前回記事「時間などない⁉ パルメニデスと現代のブロック宇宙論」では、古代ギリシアのパルメニデスという哲学者の話をしました。

今回の主役は、パルメニデスの弟子だったゼノン(前490頃-前430頃)です。
哲学の歴史上、ゼノンという名の有名人が他にも何人かいるので、活躍した都市の名前を入れて「エレアのゼノン」と呼ぶのが一般的です。
パラドックスの達人
このゼノンと言えば、有名な「パラドックス」をいくつも考え出したことで知られています。
パラドックス(逆説)というのは、正しく推論しているつもりなのに、受け入れがたい結論に至ってしまう事態のことです。
前回記事でも少しだけ触れましたが、「アキレウスと亀」もその1つです。
ゼノンという名前よりこちらの方が有名かもしれませんね。
足の速い英雄アキレウスと足の遅い亀がいて、「もし亀の方が早くスタートしていたなら、後からスタートしたアキレウスは永遠に亀に追いつけない」という話ですね。
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例えば亀がスタート地点から100m進んだときにアキレウスがスタートするとして……
アキレウスが100m先に到達したときには、亀は+10m進んでいる。
アキレウスがその+10mを進んだときには、亀は+1m進んでいる。
アキレウスがその+1mを進んだときには、亀は+0.1m進んでいる。 (以下、続く)
こうしてアキレウスは永遠に亀に追いつくことはないのだ。
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実際には、アキレウスは亀に追いつきますし、中学や高校の数学を使って、それにかかる時間や距離を計算することもできるでしょう。
しかしそれはそれ。
仮に数学による解答の方が正しいとしても、「では、ゼノンの論法のどこに問題があるのか」を指摘することはまた別問題であって、これが意外と難しいのです。
哲学者・数学者・科学者によって反論の仕方はバラバラですが、これらを紹介するのは大変なので、ここでは「意外と奥深い問題だ」ということだけ確認できればいいことにしましょう。
「無限分割」問題を提示
ゼノンが残したパラドックスには次のようなものもあります。
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世界には、存在する事物がA、B、……と複数個あるとする。
ところでAとBが異なるのは、それを隔てる何か(Cとする)があるからだ。
そのCはAともBとも違うのだから、やはりAとCを隔てる何か(D)、そしてCとBを隔てる何か(E)があることになる。
同じことは無限に考えられるのだから、結局のところ「存在するものは無限数ある」ということになるだろう。
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興味深いのは、これが「無限分割」の問題と関連していることです。
例えば「物体・物質は無限に細かく分解してゆけるのか」ということです。
物体をどこまでも分解してゆけるなら、その小片ないし粒子などは存在物ですから、存在物は無限数あることになるでしょう。
反対に、どこかで「それ以上分割できない最小単位」のようなものがあるなら、存在物の数には限りがあることになります。
ゼノンに少し遅れて登場するデモクリトスは、「最小単位がある」派で、その最小単位を「アトマ」と名付けました。これは英語の「アトム」(原子)の語源ですね。
ゼノン自身は「無限分割できる」派のように思えるでしょうが、上で自ら示した議論は不条理だというスタンスなので、実は違います。
かと言って「最小単位がある」派でもなく、ゼノンの真意は、議論全体が不条理に陥ったそもそもの原因であった「存在物が複数個ある」という前提を攻撃することにありました。
ゼノン曰く、「世界にはただ1つのものしか存在しない」のです。
ゼノンによれば、多種多様な事物がたくさん存在しているように見えるのは、眼や耳などの感覚器官が我々を欺いているからです。そんなものは錯覚だというのです(-_-;)
これは(前回記事では言いそびれましたが)師パルメニデスの思想を受け継いだものです。
それはともかく、無限分割の可否を巡っては、多くの哲学者を巻き込んで大いに議論されましたが、長らく未解決のままでした。
18世紀の哲学者カントなどは「人間の理性は、無限分割の問題について考えると、必ず矛盾に陥る構造になっている」とまで主張しました。
ところが現代の一部科学者の間では、時空間自体に「プランク長」「プランク時間」という最小単位があるのではないかという意見が出てきているようです(ループ量子重力理論など)。
まだ何とも言えませんが、もしこれが正しいなら、2千年以上も続く哲学的議論にようやく決着がつくのかもしれません。
このように哲学と科学の歴史が交差し、それぞれの思索が折り重なっている様子を知るのは楽しいものです。
ともあれ、ゼノンは哲学と科学の双方をインスパイアした天才だったと言えるでしょう。(了)
ゼノン・パルメニデス・デモクリトスの思想をもっと詳しく
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