デカルト(1)我思う、ゆえに我あり

哲学者ごとの解説

 

今回は17世紀に活躍した哲学者デカルトの解説をやってみます。

良くも悪くも、近代以降の人類の思考法に大きな影響を与えた人です。

近代人・現代人の発想法の源流をつくった思想家ということなら、何人かの名前を挙げることができるでしょうが、デカルトは確実にその中の1人として数えられる人です。

ここを知ると、現代文明がどれだけデカルト的思考法の恩恵にあずかっているか、そしてどれだけデカルト的思考法に縛られているかが理解できると思います。

 

天才デカルト

ルネ・デカルトは1596年生まれで1650年没。16世紀末に生まれて17世紀の前半に活躍した哲学者です。

ガリレオより32歳下で、ニュートンより46歳上。両者のだいたい中間あたりの世代で、科学的にも多くの業績を挙げています。

最初にそのあたりのことを少しだけご紹介します。

 

あなたも数学の授業で「x軸が……、y軸が……」などと言いながら問題を解いたことがあると思います。

あの座標のやり方を考案したのがデカルトだと言われていて、2本の軸を使って点や線の位置を示すアレを「デカルト座標」と言います。

これのおかげで物体の運動とか図形とかを「数式」で表現できるようになったわけです。

これを聞いて「デカルト、ありがとう!」となる人もいるでしょうが、数学で苦労した人などは「デカルト、このやろう!」となるかもしれませんね(^^;)

 

さらに、アルファベット文字の最初の方(a、b、c)を定数に当て、最後の方(x、y、z)を変数に当てる表記法、係数+文字の表記法(「2x」とか)、冪数を右上に書く表記法(「x2」とか)はデカルトが始めたと言われています。

 

表記法だけではありません。自然界の解明にも貢献しています。

例えば「外部から力を加えられない限り物体は運動を続ける」という「慣性の法則」、「一定の運動量が宇宙全体で保存される」という「運動量保存の法則」を現在に近いかたちで述べたことでも知られています。

哲学としての業績はこれから述べていきますが、仮にそれがなかったとしても、デカルトは「ガリレオからの流れを引き継いで発展させ、ニュートンに受け渡した偉大な科学者」として記憶されていたに違いありません。

 

方法的懐疑

では哲学のほうの話に移りましょう。

デカルトと言えば「我思う、ゆえに我あり」という言葉が有名です。

ラテン語で「コギト・エルゴ・スム」というので、ちょっと訳知りの人は「コギト」と略したりしますね。

このセリフがどういう意味なのか、どういう背景があって出てきたのかをまず押さえておきましょう。

 

デカルトは若い頃から様々な学問を学びましたが、それらに満足することはありませんでした。むしろ反対に、学問に根本的な不信感を抱くようになっていました。

当時から重要な学問とされていた「哲学」や「神学」などについては、デカルトの懐疑は特に深刻でした。

というのも、それらの学問領域では哲学者や神学者ごとに言っていることがまちまちで、大事なことのわりに意見が全然一致していなかったからです。

各人が「自分の言っている学説こそが真理だ」と主張していて、それらを調停したり、より高い見地から決着をつけたりする方法もない……(~~;)

 

こうしてそれまでの学問に疑問を抱いたデカルトは、いったんそれらをすべて疑おうと考えました。

自分で一から考えて、「どう考えても疑うことができない」という原理だけを受け入れ、そこを出発点として演繹的に(論理的に)思想を組み立てなおそうとしたのです

デカルトのこの姿勢を「方法的懐疑」と呼びます。

哲学者の中には「そもそも世界には『真理』などというものはない!」と主張する人もいます。どんな真理も真実も懐疑するのですね(ニーチェとか)。

でもデカルトはそこまで言うのではなく「あくまで真理に到達するための方法として、とりあえず怪しげな常識を懐疑する」という姿勢です。だから「方法的」懐疑なわけですね。

 

今見ている世界は夢?

 

さて、「方法的」とは言え、デカルトの懐疑はかなり徹底しています。

 

まず、人間が見たり聞いたりすることによって得られた事実は疑います。

誰かが「自分はこんなことを実際に見た(聞いた)。だからそれは真実だ」と言ったとしても、人間はよく見間違い(聞き間違い)をします。錯覚や幻覚だってあります。

したがって「見たから」「聞いたから」は(この段階では)真実として受け入れる理由にならないとデカルトは考えました。

感覚とか知覚というものは間違えることがある以上、信用できないというわけですね。

 

こんな風な考え方をとことん突き詰めていくと、「そもそも自分が見ている世界は本当に存在するのだろうか?」「自分が見ている世界は実は幻覚ではないのか?」というところまで行ってしまいます。

ここで質問ですが、あなたは「今、自分は夢を見ているのではない」ということを誰かに向かって証明できるでしょうか?

