ハイデガー(3)死を分析する

哲学者ごとの解説

 

前回記事「ハイデガー(2)現存在(人間)と世界」では、人間が身の回りに「意味」「目的」「価値」に満ちた世界を築き上げていくという話をしました。

ハイデガー(2)現存在(人間)と世界
前回記事「ハイデガー(1)『存在』を哲学する」では、ハイデガーが「存在の意味」を探究したことをご紹介しました。 なぜ(無が支配しているのではなく)何かが存在しているのか。ハイデガーはこれを探究しようとしました。 これは「ビッグバン」や「イン...

 

今回はさらに踏み込んで、ハイデガーが考える「人間の本来的なあり方」について紹介していきます。

 

死を自覚して生きる

 

各人がどのような未来を描くか(どんな自分を目指すか)に応じて、その人を取り巻く「世界」は様相が異なってきます。

ここで言う「世界」とは物理的世界のことではありません。

その人なりの価値観にしたがって、様々な物事が「これは大事だ」「これはどうでもいい」という風に序列化されている「価値の世界」「意味の世界」です。

前回記事で挙げた例で言うと、甲子園出場に青春を賭けている野球少年と、子どもを有名幼稚園に入れることが生きがいのお受験ママとではまったく価値観が違います。

まさに住む「世界」が違うわけです。

 

ここまでは、「各人各様、いろんな価値観があるよね」という話です。

しかしハイデガーはこれに止まらず、人間には「本来的なあり方」と「非本来的なあり方」という区別があると主張するのです。

各人が自分なりの価値観を持ち、自分なりの世界を生きているわけですが、そのうち本来的な生き方をしている人々と、非本来的な生き方をしている人々を区別せよと言うのです。

では「本来的な」生き方をしている人たちというのは、どういう特徴があるというのでしょう? 本来的な生き方と非本来的な生き方を区別する目印は何だというのでしょう?

 

それはズバリ「自分の『死』をしっかりと見つめているかどうか」です。

 

なぜ死を見つめて生きることが本来的な生き方になるのか?

ハイデガーはいろいろと難しい言葉で説明していますが、大体、次のようなことが言いたいのだと考えればいいでしょう。

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現存在(人間)は自分で思い描いた未来へと自分を投げ込んでいく。

だが現存在がどれほど先の未来を描こうと、「死」の先を描くことはできない。「死」とは現存在そのものが存在しなくなることだからだ。

また自分の死は誰も変わってくれない。自分の死に対しては自分1人で向き合うしかない。死を前にしては、誰しも「孤独」にならざるを得ないのだ。

その孤独の中、自らが存在しなくなるという厳粛な事実に向き合うとき、それまでは意味を持っていた様々な事柄が価値を失って色褪せていく。

しかしこうすることで現存在は本来の自己を取り戻す。死を忘れることで成立していた刹那的・表面的な価値観を振り払ってこそ、現存在は真剣に自らに向き合えるからだ。

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大体こんな感じです。

 

死を自覚することをハイデガーは「死への先駆」と呼びます。実際に死ぬより先にそれを意識するので「先駆」なんですね。

自らの死を受け入れて真の自己に目覚める。そして死を覚悟した上で、限りある生を充実させるべく未来へ駆けていこうとしている。このことを「先駆的決意性」と言います。

ここに来て、人間はそれまでの自分が日常性に埋没して生きていたことに気付きます。この日常性への埋没を「頽落」と言います。ハッキリ言えば堕落していたということです。

 

哲学らしい哲学

 

僕としてはハイデガーの言いたいことは理解できる気がします。

ある人がカネ・異性・名声などに執着しているとしても、その人もやがて死んでいきます。それらの物事に喜びを見い出す主体がなくなってしまうのです。

死を深く自覚すればするほど、そういった刹那的な欲望や執着は色褪せ、自らの心の底の底へと深く沈潜していくでしょう。そこで発見するのが「真の自己」だというわけです。

そして真の自己に目覚めてこそ、充実した未来を切り開くことができる……。

ハイデガーによるこの「死」の分析については、確かに哲学らしい哲学と言うか、ある種の「人生論」のような趣きがあるので今でもとても人気があるところです。

またこの考えを示した主著『存在と時間』が出版されたのは第一次大戦の直後で、人々にとって死が身近だったこともあって、多くの人の心に大きな影響を与えました。

 

