神の存在について(9)道徳の根源としての神

宗教哲学

 

前回記事「神の存在について(8)目的論的論証の拡張版」では、この宇宙に数学的構造・論理的構造が認められることから神の存在を主張する議論などをご紹介しました。

神の存在について(8)目的論的論証の拡張版
前回記事「神の存在について(7)進化論とID理論、それぞれの問題」では、論争を続ける進化論とID理論(インテリジェント・デザイン理論)についてそれぞれの問題点を指摘しました。 進化論とID理論との戦いは「目的論的論証」の是非を...

 

今回もまた違ったタイプの「神の存在論証」を取り上げたいと思います。

これは伝統的な神の存在論証としてご紹介できるものとしては最後のものです。

 

道徳論的論証 ~ 善悪を定めたのは誰か?

 

この論証法は(こういう言い方が一般的かどうかは分かりませんが)「道徳論的論証」とでも呼ぶべきものです。

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この世界には「善」「悪」や「正義」「不正義」といった道徳的な価値秩序が存在する。

そうした道徳的な価値秩序は明らかに人間が定めたものではない。

つまり道徳的価値を定めた超越的な存在(道徳の根源)がいる。

それが「神」である。

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毎度のご登場ですが13世紀の大神学者トマス・アクィナスは「善」「崇高」といった倫理的価値を取り上げ、これらの価値を定めた存在こそが神だと論じています。

トマスなど道徳論的論証をする人は、世界に道徳や倫理といった「価値の秩序」が存在することを指摘し、「神こそがその秩序を組み立てたのだ」と主張するわけです。

つまり神が「こういうことは善」「こういうことは悪」と定めたと考えるのです。

 

もちろん文化や民族ごとに道徳と考えられるものの内容が多少異なることはあります。

しかし善悪観念そのものがない文化や民族はありませんし、殺人や窃盗などのいわゆる「自然犯」を禁じることなど大枠では人類普遍と言える道徳律もあります。

したがって道徳・善悪という秩序が少なくとも心理的現象・社会的現象として実際に存在することは間違いありません。この秩序の創造者が神であるというわけです。

世界にある秩序から神の存在を導くのが「目的論的論証」であるならば、道徳論的論証も広い意味ではその一種だと考えてよいだろうと僕は思います。

 

18世紀の哲学者カントもこの道徳論的論証を行った人です。

この「神の存在について」というシリーズ記事ではカントも何度か登場しました。それも様々な種類の「神の存在論証」をことごとく否定する人として(^^;)

カントは存在論的論証も宇宙論的論証も否定しましたし、(僕の記事では扱っていませんが)目的論的論証にもある意味でケチをつけました。

どれだけ頑固な無神論者なのかと思いきや、カントは「道徳の根源としての神」を認めているんですね。

カントが神の存在論証の多くを否定したのは、この道徳論的論証の崇高さを際立たせるためだったと考えられます。

 

善悪は人間が決めたルールにすぎないのか?

 

西洋人(主にキリスト教徒)の思考回路では「神」と「道徳」はセットになっています。あるいはイスラム教の文化圏でもそうでしょう。

だからニーチェという哲学者なんかは神を否定すれば同時に道徳も葬ることになると考えていたのです。

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このように西洋やイスラム圏では「神が道徳を定めた」と考えられています。だから「道徳が存在することが神の存在証明になる」という発想になるわけです。

 

しかしやはりこの道徳論的論証に対する反論もあります。

最もポピュラーな反論は「道徳や善悪などは神が定めたものではなく、人間が決めたルールにすぎない」というものでしょう。

ありがちな反論だと言えますが、これには大きな問題があります。

人間が道徳の内容を定めたというならば、当然ながら人間がそれを否定してもいいことになってしまうでしょう。

確かに「女性はスカーフをかぶるべし」などの地域色が強いルール、あるいは「ヒラ社員は下座に座るべし」といったマナー程度のルールなら人間心で改変してもいいかもしれません。

しかし「殺人の禁止」「窃盗の禁止」といった人類普遍の道徳法則のようなものは人間の判断で変えられるとは思えません。

 

これは別の記事でも述べたことがありますが、例えば「基本的人権を尊重すべし」というルールは人間が自分で否定してもいいものでしょうか?

そんなのは憲法で定められているだけなので、その憲法を改正すれば基本的人権はないことになるのでしょうか?

あるいはどこかの国の独裁者が「国民に基本的人権はないものとする!」と宣言すれば人々の人権を否定できたことになるのでしょうか?

それではやはり困るでしょう。「人間についてのルールだから人間が変えてもいい」というわけではないのです。

こうした普遍的な道徳や善悪というものは、移ろいやすい人間の判断や社会の事情を超越したところで予め決まっているものでないといけないと思うのです。

 

無神論的進化論による道徳の説明

 

このように考察してくると、「道徳は人間を超越した存在(神)が定めたものだ」という思想が正しいように思えます。

もちろん「神」という表現がしっくり来ないなら「仏」「摂理」「超越者」等々どんな表現でも構いませんが、いずれにせよ人間を超えた存在が道徳の根源なのです。

 

しかし無神論の陣営としては有力な反論方法がまだ1つ残っています。

その反論によると、「道徳が発生した経緯」や「人間が道徳に従うべき理由」を(神を持ち出さずに)うまく説明することができます。

それは、神の存在を否定した上で「自然選択による生物進化」を説く無神論的進化論による道徳の説明です。

ちなみに自然選択による進化がどういったものであるかは以前の記事をご参照下さい。

神の存在について(5)目的論的論証と進化論
前回記事「神の存在について(4)宇宙論的論証―後編」では、神の存在論証の1つである「宇宙論的論証」にまつわる諸問題を論じました。 ここ数回の記事で神の存在論証のうち「存在論的論証」と「宇宙論的論証」についてご説明したことになり...

