プラトンの哲学(4)プラトンの国家論

哲学者ごとの解説

 

 

「プラトンの哲学(3)イデア論とはどんなもの?」では、この偉大な哲学者の中心的なテーマである「イデア論」についてご紹介しました。

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今回は、プラトン哲学のもう1つの柱である「国家」についての思想を見てみたいと思います。政治思想のところですね。

 

魂と国家の「3部分説」

 

プラトン中期の大作で『国家』という本があります。これは国家論や政治思想だけが書かれているわけではありません。

イデア論のまとめにもなっていますし、プラトンの霊界思想も出てきますし、「善とは何か」という話もありますし、とにかく論点が多いんです。

後世の西洋思想にとてもとても大きな影響を与えた本です。

とは言え内容全体を概観するのは難しいので、泣く泣くポイントを絞ってお伝えします。

 

『国家』の議論は「正しさ(正義)とは何か」という探究からスタートします。そもそも何かが「正しい」とはどういう意味なのか? これを調べようというわけです。

ソクラテスなど『国家』の登場人物たちはまず「国家の正しさ」から話を始めることにします。

ある国がどういう状態にあれば「その国は正しく営まれている」「その国は正義に適っている」と言えるのだろうかということですね。

途中の議論をすっ飛ばして結論だけ言うと、そこで「正しい(正義に適った)国家」と認められたのは次のようなものです。

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国家の階級は3つある。

1番上は「守護者」(統治者)の階級。1人か複数人かはともかく、いずれにしても少数精鋭のエリートたちですね。

2番目は「軍人」階級。国を防衛するために戦う人たちです。

3番目が「生産者」階級。要するに生産活動に従事する農夫・職人・商人などの一般民衆ということでしょう。

守護者階級は「理知」(ロゴス)を、軍人階級は「気概」を、生産者階級は「欲望」をそれぞれに体現しているとされます。

守護者は理知をしっかり発揮して「智慧」をもって統治する。

軍人は気概をしっかり発揮して「勇気」をもって戦う。

生産者は欲望をしっかり抑制して「節制」した生活を送る(なぜかこれだけ抑制ですが……)。

この「智慧」「勇気」「節制」こそが各階級がそれぞれ身に付けるべき「徳」だというのです。

そして国家の「正しさ」(正義)とは「各階級による「智慧」「勇気」「節制」がバランスよく実現していること」に他なりません。

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そしてプラトンは、以上の理想国家論をモデルにして、人間個人の「魂」についても論じていくのです。

個人の魂もやはり「理知の部分」「気概の部分」「欲望の部分」の3つに分かれており、それぞれに対応して「智慧」「勇気」「節制」の徳がある。

そしてそれらの徳がバランスよく実現していることが「正しさ」であり、そういう人こそ「正しい人」だと言える。……と、大体こんな感じの結論ですね。

魂と国家を対応させるプラトンの方法を、専門的には「国家と魂のアナロジー(類比)」などと呼ぶことがあります。

 

ちなみに、ここでプラトンが整理した「智慧」「勇気」「節制」「正しさ」(正義)という4つの徳は、後世のヨーロッパで「枢要徳」(cardinal virtues)と呼ばれて重視されていくことになります。

 

哲人王

 

さてプラトンの政治思想ということでは、よく「哲人王」というキーワードが出てきます。

プラトンによれば「哲学者が王となるか、王が哲学をやるか、このどちらかでないと国は不幸になる」というのです。

 

「王」と言うと「1人でないといけないのか」とも思いますが、『国家』を読んでみると特にそういった含みはなく(少数精鋭ではありますが)複数でもいいようです。

このような最善の政体は「優秀者支配制」と呼ばれます。

優秀者支配制の元のギリシャ語は「アリストクラティア」で、「最善なる者の支配」という意味だと言います。

よく「貴族制」と翻訳される言葉ですが、プラトンの場合は家柄や財産に基づく“いわゆる貴族制”を指しているわけではありません。

統治者(候補生)たちは若い頃から訓練され、肉体的にも頭脳的にも優れた人物となるべく教育されます。

中でも最も大切なのは哲学であり、それによって彼らは物事のイデアを理解できるようにならなければいけません。

なぜなら「善とは何か」(善のイデア)や「正しさとは何か」(正しさのイデア)を理解しなければ、人々を正しく統治して国を運営することはできないからです。

 

ちなみにプラトンの政治思想でよく取り上げられるトピックに「妻子の共有」というものがあります。

つまり「妻(あるいは夫)および子供はみんなの共有物であり、特定の誰かのものではない」という考え方です。

現代の僕たちからするとビックリするような発想ですね(汗)。

子作りのために一時的に男女が結びつくことはあっても、ずっと結婚生活をしてはいけません。

なぜなら「あの女は俺のものだ」「あの男は私のものよ」などと言って人間の所有関係を定めてしまうと、社会を分断して国家の一体性を損ねてしまうからというのです。

この発想からは当然「財産の共有」も出てきます。私有財産は持てないわけです。

 

プラトンはこういうことを言うので、単なる空想家のように扱われることもありますが、少しフォローしますとプラトンは別に「全国民がこうなるべきだ」と言っているわけではありません

この「妻子の共有」は統治者階級だけの話です。「財産の共有」は統治者階級および軍人階級だけ……。

つまり一般大衆は普通に結婚していいし財産を持っていてもいいわけですね。なのでプラトンを「共産主義者」「社会主義者」と言うと、ちょっと誤解を生んでしまうと思います。

