ロック(3)ロックの「寛容論」から考える

哲学者ごとの解説

 

前回記事ではジョン・ロックの「社会契約説」について説明しました。

ロック(2)ロックの社会契約説
前回記事ではジョン・ロックの生い立ちを時代背景とともにご紹介しました。 今回は主著『市民政府二論』で説かれたロックの政治思想について論じてみます。 ホッブズの考える自然状態と社会契約 ロックの政治思想は「社会契約説」の系譜に属するものです。...

 

今回は彼の有名な「寛容論」などについて述べてみたいと思います。

 

ロックの政教分離論

 

ロックは「人々の生命や財産や自由を守るために行政権力を牽制する」ことを強調した思想家で、宗教性の薄い世俗的な思想家だという解釈が長く続いていました。

しかしそうした守るべきモノ・自由・権利(プロパティ)は「神に奉仕するための手段」だからこそ大切なのだというのがロックの基本思想でした。

人間の尊厳や人権の根拠も「人間は神の被造物である」という事実に求められます。

その意味ではロックの社会思想も宗教性に裏打ちされていたわけですね。

 

それでは政治もやはり宗教と一体となって行われるべきなのか?

こう問われればロックの解答は「NO!」ということになります。

政治と宗教は距離を取るべきだというある種の「政教分離」思想ですね。

ホッブズは「宗教からの政治への介入」は否定し、「政治からの宗教への介入」は認めました。ロックはその両方を否定したわけです。

 

なお政教分離の本来の考え方については以下の記事でやや詳しく述べています。

ホッブズ(4)誤解だらけの政教分離
前回記事「ホッブズ(3)ホッブズの政教分離論」では、ホッブズの政教関係(政治と宗教の関係)についての考えを紹介しました。 今回はそこで紹介したホッブズの考えを足がかりにしながら、「信教の自由」「政教分離」などについて考えてみたいと思います。...

 

そこでの結論をまとめるとこうなります。

  • 国家(政治)は個人や集団の宗教活動に介入・弾圧してはならない(信教の自由)。
  • 宗教団体は政党を組織して政治に進出してもよい。
  • 国家が特定の宗教と結びついてもよい(他の宗教への抑圧をしない条件で)。

 

簡単に言えば「国家(および国家と結びついた宗教勢力)は、個人や集団が信じている宗教を理由にして彼らをイジメてはいけない」ということです。

しかしそれさえ守られていれば、宗教が政治に進出してもいいし、その反対に国家として宗教を奉じたり宗教活動をしたりしても問題ないわけです。

ロックは「宗教弾圧を否定する」という点ではこれと同じ考えですが、「宗教と国家がお互いに関与しないことを求めている」という点では大きく異なっています。

 

「宗教と国家の分離」は非寛容な土壌から生まれた緊急措置

 

ロックにとって「国家と宗教が結びつく」ということと「宗教弾圧が起きる」ということはほとんどイコールだったのだろうと思われます。

だからこそ後者を防ぐためには前者を否定する必要があると考えたのでしょう。

しかしこれは正しい考え方でしょうか?

 

確かに16世紀に宗教改革によってプロテスタントが誕生して以来、キリスト教世界ではカトリック対プロテスタントの血で血を洗う宗教戦争が巻き起こりました。

またそれ以前にもカトリック教会は異端審問や魔女狩りを行い、思想的な理由によって多くの人々を殺していました。

こういうことは国家や封建領主などの世俗権力が宗教的権威と結びついていたからこそ起きたことかもしれません。

そしてロックの生きた時代はようやく宗教戦争が一息ついたかつかないかの頃で、キリスト教世界にはまだまだ非寛容な土壌が強く残っていたのです。

 

こうした歴史を見て、ロックが「宗教弾圧を防ぐには、宗教と世俗権力との間に一線を引く必要がある」と考えたことは理解できます。

ロックの『寛容についての書簡』を読むと、彼の時代にはまだ「奴らの信仰は異端だから殺しても拷問してもいい!」と考える輩が多かったことが分かります。

ロックの政教分離論はこうした背景から生まれたものだと思われます。

宗教組織は政治に取り入ってはならないし、政治(世俗権力)は世俗的な事柄にだけ関わるべきだというわけです。

 

ただ「宗教と国家の分離」は非寛容だった当時のキリスト教世界では必要な緊急措置であったかもしれませんが、宗教全般について普遍化していい考え方とは思えません。

日本も長らく宗教国家でしたが、そのことが理由で主流派ではない宗教・宗派を弾圧することはほとんどありませんでした。

比叡山焼き討ちやキリシタン弾圧も政治的な理由がメインであって、為政者たちが他の宗教を熱心に信じていたから起きたわけではないでしょう。

また現在のイギリスは国教制ですが、他の宗教を弾圧するわけではありません。建前上は政教分離と言いながら事実上はプロテスタントが国教的地位にあるアメリカも同様です。

このようにキリスト教世界でも現代では「国家が特定の宗教と結びつく」イコール「他宗教への弾圧が起きる」ではなくなっているわけです。

 

国家(世俗権力)と宗教との結びつきを厳格に禁じることは、それ自体が「信教の自由」の否定になる可能性が高いのです。

前掲記事でも書きましたが、そもそも「世直し」を説く宗教など、政治活動が教義の中に組み込まれている宗教は多いからです。

また宗教の目的として「貧困」「病気」「争い」の解決がよく挙げられます。これらに取り組むにしても、何らかのかたちで政治に関わらないと難しいでしょう。

 

