今回から「神の存在」について考えていきたいと思います。
日本では「神」を論理的・哲学的に論じようとすると、よく「学問的ではない」「科学的ではない」「私的な問題だから公に議論すべきものではない」などと言われます。
僕はこういう学問的なムードを「堕落」だと感じます。
この「神が存在するか」という問題は人間論・幸福論・道徳論に関わってくるはずで、それを勝手に「非学問的」「非科学的」などと分類してやり過ごそうとしているからです。
外国でもそういう雰囲気はあるのかもしれませんが、少なくとも「神の存在」を論理的に研究しようとする「宗教哲学」という分野がきちんと確立されています。
この辺については、西洋では「重要なことをごまかさず、しっかりロジカルに議論する」というソクラテス以来の伝統が生きていて「さすがだな」と思います。
一方、宗教心の篤い方の中には「神の存在を理屈で議論するなど不敬だ。神は人間の理性を超えている。大切なのは『信じること』だ」と仰る人もいます。
確かに神の存在論証は「科学的な証明」とは性格が違いますし、人間の頭脳で神のすべてを理解できると言うなら傲慢かもしれません。
しかし現代人に使える範囲の根拠を駆使しながら、「神の存在」と「神の非存在」のどちらにより多くの説得力があるかをディベートすることはできると僕は思っています。
一方に「僕は神を信じる。議論はしない」という人がいて、もう一方に「神などいない。議論するまでもない」という人がいるだけだと、もうそれ以上分かり合えません。
やはりお互いにできる範囲内で意見をすり合わせるべきだと思うんですね。
というわけで、西洋の神学史・哲学史で扱われてきた「神」についての議論を今回から数回にわたってご紹介していきたいと思います。
西洋宗教哲学の盲点:多神教をスルー
西洋で行われてきた「神の存在」に関する議論をご紹介すると言いましたが、実は西洋の議論には決定的に欠落している要素が1つあるのです。
それは「神の存在を論じる際、一神教の前提でしか考えていない」「多神教の内容を考慮できていない」ということです。
キリスト教やイスラム教のように「神は唯一である」という考えを「一神教」と言い、「たくさんの神々がいる」という考えを「多神教」と言います。
日本神道は多神教ですし、インドのヒンドゥー教もそうです。今では「神話」になってしまっていますが、ギリシャやエジプトの信仰形態もかつては多神教でした。
仏教でもヒンドゥーの神々の存在を前提していますし(神という表現ではありませんが)仏という偉大な存在が多数いると考えているので大きくは多神教に分類していいでしょう。
専門の宗教学としてはもう少し細かい分類もありますが、ややこしいので今は割愛します。
一神教における神は「世界をゼロから創造した神」と一般的に考えられています。いわゆる「創造神」「造物主」「ザ・クリエイター」ですね。
それ以外にも「天使」という人間より偉大な霊的存在はいますが、彼らも唯一なる神によって創造された存在に過ぎず、「神」とは決定的に立場が異なります。
これに対して多神教は「神」の名に値する偉大な存在が多数いると考えます。神々の間でも序列があったりしますが、それでも「神」という意味では本質的に同じです。
神話によっては世界や宇宙の創造に関わった格の高い神がいる場合もありますが、それでも「唯一の超越神」という感じではなく、他の神々と同じ土台で活動しているのです。
このように一神教と多神教とでは違いがあります。
さて僕としては「神を唯一とするか多数とするかで存在論証の内容も変わってくる」と思うのですが、西洋の議論ではその片方しか扱えていないんですね。
偉大な霊存在は多数いる
世界全体・宇宙全体を創造した1つの究極的存在があるかどうか、つまり「一神教が想定するような唯一の神が存在するかどうか」については少し複雑な議論が必要です。
それについては昔から様々なタイプの論証があるので次回以降、追ってご紹介します。
今回はまず「多数の神々が存在する」という考え方について論じてみましょう。
これはつまり「宇宙の創造主ではないが普通の人間と比べればずっと偉大な霊的存在(=神)が多数いるかどうか」という問題です。