 

説明する人によって違いはあるでしょうが、「無神論的進化論による道徳の説明」は大枠では以下のような感じになるでしょう。

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人間という生物種は進化の過程でたまたま「殺人を禁じる」「仲間を助ける」といった行動パターンを持つに至った。

そしてそういう行動パターンを持っていた人間たちは生存上有利になって繁栄した。

現在の人間たちは、自分たちが生き残るために有利になった行動パターンを推奨して「善」だと表現しているにすぎない(その反対が「悪」である)。

使いたければ「善」「悪」という言葉を使ってもいいが、それはこういう間接的な意味なのだ。

つまり神が定めておいたような本来的な善悪や道徳法則のようなものは存在しない。

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この説明の仕方は、先ほど僕が述べた「人間が決めたルールなら人間が変えていいはずだ」という反論をうまくかわしているように思えます。

この場合、道徳の内容は人間が意識的に決めたものではないからです。それなのに人間がその道徳に従うことの必然性も確かに説明できています。

 

道徳を唯物論的に説明することの困難

 

さて、この説明をどう受け止めるべきでしょうか?

この説明が正しいとすると、殺人・強姦・幼児虐待・窃盗・詐欺・拷問など、どんな行動も本来的には「悪」ではないことになります。

これらの行為は結果として人類という種の存続と繁栄を阻害するために忌避され、人々から「悪」として意識されるようになったにすぎないというわけです。

もしそうなら「俺にとって人類の存続なんかどうでもいい」「だからそのための道徳を守るつもりもない」という人がいたら、その人を批判する上位の道徳基準はないことになります。

 

さらにこの論理で行くと、もしこれらの行為のどれかが反対に「人類の生存を有利にする」と判明してしまったら、それを批判して止めさせる理由がなくなってしまうでしょう。

例えば(嫌な例で恐縮ですが)「性犯罪を推奨した方が子孫の数が増えるからよいのだ」と主張する人が出てきたら無神論的進化論者はどう答えるのでしょうか?

無神論的進化論者は「性犯罪の増加が人口の増加につながるわけではない」等々、いろいろな反論をこさえると思われます。

この反論が正しいかどうかは知りませんが、端的に「そもそも性犯罪は悪だ」と言えない以上、こういう答え方しかできないわけです。

しかし性犯罪が善か悪かを判断するのに、わざわざ「種の生存にとってプラスかマイナスか」などという議論を挟まなければならないというのは、何かがおかしいでしょう。

 

やはり無神論的進化論による道徳の説明は「どこか根本的に狂っている」と考えざるを得ません。

人間を超越したところで本来的に善悪が定まっていることを否定し、「種の生存にとって有利か不利か」が「善か悪か」の正体だという考え方は間違っているのです。

ここでは無神論的進化論を取り上げましたが、唯物論的な道徳の説明はどれも同じような困難にぶち当たるでしょう。

例えば「人間の脳や神経は殺人や暴行に嫌悪を抱くようにできている」「だからこそそれは悪と考えられるのだ」という脳科学的な道徳の説明もそうです。

これでは、殺人や暴行に幸せを感じるように人間の脳を改造してしまえば、それを非難する道徳の基準はなくなってしまいます。

このように唯物論的な道徳の説明は必ず破綻する運命にあると僕は思います。

 

外なる星空と内なる道徳法則

 

善悪や道徳法則というものは人間が自分で決めたものではありませんし、また物理的世界の必然性から導き出せるものでもありません。

なぜかは分からないけれども「すでにそこにある事実」だと見なさなければなりません。

前述したカントは「我が外なる星空と我が内なる道徳法則にはいつも感嘆させられる」という趣旨の言葉を遺しています。

外なる星空とは物理的世界の驚異を表現したものだと言えるでしょう。

そしてカントはその物理的世界に匹敵する驚異の対象として、人間の胸の内に宿る道徳法則を挙げたわけです。

 

前回の記事で、物理的世界に組み込まれた「数学的構造」「論理的構造」についての議論をご紹介しました(宗教哲学者スウィンバーンの説)。

宇宙にこうした構造があることが神の存在を示唆しているということです。

今回はこれに加えて、人間の心や社会に顕現する「道徳的秩序」というもう1つの構造があることを論じたわけですね。

物理法則にせよ道徳法則にせよ、この世界には人間が定めたものではない秩序が存在しています。

カントが考えたようにこれは厳然たる事実です。僕はこの事実こそが今のところ最も強力な「神の存在論証」になるのではないかと感じています。

 

さて長くなりましたが、この「神の存在について」シリーズでは様々なタイプの「神の存在論証」をご紹介してきました。

もちろん「科学的に証明されたこと以外は認めない!」と言い張る人たちはこれらの論証を認めないかもしれません。

しかし「科学がすべて」という根拠のない信念を持つ〈科学教徒〉でなければ、科学も含めて多くの学問の智慧を動員したこれらの議論に何かしらの説得力を感じてくれるでしょう。

科学的な証明に適さない事柄についても、様々な根拠を挙げながら「どちらの意見により説得力があるか」を議論することはできます。それこそが哲学の本領です。

そうした哲学的精神に則って「神の存在」と「神の非存在」を比較したならば、前者に軍配を上げるのが合理的な結論であると僕は信じています。