民主主義の代表的思想家ロックが「国家と宗教の分離」を説いているため、政教分離こそ民主主義の証だというイメージがけっこう広がっています。

今でも大きな影響力のある東大の政治学者・丸山眞男(故人)も「宗教的に中立であってこそ近代国家」という趣旨のことを述べていますが、それは問題のある理解です。

国教制や公定宗教制を採用している民主主義国家・近代国家は数多くあるからです。

きちんと言い直すなら「『信教の自由』が確立されていてこそ近代国家である」となるでしょう。これなら確かにその通りだと思います。

 

ロックの政教分離論は時代背景を考慮しつつ少し割り引いて受け取るべきでしょう。

 

「寛容」はどこまで広げられるか

 

一方、ロックの「寛容論」については、現代の僕たちもその意義を再確認しながら継承していかなければならないと思います。

これはほとんど「信教の自由」の言い換えです。つまり「どんな宗教信条を持っていようと、生命・財産・自由・権利を奪われることなく安心して暮らせる」ということです。

 

イスラム圏では「他の宗教へ改宗したら死刑」などという法律の国も多いようです。信教の自由とは真逆のこういう状況は改めねばなりません。

これに対して「『改宗は死刑』というのがイスラムの教義だ」「これを否定するのはイスラム教徒の『信教の自由』を否定することだ」という反論が出てくるかもしれません。

これに対してロックなら「寛容を否定するものだけは寛容に扱えない」と反論するでしょう。他人の信教の自由を否定するような信教の自由だけは認められないのです。

 

実はロックはこれをカトリック教会に適用しています(^^;)

当時のカトリックは「うちに所属しない人はみんな地獄行きです」「他の宗教は悪魔の手先です」みたいな感じで確かに非寛容だったので、これにしっぺ返しを食らわせたわけです。

これは信教の自由が制限される1つのパターンでしょう。

なお今のカトリックは公式に他宗教の存在意義を認めているので昔とは違います。

 

ロックが寛容を認めるべきではないと考えたもう1つの対象は「無神論」です。

ロックの先輩に当たるイギリスの思想家トマス・モア(1478-1535)も著書『ユートピア』で同じことを言っています。

一神教の文化圏では神こそが道徳の創造者ですから、無神論は道徳否定論と同じだったのです。道徳を否定するような無神論者は寛容に扱うことはできないというわけです。

無神論イコール道徳否定論という意見には異論もあるでしょうが、「道徳を完全否定するような思想は認められない」ということなら多くの人が同意するでしょう。

 

いくら「信教の自由がある」と言っても、例えばオウム教のように平時の殺人を正当化するような思想は認められません。

ただし宗教であれ非宗教であれこうした主張は認められないので、「信教の自由」というよりもさらに広い「言論の自由」「表現の自由」の問題になるでしょう。

殺人や窃盗などの自然犯(どの社会・いつの時代でも悪と考えられる犯罪)を宣伝するような思想は「信教の自由」「言論の自由」「表現の自由」の保護対象にはなりません。

 

ただ判断が難しい「グレーゾーン」もあります。

例えば「LGBTQについてどう考えるか」というのはそういう問題かもしれません。

イスラム教の一部の国にあるような「同性愛は死刑!」という制度はそもそも基本的人権の否定なので論外でしょう。

しかし例えば保守的な神父さんが自らの宗教的信念に基づいて「同性愛は神の御心に反する」「社会として支援までするべきではない」と主張するだけならどうでしょうか?

こう主張すること自体を「差別だ!」と言って口封じをするとしたら、それはこの神父の「言論の自由」「信教の自由」を弾圧することになるだろうと僕は思います。

取り締まるのではなくLGBTQの立場から彼に反論するのはもちろん自由です。

 

また民族問題や人種問題についての発言も難しいところがあるでしょう。

一般的な話として「俺たちは優等人種、あいつらは劣等人種だ」などという差別的言論は取り締まってもいいでしょう。

ロックの「寛容でないものにだけは寛容になれない」という原則がここでも当てはまります。差別主義者だけは差別されても文句は言えません。

しかし例えば寛容すぎる移民政策によって国内の治安悪化や雇用悪化を招いていることが統計的事実として明らかなのであれば、それに反対する意見が出てくるのは理解できます。

これを言うのが「民族差別だ」ということでダメになるなら、事実の指摘もできなくなります。

この辺りは原理的な問題と事実の問題とがごっちゃになって、しかも感情が絡んでくるので極めて難しいのです。

 

こういう難しい問題はありますが、一般論として「信教の自由」「言論の自由」は民主主義社会の根幹に関わる重要な人権です。

それぞれの宗教は自分以外の宗教に対しても一定の敬意を持って接し、差別的な扱いは控えるようにすべきです。

イスラム教はもともと寛容な宗教のはずですが、現行制度としては近代的な「信教の自由」の水準に達していないので、改善の余地が大いにあります。

キリスト教の諸国(特にアメリカ)は国内制度はいいとして、他の文化圏に属する国々への対外行動はしばしば非寛容で不合理な情念に突き動かされているように見えます。

強硬派の政治家や支持者層の意識の中に、他の宗教に対する無理解や偏見が潜在的にかなり残っているのは間違いないでしょう。

 

僕たちの時代はこういう課題に向き合っています。

おそらく数十年でどうにかできる問題ではなく、数百年単位で取り組むべき課題だと思いますが、だからこそ忘れることなく「寛容」の旗を掲げ続ける必要があります。

その取り組みが続く限り、ロック思想の重要性も失われることはないでしょう。