そして僕としては「証明」とまでは言いませんが、ごく自然な推論によって「人間を超えた神々が存在する」と信じてよいと思っているんです。
というのも「霊の世界が存在すること」はすでに明らかだからです。そのことは別の記事で論証していますのでご参照ください。
霊界が存在するのであれば、そこには多種多様な霊が存在すると考えてもおかしくはないでしょう。おそらく人間だけではなく動植物の霊たちもいるはずです。
その延長線上で「霊界には普通の人間以上に偉大な霊もまた数多く存在する」と考えたとしても、合理性の範囲を大きく逸脱した推論とは思えません。
そしてその推論を支える傍証もあります。古今東西、「偉大な霊存在と接触した」という報告が数多いこともその1つです。
例えば「ルルドに聖母マリアが出現した」「艮の金神(うしとらのこんじん)が神懸かった」「大天使ガブリエルがムハンマドに神の言葉を伝えた」などというのがそれです。
そうした存在を「神」と呼ぶか「天使」と呼ぶか、または「菩薩」「観音」「仏」などと呼ぶかは文化によって様々ですが、人間より偉大な霊的存在であるという点は同じです。
また臨死体験においては「亡くなった親族に会う」という報告も多いのですが、それとは別に「神や天使のような偉大な存在に出会う」という事例も数多くあるのです。
こうした霊的体験を一律に「幻覚」「嘘」として否定するのが不合理な態度であることは他の記事でも強調しているのでここでは繰り返しません。
これらの体験報告が(少なくとも一部は)信頼できるという前提に立つならば、そして霊界が確実に存在するならば、偉大な諸霊が存在することもほぼ確実です。
- ついでに言えば、これと同じ理由から「悪霊」「悪魔」といった悪しき霊存在がいることも確実だと言えるでしょう。
一神教と多神教は矛盾するのか
このことは「唯一の究極的な神が存在する」と説くキリスト教やイスラム教の教えとも矛盾しているわけではありません。
全宇宙を創造した唯一の神が存在すること、それ以外の偉大な霊存在が多数いること、この2つは両立する考え方だからです。
現にキリスト教やイスラム教では多数の「天使」の存在を認めています。創造主たる神と決して同列ではありませんが、神と人間との中間的な存在ですね。
多神教では(創造神を認めるとして)究極の創造神についても、それ以外に多数存在する偉大な霊についても同じく「神」と表現しているのだと考えれば矛盾はありません。
創造神とその他大勢の神々に圧倒的な違いがあるとしても、「神」を「人間を超えた偉大な存在」と定義するならばその意味では同じというわけです。
厳格なクリスチャンやムスリムの方ならば「唯一の創造神と天使たちには圧倒的な次元の違いがあるのに『神』という同じ言葉を使うのは間違っている」と思われるかもしれません。
しかしそれは〈言葉〉の問題です。そうした〈言葉〉〈定義〉の問題はあるかもしれませんが〈世界観〉としては一神教と多神教とを調和させることはできるでしょう。
もし一神教徒が天使たち(小さな神々)の存在を否定したり、多神教徒が唯一の創造神の存在を否定したりすれば2つは両立しなくなります。
しかしキリスト教・イスラム教では天使を認めていますし、多神教では創造神について(言及していないことはありますが)断固として否定するものは少ないでしょう。
したがって一般論として「究極の創造神が存在する。そして(呼び方はともかく)その他の偉大な霊存在も多数いる」という世界観は多くの宗教で共有できると思うのです。
熱心なクリスチャンやムスリムの中には「多神教」と聞いただけで「サタンの思想だ!」と言って拒否反応を示す方もいます。
しかし、多神教で「神々」と言われているのは要するに一神教で言うところの「天使たち」のことなのだと解釈すれば、多少は理解しやすくなるのではないでしょうか?
聖書やクルアーンには登場しませんが、インドにはシヴァやクリシュナ、日本には天照大神や国常立神、ギリシャにはゼウスやアポロンといった「天使たち」がいると考えるのです。
神と人間との境界
では多神教における神々(一神教における天使たち)は一体どんな活動をしているのでしょうか?
