ヘーゲル(1)ヘーゲル思想の超超超入門

哲学者ごとの解説

 

今回はヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel / 1770-1831)の解説をしたいと思います。

ヘーゲルは近代までの思想をある意味で集大成・体系化した人物で、その思想のスケールは「巨大」の一言に尽きます。

スケールという点で彼に匹敵する思想家と言えば、プラトン、アリストテレス、カント……等々、片手で数えられるくらいしかいないでしょう。ヘーゲルはその中でも1番かもしれません。

彼こそが歴史上最も偉大な哲学者だと考える人は多かったですし、今でもいます。

 

独特の難解さ

 

僕はカント哲学を専門にしていましたが、そのカントに始まる「ドイツ観念論」という流れをヘーゲルが完成させたというのが一般的な見方です。

ですので、その流れで僕もヘーゲルの著作には何度となく挑んできました。

しかしこれが難しい……(^^;)カントの書く文章も難しいのですが、ヘーゲルのはまた違ったタイプの難しさなんです。

カントは文章が無駄に難しいだけで、内容そのものとしては比較的理解しやすいことを言っているイメージです。

ところがヘーゲルの方は哲学の内容自体がかなり神秘的であり、ある意味で「宗教の奥義」のようなことを語っていて、「肌が合わない人には一生理解できない」という感じなのです。

しかもそれをヘーゲル独特の専門用語で語るのでもうチンプンカンプンになります。大学時代の僕に関しては「1ページのうち1行も理解できなかった」ということもしばしばありました。

 

ただそういうタイプであるからこそ、ヘーゲル独特の「思考法」と「用語法」にある程度慣れてくると「この文章は大体こういうことを言おうとしているのかな」ということが何となくつかめるようになります。

ただ、カントにしてもヘーゲルにしても哲学を無駄に難解にした罪は重いですね(笑)彼らの文章に心酔している奇特な人もたまにいるので、こう言うと怒られるかもしれませんが。

 

ヘーゲル哲学のすべてを紹介するのは無理ですし、1つ1つの細かい点については間違っていたり時代遅れになっていたりするものが多いと思います。

ただヘーゲル哲学全体を貫く「構造」と言うか、「ヘーゲル的世界観の核心」と呼べる部分については、宇宙の真理に迫っている部分があるというのが僕の考えです。

ですので、それを何とか平易な言葉で述べてみたいと思います。

 

すべての根底にある「実体」

 

いきなり核心部分です。

ヘーゲルは宇宙におけるあらゆる事物・あらゆる現象の根底にあって、それらを存在させたり変化させたりする究極的な「実体」があると考えていました。

 

哲学の分野ではこの「実体」という言葉がよく出てきます。

哲学者によってニュアンスや定義は若干異なりますが、「変化するものの根底にあって、それ自体は変化しないもの」というイメージを持つ言葉です。

例えば、世界の中にあるものはすべて生成消滅や変化を繰り返しています。変わらないものはありません。仏教で言うところの「諸行無常」ですね。

でも「世界そのもの」は昔から変わらずあります。世界そのものは不変だが、世界の中にあるすべてのものは変化している……。この考え方でいくならば、世界そのものが「実体」ということになります。

世界の中に存在する個々の事物や1つひとつの現象は有限なもの(有限者)ですが、実体は無限なるもの(無限者)です。また他のものとの比較を絶した「絶対者」と呼ぶこともできます。

 

ヘーゲルが「実体」という言葉を使うときも、大体これに似たイメージで使っています。

ただ彼の考える「実体」というのは、単に物理的な「大自然」「大宇宙」を指すだけではありません。それは「実体」の1つの側面に過ぎません。

ヘーゲルの言う「実体」はあらゆる事物・あらゆる現象の根底にあります。「あらゆる」ということは、物理的なモノや物理的な現象だけではないということです。

分かりにくいかもしれないので、「実体」によって存在する事物、「実体」によって生じる現象の例を少し挙げてみましょう。

 

もちろん物体や物質はそうです。例えば身近にある石ころやコップなどです。人間も動植物もそうですし、マクロで見るなら大自然も星々もすべてこの「実体」によって存在できています。

