るべし!」(サバイバル)というものでした。

そして原初的な自然法はこれだけなのです(ここから付随的にいろいろ出てはきますが)。

だからホッブズの描く自然状態は「万人の万人に対する闘争」になります。

つまり自分が生き残るためなら人を殺したって人が持っているものを盗んだっていいのです。「殺人の禁止」「窃盗の禁止」なんてものは自然法の中に含まれていませんから。

 

でもそんな無法状態だと、自分もかえって危険なので人々は〈契約〉を結んで「何でもアリ」を止めるわけです。

本来なら、自分のために人を殺す権利も他人のものを盗む権利もあるのですが、こういう権利(自然権)を譲渡して1箇所に集めるのです。その譲渡先が社会(国家)です。

そのように社会を設立してはじめて「殺人禁止」「窃盗禁止」などのルールや法律が定められることになります。

 

ロックの考える自然状態と社会契約

 

しかしロックではまったく違います。

自然状態においてもすでにある程度の社会ルールは確立されているとロックは考えます。契約は有効ですし所有権も確立されています。もちろん人殺しも盗みもダメです。

この段階においてすでに各人の「身体的自由」は絶対です。つまり国家が設立されていようがいまいが、そもそも人を拘束したり傷つけたり殺したりしてはいけません。

すでに「これは僕のもの」「あれは君のもの」という所有権があるので窃盗もNGです。

また「約束は守る」というのは当たり前の話で、「国家が設立された後だから守る」というものではないでしょう。自然状態でも契約は当然有効です。

このようにロックの想定する自然状態では、かなり内容の充実した自然法がすでに支配しています。「善悪」「正不正」がすでに存在するわけです。

 

じゃあどうしてわざわざ社会契約をして国家を設立するのか?

確かにロックの考える自然状態はすでに「わりと平和」な状態です。しかしあくまで「わりと」平和であるに過ぎません。

やっぱりときどきは不心得者が出てきて人のものを盗んだりします。また所有権が曖昧だと争いが生じることもあるでしょう。

そうなる場合に備えて、人々は自然状態においてすでに持っていた自由や権利を同意によって「確定」「保障」する必要があるのです。

そして自由や権利の保障を実効的なものにするためには、争いがあれば調停し、法の違反者がいれば罰する共通の権力を定めなければならないでしょう。

それが国家であり、国家を設立するのが社会契約なのです。

つまりロックによれば、国家はすでにある人々の生命・財産・自由・権利を保障するためにこそ存在し、国家はそれを守ってナンボなのです。

そしてそのために人々は自分たちの代表を議会に送り込み、行政権(例えば王様)と対峙させます。そして行政権力を牽制して抑制するわけです。

これがすなわち民主主義です。ロックの考える民主主義とは「人々の自由や権利を守るための制度」であるということですね。

 

ちなみにロックもすでに「三権分立」を説いていますが、それは「立法権」「行政権」「外交権」が互いに牽制し合うというものです。

僕たちが考える「立法権」「行政権」「司法権」の三権分立は少し後のモンテスキュー(1689ー1755)が唱えたものです。

ロックにおいては司法権は行政権の一部と見なされ、行政権とは別に外交権というものが想定されていたのですね。

 

背景にある宗教思想

 

ロックは、生命・財産・健康・信仰を守る権利や、そのための自由などをまとめて「プロパティ」と呼んでいます。

この単語は現代でも(ものの)「特質」「財産」「土地」「資産」「所有権」など幅広い意味がありますが、ロックの用法はさらに広いようです。

 

人々はこの「プロパティ」を保障するために契約によって国家・社会を創造します。

そしてロックによれば、プロパティとは「各人が神の召命としての職業に勤しむ」という神への義務の手段としてこそ重要なものなのです。

つまり人間の自由や権利や尊厳の根拠は「神」であるし、それらの自由や権利は神への奉仕のために用いてこそ価値があるものだというのです。

自然状態においてすでに充実した自然法があると想定されていましたが、この自然法の根源にあるのはやはり神ということになるでしょう。

最初から「汝、殺すなかれ」「汝、盗むなかれ」という(プロパティを守るための)自然法が存在するのは、神が人間にそう命じているからだというわけですね。

 

ロック政治哲学の背景にあるこうした宗教思想はずっと軽視されてきました。ロックを宗教性の希薄な世俗的思想家と見なす傾向が長らく続いてきたのです。

しかし20世紀後半からは、そうした従来の見方を修正し、きちんとロックの「キリスト教思想家」としての性格を捉えようとする解釈が出てきています。

ロックは人間を「神の作品」と呼び、「神を取り去ることはすべてを解体することだ」と述べているのですから、この新しい解釈の方が正確なロック像であると言えるでしょう。

 

抵抗権・革命権の思想

 

ホッブズの考える自然状態では「生き残るためには何をしてもよい」という唯一の自然法があるだけで、それ以外はノールールです。正義や善悪はまだ定まっていません。

善悪や社会ルールが決まるのは、国家が成立してそれらを定めるからです。自由や人権の範囲も国家が決めることになります。

まるで「本来なら人間には自由も人権もないのだが、ありがたいことに国家がプレゼントして下さる」と言わんばかりですね。

これだと良くて「権威主義国家」、悪ければ「全体主義国家」になってしまうでしょう。

 

