今回からイギリスの哲学者ジョン・ロック(1632-1704)を扱いたいと思います。
前回までホッブズの思想を紹介しましたが、ロックはその次の世代に属する人です。
ホッブズについては以下をご参照ください。
ホッブズは「国家は人々の契約によって成立する」という社会契約説を説きましたが、ロックはそれを継承しつつも違ったかたちで発展させた思想家です。
自由と民主主義 ~歴史への巨大な影響~
このロックについて特筆すべきは「現実の社会や歴史に極めて大きな影響を及ぼした」ということでしょう。
具体的には、彼の政治理論が「アメリカ独立革命」や「フランス革命」などの近代市民革命に大きな影響を与えたと考えられているのです。
つまりロック思想は近現代における「自由主義」「民主主義」へ直接につながっており、それらを正当化するものであるわけです。
現代でもロックの著書は政治学の最重要古典であり続けています。「自由と民主主義を知りたくばロックを読め!」ということですね。
哲学者や思想家が大きな影響を遺すことはあっても、それはたいてい学問や文化の範囲内でのことです。
現実政治に影響を及ぼして歴史を動かすほどのインパクトを与えることなど普通はありませんが、ロックはその数少ない例外なのです。
もう1人の例外を挙げるとすればマルクスでしょうか。「歴史を変えた」と言えるほどの社会変動を起こした思想家としてはこの2人くらいしか思い当たりません。
しかしながらマルクスについては(以前にも記事で書いた通り)その影響はハッキリ言ってマイナスのものでした。
ロックについてはどうでしょうか。
ロックがフランス革命に影響を与えたといっても、近年はそのフランス革命に対する負の評価が増えてきました。
またアメリカの独立に影響したといっても、アメリカが嫌いな人も多いでしょう(^^;)
しかしそれでも「自由や民主主義などない方がよかった」と言う人は少ないはずです。個々の事象はともかく、自由と民主主義が人々の幸福と社会の発展に貢献したことは疑えません。
そうであるならば、ロックは現実世界にプラスの影響を与え、人類社会を良き方向へ進化させた思想家であるという評価は揺るがないでしょう。
こういう思想家はほとんど唯一で、少なくとも僕は他に思いつきません。
というわけで、そんなロックがどのような思想を説き、それが社会にどのように影響したのかを振り返っておきたいと思います。
時代背景と生い立ち
ホッブズの記事と少し重複しますが、ロックが生きていた17世紀当時のイギリス社会の動きをごく簡単に整理しておきましょう。
・1642年 ピューリタン革命勃発。
・1649年 王政から共和政へ移行(チャールズ1世を処刑)。
・1660年 王政復古(チャールズ2世が即位)。
・1688年 名誉革命(ジェームズ2世を追放し、オランダから新王を招く)。
王政と共和政を行ったり来たりで激動の時期ですね。
ちなみに「ピューリタン」(清教徒)と呼ばれる人々は、スイスの宗教改革者カルヴァンの流れを汲んでいます。
イギリスの教会は16世紀にカトリックから独立して「イギリス国教会」になっていましたが、それでも教義や儀式の面でカトリック的な要素を多く残していました。
カルヴァンの流れを汲む人々は、国教会に残るカトリック的な要素を一掃して浄化すること(ピューリファイ)を目指していたために「ピューリタン」と呼ばれたのです。
ピューリタンのうち「長老派」と呼ばれる人々は国教会に留まろうとしていましたが、「独立派」と呼ばれる人々は国教会からの離脱も辞さない構えでした。
さて当時のイギリスの議会では、王の専制政治を支持する「王党派」と、議会の意志決定を重視する「議会派」に分かれて争っていました。
そして(ピタリと一致するわけではないにしろ)議会派の中核を担っていたのはピューリタン独立派の人たちだったのです。
1642年、ついに王党派と議会派の対立が武力衝突に発展して内戦が始まります。「ピューリタン革命」(清教徒革命)の勃発です。
ロックは両親ともに厳格なピューリタンという家庭で育ちましたが、革命が起きたのは彼が10歳の頃です(ちなみにホッブズはすでに52歳)。
ロックの父親の本業は法律家でしたが、革命に際しては議会軍の騎兵隊長として参戦しました。
こうした家系や環境からして、ロックは革命側の人間として育ったと言えるでしょう。
内戦はクロムウェルらの活躍によって議会軍の勝利に終わります。
間もなくチャールズ1世は処刑され、イギリスは王のいない共和政の国となります。
宗教的寛容と経験主義(実証主義)
ロックは15歳でウェストミンスター・スクールに入学します。内戦の混乱のためか、これは普通より遅い年齢だったようです。
このウェストミンスター・スクールの校長だったリチャード・バズビは、国教会の聖職者にしてバリバリの王党派という人物でした。
ロックが2年生だった時、学校に近い場所でチャールズ1世が処刑されたのですが、バズビは生徒を集めて公然と「王追悼の祈り」を行ったといいますから筋金入りですね(^^;)。
しかし「意外なことに」と言うべきか、バズビは国教会の信仰を生徒に強要することはなく、他人の信仰には寛容な態度を示す人でした。
ロックはバズビたちの古くさい教育内容には反感を抱いたようですが、それでもその寛容さには深い感銘を受けたようです。
やがてロックはオックスフォード大学クライストチャーチ学寮へ入学します。
ここでも教育内容には失望しましたが、クライストチャーチ学長ジョン・オーウェンの寛容の精神には触発されました。
