神の存在について(2)存在論的論証とは

宗教哲学

 

今回のシリーズ記事では「神の存在」についての議論を扱っています。

これは西洋の神学・哲学で発展した分野なので、基本的にはそこで出てきた議論を紹介していこうと思います。

しかし西洋の議論には「多神教」についての考察が欠けているので、前回記事「神の存在について(1)多神教を論じる」ではその部分を補いました。

神の存在について(1)多神教を論じる
今回から「神の存在」について考えていきたいと思います。 日本では「神」を論理的・哲学的に論じようとすると、よく「学問的ではない」「科学的ではない」「私的な問題だから公に議論すべきものではない」などと言われます。 僕はこういう学問...

 

今回からは一神教でイメージされる神、つまり「宇宙を創造した究極の神」についての議論に入ります。

以下で「神」という言葉を使う場合は多神教の神ではなく、「創造神」「造物主」「ザ・クリエイター」を指しています。

 

存在論的論証とは        

 

西洋の神学・哲学では「神の存在」を論証しようとする試みが盛んになされましたが、大きく分類すると3つか4つの基本パターンにまとめられると思います。

今回はそのうち「存在論的論証」と呼ばれるものをご紹介しましょう。

何と言うか、他の論証方法に比べてやや抽象的な議論で、「キツネにつままれたような感じ」になる可能性大ですが、よろしくお付き合い下さい(^^;)

 

 

ではこの「存在論的論証」(Ontological Argument)とはどのようなものか?

これは「『神』という言葉の〈定義〉〈意味〉〈概念〉から出発して神の存在を証明する」という構造を持つ議論です。

 

……と言われても意味不明だと思いますので具体的に見ていきましょう。

 

実は存在論的論証にも様々なバリエーションがあるのですが、有名なのは中世に活躍したアンセルムス(1033-1109)という神学者の議論です。

イギリスのカンタベリーで大司教を務めたので、よく「カンタベリーのアンセルムス」と呼ばれている人です。

上枝美典著『「神」という謎』という本がアンセルムスの議論を分かりやすくまとめているので、ここではそれを参考にさせていただきます。

 

〔アンセルムスの存在論的論証〕

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  • 神とは「それよりも偉大なものが考えられないもの」(以下Gと略記)である。
  • 現実に存在することは、頭の中だけに存在することよりも偉大である。
  • さて「Gが人間の頭の中にしか存在しない」と仮定すると、Gよりも偉大なもの(現実に存在するG)が考えられることになる。これは矛盾である。
  • したがって「Gが頭の中にしか存在しない」という仮定は誤りであり、「Gは現実に存在する」と結論できる。

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いかがでしょうか?(笑)

これを聞いてピンと来ますでしょうか?

僕は講師としてこの存在論的論証を学生たちに教えることもあるのですが、みんなキョトンとした顔をしています。

理解が進むかは分かりませんが、少しだけ追加説明を……。

 

神は最も偉大な存在者なので、神よりも偉大なものを考えることはできません。神とは「それよりも偉大なものが考えられないもの」なんですね。これはいいとしましょう。

次の前提としてアンセルムスは「現実に存在することは頭の中だけに存在することよりも偉大である」と述べます。

確かに「現実に存在する1億円」は「頭の中だけに存在する想像上の1億円」よりも偉大であるような気はします。この前提もとりあえず認めておきましょう。

そこでもし「神が頭の中だけに存在する」と仮定すると、頭の中だけの神よりも偉大なもの(=現実に存在する神)が考えられることになってしまいます。

これは矛盾ですね。「『それよりも偉大なものが考えられないもの』よりも偉大なものが考えられる」というのですから。

矛盾が生じた原因は「神が頭の中だけに存在する」と仮定したことにあります。この仮定から矛盾が生じたのなら、この仮定が誤りであったことになります。

というわけでアンセルムスによると「神は頭の中にだけ存在するのではなく、現実に存在する」という結論が出てきます。

 

存在論的論証の基本構造

 

この存在論的論証が正しいかどうかはひとまず置いて、基本的な構造を抽出するとしたら次のような性格があると言えるでしょう。

この論証法では「神」という言葉の〈定義〉〈概念〉に仕掛けをしているのがミソです。

例えばアンセルムスは「神」を「それより偉大なものが考えられないもの」と定義しました。

そしてそこから出発して論理的に考察を進めれば必然的に「存在する」という結論が出てくる仕掛けになっているのです。

つまり神の〈概念〉に「存在する」ということが論理的に帰属するように(「存在しない」ということが排除されるように)最初から設定しているわけですね。

このやり方によれば、「神」の概念には「存在する」という規定がもとから含まれていることになるのです。

それは「三角形」という概念に「内角の和は180度」という内容が帰属しているのと同じです。

 

存在論的論証のバリエーションはいろいろですが、この「概念の内容からその現実存在を引き出す」という構造は共通していると言えるでしょう。

例えば哲学者デカルトが行った神の存在証明の1つも存在論的論証の一種であると考えられます。彼が行った議論をまとめると次のようなものです。

神の概念には「完全性」という性質が属している。→ 「完全性」という性質を持つ概念は存在する(存在しないものは完全とは言えないから)。→ したがって神は存在する。

アンセルムスとはタイプが違いますが、神の〈定義〉〈概念〉から出発して「存在する」という結論を導き出すというプロセスが共通しています。

ちなみにデカルトは違ったタイプの神の存在証明も行っています。以下の記事もご参照下さい。

デカルト(2)神と世界の存在を語る
「デカルト(1)我思う、ゆえに我あり」では、この言葉の背景や意味をご説明しました。 デカルトはこの「我あり」(=自分の精神は存在する)を疑うことのできない確実な真理とし、そこを出発点としてどんどん思索を進めていきました。 最初に...