多くの民間信仰に見られるように、彼らは霊として存在し、しばしば人々を守ったり導いたりしているのでしょう。
しかしそれだけでもないと思えるのです。
ここで紹介する僕の考えは宗教学的・哲学的には「仮説」であって万人に強要できるものではありませんが、1つの説得力ある仮説ではあると思っています。
世界の多くの神話を見てみると、「神々と人間との境界」がかなり曖昧であることが分かります。
神様なのに実在する土地で王として統治していたり、戦争を指揮したり、病気になったり、殺されてしまったり……。要するに人間みたいなんですね。
日本神話・ギリシャ神話・ヒンドゥー神話・エジプト神話など、世界各地でこのパターンは共通しています。
ここから「この現実世界で偉人や英雄として活躍して大きな業績を遺した人間たちが『神』として信仰を集めるようになったのだろう」という推測が成り立つのです。
つまり個人名や具体的な業績が伝えられている神については、実際にそのモデルになった人物がかつて地上に生きていたと考えるのが自然ではないかと思うのです。
神話はすべてが作り話なのではありません。多くの脚色が加えられているでしょうが、基本的には原型となる「実話」を基にしていると考えられます。
神話に登場するトロイア戦争が実際の出来事だったことがシュリーマンの発掘によって確認されましたが、神話と歴史は截然と区別できるものではなく連続しているのですね。
実際に生きていた人間が神として祀られる……。
特に日本では顕著ですね。徳川家康・豊臣秀吉・吉田松陰・東郷平八郎など、明らかに実在の人物なのに「神」として神社で祀られるようになるケースも見られます。
こういう信仰について、欧米の哲学者や宗教学者などは「神と人間との区別もついていない低級な信仰形態だ」などと言って低く評価しがちです。
しかしそう単純なものでもないと思うのです。
確かに彼らは西洋の一神教で言うところの「造物主」「ザ・クリエイター」ではありません。でもそんなことは日本人だって分かっています。
日本人は自覚的な信仰として「世界には人間以上の力を持つ畏怖すべき神々がたくさんいて、しばしば人間としてこの世に生まれてくる」と考えていたようなのです。
むしろ西洋の学者たちは「神」という言葉で一神教の神しかイメージできないために、狭い了見で多神教の信仰形態を批判しているのではないでしょうか。
こういうことなら、世界史上、偉人・英雄・聖人として活躍した人々は人間の姿をとって現れた神々であったと考えることもできますね。
マザー・テレサやガンジーといった人たちは、凡人には真似できない崇高な精神性を発揮して世界に希望を与えました。こういう聖人たちは「神々」「天使」と表現できるのではないでしょうか。
さて「人間として生きた者たちの中に神々がいる」というなら次のように考えることもできるかもしれません。
同じ人間ではあるが常人よりもはるかに偉大な魂、常人では考えられないような業績を遺す力のある魂のことを「神」と呼ぶ……と。
つまり「この魂は神」「この魂は人間」と最初から決まっているのではなく、「ある一定のレベルを超えて進化した魂を『神』と呼び、そこまで行かない者は人間のまま」ということです。
この考え方だと「もともと神様だったけど何らかの理由で人間に降格された」ということもあるかもしれません(^^;)
以上の議論をまとめておきましょう。
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- 霊界の存在は確実である。それならば、その霊界に人間以外の霊存在もいると考えるのはごく自然な推論である。
- 一般の人間よりも偉大な霊存在を「神」と呼ぶなら、霊界には多数の神々が存在すると考えられる。その表現に問題があるなら「天使」と言ってもよい。
- 世界各地の神話や信仰を参考にして考えると「神々(天使たち)もまた人間として地上に生まれて活躍している」という推論も成り立つ。
- 同じことを反対から述べると「人間の魂のうち常人よりもはるかに偉大で強力な魂を『神』あるいは『天使』と呼ぶ」と考えてもよい。
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先ほども述べたように、これは今のところ学問的には証明できませんし、各人の信仰観に委ねられているものでしょう。
それでも論理的には十分「あり得る」解釈ではあるし、各地にそれを裏付ける信仰があることからして人間の本能によくフィットする考え方でもあると思います。
さて今回は多神教における神々の存在について語りました。
次回「神の存在(2)神の存在論的論証」では、いよいよ「一神教で説かれるような唯一の創造神が存在するのか」という議論に入っていきます。