ロックはこれとは違います。

人間はもともと神によって定められた自由と人権を持っています。善と悪も神が定めています。国家というものはそれを守るためにこそ存在するのです。

そしてここからさらにラディカルなロックの主張が出てきます。

それは「抵抗権」「革命権」の肯定です。

つまり「国家の存在意義は人々の自由と人権を守ることにあるのだから、国家が反対にそれを侵害してくるなら人々は抵抗してよい。革命を起こして倒してもよい」という考えです。

 

これは政治思想としては必要な考え方だと思います。

例えば北朝鮮や中国のような全体主義国家がどれだけ人々を弾圧しても「人民はそれに反旗を翻してはならない」というのでは困ります。

国民の自由と人権を踏み潰して恥じないような国は、そのままでは容認できません。

 

しかし革命権の思想をあまり濫用されてもまずいことになります。

人々が安心して暮らせる程度には自由と人権が守られているのに、その国を転覆させようとする勢力がいるなら、それこそ大多数の人にとっては迷惑な話でしょう。

したがって基本は(その国に何か問題があるとしても)体制内で改善・改革を目指してゆくべきで、革命は万策尽きた後の「最後の手段」であるべきだろうと思います。

革命権思想は一歩間違えると「劇薬」になりかねないので、カントのように基本的にはロックの政治思想を継承している哲学者であっても否定しているくらいなのです。

 

資本主義の基礎づけ

 

実はロックは経済に関しても重要なことを論じています。

資本主義の思想家と言えばまず「アダム・スミス」の名前が出てくるかもしれませんが、ロックはスミスに先立ち、資本主義思想の基礎を固めていたのです。

 

国家は人々の生命と財産を守るために設立されるのでしたね。そして財産とは経済活動によって獲得されたものです。

つまり経済活動は国家に先立って存在するわけです。

経済活動が先に存在し、これを守るのが国家なのですから、経済が国家よりも優先するのは当然ということになるでしょう(これが常に正しいかどうかは検討の余地ありですが)。

人々の経済活動はある意味で神聖なものであり、国家がおいそれと手出しすべきものではないという考え方の基礎となったわけです。

国家が税金を集めるにしても、それは「国民の財産を守るための必要経費として」です。税率が高くなりすぎて人々の財産権を侵害するようになったら完全に本末転倒だと言うべきでしょう。

 

さらにロックは「所有権の絶対」と「契約の絶対」を説いていました。これは自然法であり国家が守るべきものです。

この2つが成立していることを経済学的には「市場の普遍性」と呼ぶそうです。「すべての財の所有権が確立され、財についての契約を双方の同意によって結べる」ということです。

そしてこの「市場の普遍性」がなければ資本主義経済を営むことができません。

ロックは資本主義成立の条件をうまく捉えていたというわけです。

 

もう1つ、経済に関してロックが語った重要な考え方が「労働価値説」です。これはスミスやマルクスにも受け継がれた説です。

これには広い意味(広義)と狭い意味(狭義)の2つがあるのですが、ロックの段階ですでに両方の意味で使われているように思えます。

まず狭義の労働価値説は「商品の価値(価格)は、その商品を生むために必要な労働量(さらに言えば労働時間)によって決まる」というものです。

これに対して広義の労働価値説は「労働が富を生む」というごく一般的な考え方です。

 

結論から言えば狭義の労働価値説は間違いです。商品価格は労働量だけでは決まらず、価格決定にとってはむしろ「需要と供給の関係」の方がずっと本質的です。

しかし広義の「労働によって富を増やせる」というのはまさにその通りでしょう。

ロックが「自然状態は『万人の万人の対する闘争』にはならない」と考えた理由も、実は広義の労働価値説と関係していると思われるのです。

みんなが労働に励んだ結果として社会全体の富が増えるなら、富を奪い合う必要はなくなります。だからロックの自然状態はわりと平和なわけです。

 

これに対してホッブズが自然状態を「万人の万人に対する闘争」と考えたのは、もしかすると「労働が富を増やす」という視点がなかったからかもしれません。

資源や富は総量の増えない有限なものなので「誰かが取れば誰かが取れなくなる」というゼロサムゲームになります。自分の生存を確かなものにするには奪うしかない……。

だから自然状態は闘争状態になるわけですね。

これに関連することですが、貧困を無くしたいなら(マルクスのように)「富を平等に分配する」ことを考えるのではなく「富の総量を増やす」ように努力することが最優先です。

 

いずれにせよ経済に対する理解があるかないかが、その思想家の人間観や政治哲学に大きく影響することがあるのです。

次回はロック政治思想のその他の論点を取り上げたいと思います。

ロック(3)ロックの「寛容論」から考える
前回記事ではジョン・ロックの「社会契約説」について説明しました。 今回は彼の有名な「寛容論」などについて述べてみたいと思います。 ロックの政教分離論 ロックは「人々の生命や財産や自由を守るために行政権力を牽制する」...