 

アンセルムスへの批判

 

アンセルムスに対しては「現実に存在するということが『偉大である』ということと関係があるのか」という反論もなされました。

これは18世紀のカントや20世紀のラッセルといった哲学者からの批判です。

確かに「存在すること」が単純に「偉大であること」にはつながらないでしょう。戦争や不幸などは存在しない方が偉大なことかもしれません。

そもそも「存在すること」というのは、何かを偉大にしたり(その逆に)卑小にしたりするような事柄なのでしょうか?

僕たちが何かについて「善い」「悪い」「偉大だ」「卑小だ」などと言うのは、その何かが存在することを大前提として、その存在物について何らかの〈性質〉を付与しているわけです。

それに対して「存在する」というのは、それ以前のもっと根本的な事柄なのではないか? 存在することを前提として付与される他の〈性質〉とはカテゴリー(範疇)が異なるのではないか?

こういう疑問は確かにもっともな気がします。

この批判者たちの意見が正しいとすれば、「存在すること ⇒ 偉大なこと」を前提としたアンセルムスの議論は成り立ちません。

 

アンセルムスの議論は彼の同時代人からも攻撃されています。

ガウニロという修道士は以下のような批判を浴びせました。

Gの代わりに「それより偉大なものが考えられない黄金の島」(Iと略記)を挿入すると「黄金の島」の存在が証明できてしまう……と。

さっきのGと同じ要領で議論を進めると確かにIが存在することも証明できます。余裕があれば頭の体操としてやってみて下さい。

しかしもちろんそんな黄金の島はありません。アンセルムスの論証は間違いを証明してしまう不健全な論証ではないかというわけです。

アンセルムスはこれに対して「信仰者ならば私の議論が分かるはずだ!」と言い返したそうです。これは「ちょっとどうか」と思いますね(^^;)効果的な再反論はできなかったようです。

ただガウニロの意見に対しては「少なくともGという概念に矛盾はないのに対して、Iはもともと概念として無理がある」と切り返すことはできるかもしれません。

例えば「黄金の島」よりも「黄金の大陸」の方が偉大であるように思えるので「それより偉大なものが想定できない黄金の島」という概念自体がおかしいということです。

したがって「Iはそもそも論証の俎上に載らない」と再反論することはできそうです。

 

※ちなみにアンセルムスによる「それより偉大なものが考えられないもの」という定義の「考えられない」というところを、「そもそも不可能である」と解釈するか「イメージできない」と解釈するかで議論が違ってくるという指摘もあります。

 

存在論的論証をどう評価するか

 

以上はアンセルムスに対する批判ですが、あらゆる存在論的論証に当てはまる批判があるとすれば、どのようなものになるでしょうか?

それはやはり〈概念〉〈定義〉から出発して「存在する」という結論を引き出すような構造自体の正当性を問う批判でしょう。

 

やはり一般的には、「言葉や概念の問題」から「現実存在の問題」へと議論を進めるのは飛躍しすぎであると思われることが多いようです。

この存在論的論証によって「神の存在が実際に証明されている」と認める人は恐らく少数ではないでしょうか? 

僕もどちらかと言えばそういう見解に傾いています。

神の定義を人為的に定めておいてそこから論理的に「存在する」という述語を引き出せたとして、それが神が存在することの証明になるとは思えないところがあります。

また存在論的論証は「神」「存在」「可能」「不可能」といった言葉をどのように定義するかにも大きく依存しているように思われます。

それらを(言葉遊びのように)いじることによって、反対に「神が存在しないこと」を証明できてしまうかもしれないでしょう。

ですので僕としては、伝統のある由緒正しい議論ではあるのですが、存在論的論証を全面的に支持することはできていません。

 

しかし一方、次のようなためらいもあります。

仮に「神」「存在」「可能」といった一連の言葉について万人が納得する定義を示すことができ、そこから正しい論理的推論によって神の存在を導出できたとしましょう。

その際に存在論的論証の支持者から「なぜこれを証明と認めないのか」と追求されたら、どう回答してよいのか困ってしまうかもしれません。

僕は存在論的論証に対して何となく「怪しい」と思ってしまっていますが、なぜそれがダメなのかを論理的に説明することも難しいのです。

 

実際、カントやラッセルは存在論的論証を嘲笑していますが、デカルトは存在論的論証を自分でやっていますし、ヘーゲルもある意味でこの論証を支持しています。

高名な哲学者たちもこの論証法については意見が割れているんですね。

他にも20世紀を代表する天才で「不完全性定理」の証明で知られる論理学者・数学者のクルト・ゲーデル(1906-1978)が存在論的論証を試みたことが知られています。

また現代では論理学もバージョンアップしていますので、これを駆使して存在論的論証に付きまとっていた表現の曖昧さを取り除き、現代的に焼き直す試みもあります。

 

このように存在論的論証には天才たちをも惹きつける魅力があるようです。

こういうことがあるので、僕としては若干の疑念がある論証ではありますが、軽々しく否定するのは早計かもしれません。

もし将来、本格的に論理学や数学を勉強する機会があれば、自分で存在論的論証の是非を判定できるようになりたいものだと思います。

 

さて次回「神の存在について(2)宇宙論的論証」では、次なる神の存在論証をご紹介したいと思います。

神の存在について(3)宇宙論的論証ー前編
前回記事「神の存在について(2)存在論的論証」では、「神」という言葉の定義から出発して神の存在を導き出す「存在論的論証」をご紹介しました。 今回はそれとは異なる神の存在論証を見ることにします。 宇宙論的論証とは     ...

 

〈参考文献〉

  • 『「神」という謎[第二版]』(上枝美典著、2007、世界思想社)
  • 『科学と宗教』(A・E・マクグラス著、稲垣久和他訳、2009、教文館)