 

ともあれ、統治者階級の人たちはひたすら哲学研究や肉体的鍛錬に打ち込みます。

プラトンの言う哲学とは「魂の配慮」でもあるので、哲学の研究とは厳しい精神修養の道でもあるでしょう。

世俗的な幸福など一顧だにせず、ひたすらイデアを観想する生活です。

もちろん家族も財産もなし……。「統治者たる者、そんな普通の生活が送れるなどと思うな!」という感じでしょうか。結構なスパルタです(涙)。

財産や名声を得るために権力を求めるような人は、割に合わないのでやめるべきでしょう。

プラトンの教育プログラムが統治者にとって有効なのかどうかは判断保留しますが、自分に厳しくあること、「善」や「正義」を常に探究していく姿勢などは、いつの時代も変わらないリーダーにとって必須の資質かもしれません。

 

国家の逸脱体制論/民主制批判

 

プラトンに言わせれば、哲学を学んだ統治者による「優秀者支配制」が最善の国制です。これは先ほどの「理知」「気概」「欲望」の3分法で言うと、理知が国を支配している状態です。

 

先ほど「智慧と勇気と節制がバランスよく実現しているのが正しい(正義に適った)国家だ」と言いました。

しかしこれは別に「これら3つの徳が同じ分量だけあって拮抗している」という意味ではなかったわけですね。

やはり智慧が一番偉くて、それ以外のものをうまくコントロールしている状態こそがバランスのいい状態なわけです。

 

ところが「理知」が退場して他の部分が優勢になると、国家の堕落が始まります。理知を気概が上回ると国家は「名誉支配制」に移行します。

名誉支配制とはプラトン以外の政治学ではあまり出てこないのでピンと来ませんが、「勝利」「名誉」を主な価値観とする制度で、プラトンは都市国家スパルタなどをイメージしていたようです。

 

さらに気概を欲望が上回ると「寡頭制」になります。欲望の中心はカネです。利得・金銭・富を重んじる国です。

国民がカネを巡って争い合い、ある人々が他の人々の財産を奪って富裕者/貧困者という2つの階級が生じます。そして前者が国を支配するようになるのです。

 

理知→気概→欲望と来たので、寡頭制が堕落の最終段階かと思いきや、まだ先があります。貧困者もまた欲望に支配されていますが、何しろこちらの方が多数派です。

貧富の階級闘争が起こり、多数の貧困者が勝利することで「民主制」が成立します。

民主制の主体となる民衆たちは「自由」「平等」を要求しますが、プラトンのイメージでは彼らは放縦や浪費を特徴とするならず者集団にすぎません。

そしてそういう集団には必ず悪辣なリーダーが出てくると言います。その人物が民衆の支持を背景にうまく独裁的権力を手に入れたらそれが「僭主制」となります。これが最悪の政治体制です。

 

以上の話をまとめると次のようになります。上に行くほどよい体制、下に行くほど悪い体制です。

 

①優秀者支配制

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②名誉支配制

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③寡頭制

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④民主制

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⑤僭主制

 

このプラトンによる逸脱体制論はいろいろと興味深い点があります。

階級闘争による貧困者の権力奪取というストーリーはマルクスを先取りしています。

また「考えの浅い大衆の中から独裁者が登場してくる」という考えは20世紀のヒトラーやムッソリーニが登場してくる過程を気味が悪いくらい正確に描いているような気がします。

 

ここまで読んでいただいてお分かりのように、プラトンは「民主主義」が大嫌いです(笑)。

多くの人が指摘するように、やはり師ソクラテスが市民裁判で死刑になってしまったことが大きいでしょう。

プラトンに言わせれば、「無学な愚民ども」が一時的な感情にかられて偉大な哲人を殺してしまったわけですね。

「アホな大衆が集まってワァワァやり始めるとろくなことにならん!」と思ってしまう気持ちも分かります。

 

プラトンのような偉大な哲学者が民主主義を批判しているということは、「どうして民主主義が大事なのか」を改めて考えるきっかけになると思います(ちなみに僕は民主主義者ですよ)。

僕らは学校で「民主主義のおかげで悪王や独裁者から人権を守ることができる」と教わりました。

もしそれが理由なら、善い王様が(独裁的だけど)善い統治をして人々の自由や人権が守られるなら民主主義など要らないことにならないでしょうか?

実際に国民を幸福にしてくれる哲人王がいるのに、それでもなお民主主義を選ぶというなら、もっと深い人間学レベルでの理由づけが必要なのではないかと個人的には考えています。

自分なりの考えもありますが、長くなりますのでここではやめておきます。

いずれにせよ、プラトンを論破するくらいのつもりで理論武装しないと(笑)民主主義を擁護することもなかなか難しいかもしれません。

 

さて、『国家』にはこれ以外にも「太陽の比喩」「洞窟の比喩」「詩人追放論」「エルの臨死体験」などなどトピックがたくさんあって、とても書き切れません。

いずれ機会があれば触れてみたいと思います。

 

プラトンのような古代の偉大な哲学者の考えを知ると、現代の自分たちが当然と考えていたことが相対化されて視野が広がったりします。

それは自分たちの価値観について(捨てるにしろ守るにしろ)改めて深く考え直すことにもつながります。こういうことが思想を学ぶことの醍醐味かもしれません。