あらゆる現象や変化もこの「実体」があればこそ起きます。石ころが落下するという物理現象もそう。生物の体が成長する、植物が繁茂するといった生命現象もそう。

人間が何かを見たり感じたり思考したりする認知の働きも「実体」があればこそ起きています(それを物理現象と呼ぶか生命現象と呼ぶかはともかく)。

さらには人間が知性や理性を働かせて学問を発展させたり、感性を働かせて芸術を発展させたりすることもそうです。

人間が社会活動を営み、民族を構成し、市民社会や国家を形成してゆくこともそうです。人類が宗教や思想を生み出していくこともそうです。

要するに、人間の精神活動を媒介して生まれるような文化現象・社会現象などもすべて含まれるわけです。

 

これらすべての存在は同じ1つの「実体」の内にあります。すべては1つであり、つながっているのです。

そしてその「実体」がエネルギーを発動させることによって上で述べたようなあらゆる現象が起き、世界が展開していくということです。

 

絶対者の3部構造

 

結論から先に言ってしまうと、あらゆる存在や現象を展開させるこの「実体」「絶対者」をヘーゲルは「神」とか「絶対精神」とか呼んでいるんですね。

その「実体」は自己の内にあるすべてのものを発展させますが、厳密にはそれらの進化が最終段階に到達したときにはじめてその実体を「絶対精神」と呼びます。

つまり「絶対精神」とは最終段階についての呼び名ですが、それは最初から同一の実体であって、実体は潜在的には最初から絶対精神であるわけです。

 

普通「神」と言えば最初から完成されているイメージですが、ヘーゲルの場合はそうではありません(これも当時からすれば驚くべき考え方です)。

ヘーゲルの考える絶対者は、最初は潜在していた自らの可能性を徐々に顕現させてゆき、やがて真の絶対精神となります。子供が大人になるようなものでしょうか。

 

さて、絶対者は3部構造になっているとヘーゲルは考えます。

 

① ロゴス・摂理としての絶対者

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② 大自然として現れる絶対者

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③ 人類の精神文化として現れる絶対者

 

絶対者は大自然として物理的にも出現します。さらに大自然の一部である人間たちは文明生活を営みます。そうして道徳・法律・政治制度・芸術・宗教・学問などの文化が出現します。こうした文化も絶対者の自己表現なのです。

ところで、こうした大自然や人類文化の発展というものも、永遠の昔から存在する「摂理」によって導かれています。

自然や文化に先立って存在し、それらを支配するメカニズムや法則のようなものです。古代ギリシャのストア派という哲学の一派はこういう摂理を「ロゴス」などと表現しました。

絶対者はまずこうした「ロゴス」「摂理」として存在し、そのロゴスが大自然や人類の文化として現象化するわけです。

変な比喩かもしれませんが、①ロゴスが「神の骨格」、②大自然が「神の肉体」、③人類の精神活動・文化活動が「神の心」ということになるでしょうか。

 

この3部構造に対応してヘーゲルの哲学も3部構成になっています。「論理学」「自然哲学」「精神哲学」です。

論理学は「絶対者(神)のロゴスとはどのようなものか」を探究する部門です。実はこのロゴスというのが有名な「弁証法」なのですが、これは次回改めて取り上げます。

自然哲学は「ロゴスがどのように自然現象として顕現するのか」を、精神哲学は「ロゴスがどのように精神現象・文化現象として顕現するのか」を探究します。

自然哲学には現代で言うところの自然科学の内容が入っています。また精神哲学は人間精神のあらゆる活動と関係してくるので、人文系の学問のほとんどの領域がカバーされています。

 

最初に言った通り、ヘーゲルがとんでもないスケールの哲学者であることがお分かりいただけたのではないでしょうか(^^;)

要するに彼の哲学には(現代の区分で言うところの)論理学・数学・物理学・化学・生物学・認知科学・心理学・倫理学・法学・経済学・政治学・宗教学・美学・歴史学など、あらゆる学問ジャンルが詰まっているのです。

彼の主著の1つに『エンチュクロペディ―』というのがありますが、これは日本語で「百科事典」という意味です。その名の通り、1人で百科事典を書いてしまったかのような仕事です。

 

次回「ヘーゲル(2)正・反・合の弁証法」では、ヘーゲルがすべてを貫くロゴスだと考えていた「弁証法」とはどんなものだったのかを説明します。

ヘーゲル(2)正・反・合の弁証法
前回「ヘーゲル(1)ヘーゲル思想の超超超入門」では、ヘーゲル思想のアウトラインをごく大まかに紹介しました。今回はヘーゲル思想の代名詞である「弁証法」について簡単に説明したいと思います。この弁証法という考え方はヘーゲルからマルクスに受け継がれ...