オーウェン学長は(バズビとは正反対に)ピューリタン独立派の牧師でしたが、彼もまた生徒たちの信仰には干渉しませんでした。国教会の学生でも私的な礼拝を咎めなかったといいます。
自身の宗教的信条がどうであれ、それを他者に強制しない人たちがいたわけですね。バズビは国教会、オーウェンは独立派ピューリタンでしたが、寛容の精神は共通しています。
ロックの研究者たちは、彼が若い頃に寛容な宗教指導者たちを間近で見たことが、後年の思想の下地になったと考えているようです。
またこの時期のこととして重要なのは、ロックが友人ロウアーの影響で医学を学び始めていることです。
正規の大学教育としては大して学べなかったようですが、ロックは友人たちの助けを得ながら継続的に医学を学び、卒業後も臨床医として活動しています。
一流の医学者たちと接しながら近代的実証医学から多くのことを学びました。彼の前半生はむしろ医者として知られていたのです(医師として公認されたのは少し後ですが)。
ロックは「ボイルの法則」で有名な科学者ロバート・ボイル(1627-1691)とも知り合い、生涯の友人となっています。
またこれは後年(名誉革命後)のことですが、アイザック・ニュートン(1642-1727)とも友人になっています。
要するにロックは若い頃から近代科学のトレーニングを十分に受けているわけですね。これが彼の哲学にも大きな影響を与えています。
哲学の分野では「知識や真理は経験から得られる」「経験しなければ何も始まらない」という立場を「経験論」「経験主義」と呼びます。
そしてロックはこの経験主義を明確に主張した第一人者なのです。「イギリス経験論の父」と称されることもあるほどです。
そして科学分野における経験論が「実証主義」だと言えるでしょう。科学における「経験」とは実験や観察のことですが、これを重視するのが実証主義に他なりません。
このように見てくると、ロック思想の重要な柱となる「宗教的寛容」と「経験主義」(実証主義)が早い段階で育まれていたことが分かるでしょう。
政治思想の深化
若きロックが学問の研鑽を積んでいた1660年、「王政復古」が起きます。
共和政時代は護国卿クロムウェルの独裁状態で、人々はほとほと嫌気が差していました。そこで王党派が巻き返したわけです。
処刑されたチャールズ1世の子、チャールズ2世が即位しました。
王政復古から6年経った1666年、ロックはひょんなことから貴族のアントニー・アシュリー・クーパー(アシュリー卿/後のシャフツベリ伯爵1世)と出会い、友人になります。
そしてアシュリー卿のたっての願いでロックはオックスフォードを離れ、アシュリー卿の侍医兼秘書としてロンドンに赴くことになります。
アシュリー卿は国王チャールズ2世と争った大物政治家で、ホイッグ党(後の自由党)の創設者と言われています。これはかつての議会派の流れを汲む勢力でした。
これに対して王党派の流れを汲み、王に妥協的だったのがトーリー党(後の保守党)です。
ロックはアシュリー卿の秘書として政治活動に携わったことで「政治的自由」に関する思索を深めていったと思われるのです。
ちなみに倫理学の歴史を詳しく学んでいると「道徳感覚」(モラルセンス)の大切さを説いた思想家として「シャフツベリ伯爵」という名前が出てくることがあります。
倫理学史で出てくるこの人物はシャフツベリ伯爵3世で、ロックの友人だったアシュリー卿(シャフツベリ伯爵1世)の孫です。ロックは3世の教育係でもありました。
シャフツベリ伯爵家は現代まで続いていますが、ほとんどが「アントニー・アシュリー・クーパー」という名前で区別がつきません。どうでもいいですが(^^;)
結局、争いに敗れたアシュリー卿はオランダへの亡命を余儀なくされ、そこで亡くなります。ロックも少し遅れてオランダへ亡命し潜伏生活を送ることになるのです。
政治的には厳しい時期でしたが、時間に余裕ができたことで、それまで書き溜めてきた原稿をまとめることができたようです。
しかしやがてロックの運命が好転します。
1688年、国王ジェームズ2世が追放され、その娘でオランダに嫁いでいたメアリとその夫オレンジ公ウィリアムが招聘されて即位したのです。「名誉革命」の成就です。
王政であることは以前と同じですが、国民の自由と権利を保障し、王の権力を制限することを謳った「権利の章典」が制定されたことは大きな進歩でした。
要するに「国民を守る法律の範囲内で統治して下さい」という「立憲君主制」がここで確立されたわけです。「王なら何をしてもOK」という絶対君主制の否定です。
名誉革命の翌年、ロックが亡命中に整理していた原稿が日の目を見ることになります。『人間知性論』と『市民政府二論』という2つの主著がそれです。
特に『市民政府二論』の思想は「権利の章典」の内容と軌を一にするものでした。そのためロック思想は名誉革命の精神を体現するものとして広く浸透してゆきます。
ロックは「時の人」となりながら、ゆったりとした晩年を過ごしたようです。その中でもイングランド銀行の創立や出版取締法の廃止に尽力したのは大きな功績でした。
まさに「栄光の晩年」といった感じですね。これほど「終わり良ければ……」という思想家も珍しいでしょう。
今回は周辺情報と概略だけで終わってしまいました(汗)
次回「ロック(2)ロックの社会契約説」では、『市民政府二論』で説かれたロックの社会契約説を見てみることにします。