意識が非常にはっきりしているとしても、知覚や感覚が研ぎ澄まされているとしても、見ている世界にリアリティを感じるとしても、それは「その世界が夢ではない」ことの証明にはならないでしょう。とても現実感のある夢かもしれないからです。

リアルな現実に思えても、ある瞬間にバチッとそれが途切れて別の世界に移行し、「あ、さっきまでの世界は夢だったのか……」という展開になる可能性はゼロとは言えません。

「絶対にそんなバカなことは起きない」と証明することはできないと思われます。

 

自分が感じている外界の存在すら疑うことができる……。哲学ではこうした議論を「独我論」と呼びます。

実は古代からこうした議論は多く、中国の荘子の話が有名です。

荘子は夢でチョウチョになって飛んでいました。やがて夢から覚めて荘子に戻る。でも本当に荘子がチョウチョの夢を見ていたのか……? どうしてチョウチョが荘子の夢を見ていると言ってはいけないのか?(→「胡蝶の夢」という説話です)

 

現代哲学でも「私が経験している世界は、実は水槽に浮かんだ脳が見ているバーチャル・リアリティかもしれない」という「水槽の脳」という議論があります。

アメリカ映画「マトリックス」では実際にそういうシチュエーションが描かれていて、見たことがあればピンと来るかもしれません。

現代哲学でも議論が続いているということは、「自分が見ている世界が幻覚や夢ではない」ということを疑問の余地なく証明できた思想家はいないということです。

 

「我思う、ゆえに我あり」の意味

 

脱線しましたが、デカルトの懐疑も同じところまで行っているわけです。懐疑精神をマックスに発揮すれば、「自分が経験している世界」の存在すら疑うことができるわけですね。

しかし……です。

デカルトはこの地点でこう考えます。

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確かに疑おうと思えば何でも疑うことができる。私が今見ている世界ですら幻影かもしれない。

あれも疑える、これも怪しい。

あれ? でも「自分が何かを疑っている」というこの事実だけは疑えないよな?

自分の「精神」というものがあって、その精神が懐疑という活動をしていること自体は懐疑できないのではないか……。

たとえ精神の存在すら疑おうとしたところで、その「疑う」という活動自体が「疑っている精神の存在」を証明してしまう!

自分が何かを考えている以上、少なくとも自分の精神だけは存在する!(※自分の「肉体」の存在は疑える)

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これが「我思う、ゆえに我あり」ということの意味です。

 

いろいろな見解があるのを承知で言いますが、僕はこの「我思う、ゆえに我あり」という原理は哲学史上に燦然と輝く発見だと思っています。

哲学というものは(デカルト自身がそう感じたように)同じ問題に対して様々な見解があるなど、言ってみれば「曖昧」な学問かもしれません。

誰がやっても正否がはっきりする数学などとは明らかに違います。

しかし、長い哲学の歴史の中で唯一「誰がどうやっても反論できない真理」が説かれたことがあるとすれば、この「我思う、ゆえに我あり」ではないかと思うんです。

あなたも「我思う、ゆえに我あり」を否定できるか、頭の体操としてやってみて下さい。絶対にできないはずですから(笑)。

何しろ「自分の精神の存在」を否定しようと理屈をこねて頑張れば頑張るほど、努力逆転で自分の精神の存在を証明してしまうことになるのです。

 

この一点だけをとってみても、(問題点は今後指摘していきますが)デカルトが思想史上の巨人であることは認めざるを得ないと思います。

 

さて、デカルトは「決して疑うことができない原理」から出発して、そこから論理的に他の真理を導いていこうとしたのでした。

その疑い得ない原理こそが「我思う、ゆえに我あり」です。デカルトは自身の哲学の端緒をつかんだわけです。

次回「デカルト(2)神と世界の存在を語る」では、デカルトが「我思う、ゆえに我あり」から出発してどのように自分の哲学を発展させていったかを見てみたいと思います。

デカルト(2)神と世界の存在を語る
「デカルト(1)我思う、ゆえに我あり」では、この言葉の背景や意味をご説明しました。 デカルトはこの「我あり」(=自分の精神は存在する)を疑うことのできない確実な真理とし、そこを出発点としてどんどん思索を進めていきました。 最初に...