しかしこの「死の分析」ですが、実はいろいろと批判されている箇所でもあるのです。

ハイデガーは死を受け入れた上で未来へ進むことこそ、人間としての「本来的な」生き方だと主張します。

ところが現代哲学では、「これが人間本来のあり方だ」「これこそが人間の本質だ」というような「人間本質論」は嫌われる傾向があります。

日本でも人気がある20世紀のフランス哲学では特にそうです。本質論は「堅苦しい」と言うか、自由な生き方を制限してくるようで敬遠されるのでしょう。

ただ、死は誰にも等しく訪れるものです。その死を意識して過ごすことが人間にとって必然的な生き方であるという発想は理解できます。

また死の運命を受け入れるならば人間は粛然とした心境となり、人生と真剣に向き合うことになるというのも分かります。

そう考えてみると、「死への先駆」「先駆的決意性」こそが人間の本来的なあり方だというハイデガーの思想はおおむね支持できるものではないでしょうか?

 

「死」を語りながら「死後」の問題はスルー

 

しかしながら僕としては不満もあります。

この辺りのハイデガーの思想をまとめると、「過去を受け止めよ。そして死を覚悟しながら未来へ駆けよ!」ということになるでしょう。

そして結局それだけなんです(^^;)

 

ハイデガーは難しい哲学用語を駆使しつつ、それらしい雰囲気を醸し出しながら議論をするので何となく深遠な気がしてしまうのですが、言っていることはそれだけです。

ハイデガー本人や熱心な研究者には怒られるかもしれませんが、正直に言うと「人間学としてはかなり内容が薄いのでは……」と思ってしまう自分がいます(笑)

例えばこれがカントなら「こう生きることが道徳的なのである」と言って、人間の生きるべき指針のようなものを提示しています。

ハイデガーが「過去を受け止めて未来へ駆ける」と言っても、具体的に「どういう生き方をすればいいのか」までは分からないでしょう。

もちろんハイデガーの関心の中心はあくまで「存在」です。なので、こういった「人間学」というか「人生論」のところで内容の薄さを批判しても仕方ないかもしれません。

でも「死」を持ち出してまで決意や態度を云々するなら、やはりもう少し踏み込んでほしいというのが正直な感想です。

 

ここからは僕の私見になりますが……。

ハイデガーによる人間論の内容が薄いのは(現代哲学者らしくと言うべきか)「人間は死んだらどうなるのか」という問いを棚上げにしているからです。

誤解されがちですが、ハイデガーは「死んだら終わり」とは断言していません。『存在と時間』では「死後の生命があるのかについては判断を保留する」と言っています。

唯物論者が言うように「死んだら終わり」であれ、宗教者が言うように「魂が存続する」のであれ、どちらにせよ自分(ハイデガー)の哲学は有効だというわけです。

死後の生命があるかどうかにかかわらず、確かに「死」というものが一区切りであることは事実です。だから人間はそれを常に意識しながら生きなければなりません。

その意味でハイデガー哲学に普遍性があるというのはその通りです。しかしそれ以上に「人間のあるべき姿」を語ろうとするなら、物足りないことは否定できないでしょう。

 

僕は他の記事でも触れているように、人間は「死んだら終わり」ではなく、魂(霊)としてその後も存続すると考えています。

その根拠についてはKindle本にしてまとめていますので、ぜひご一読下さい。この本でも述べていますが、魂の存続は「証明済みの事実」であると断言してよいものです。

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では魂が死後も存続することがどうして人間の生き方に関係してくるのでしょうか?

それは古代ギリシャの哲学者ソクラテスやプラトンが語った通りです。

肉体は滅びても魂は存続するなら、その魂こそが「本当の自分」です。肉体はこの世を生きる間だけの「乗り物」に過ぎません。

したがってこの世を生きる間も、自分そのものである「永遠の魂」にとってタメになる生き方をしなければならないのです。それはつまり人格を陶冶して徳を身に付けるような生き方です。

肉体は滅びますし、カネや名声も儚いものです。この世に現れた物事に執着しても、それらはやがて消えていきます。そんなものに価値を感じても仕方ありません。

仏教なんかもそうですよね。この世のものは「諸行無常」ですべて過ぎ去っていきますが、魂は転生輪廻を繰り返します(※)。

仏教には「八正道」や「六波羅蜜多」といった修行がありますが、それらは「自分そのもの」である魂を高め、悟りを得るための方法だと言えます。

キリスト教やイスラム教でも魂の死後存続を大前提とし、この世での生き方があの世での行き先(天国か地獄か)を決めると説くことで、人生論や道徳論とつながっています。

※巷では「仏教は霊魂を否定している」というトンデモ説があるようですが間違っています。原始仏典でも大乗仏典でも、神々や悪魔をはじめ様々な霊的存在のオンパレードです。

 

このように、「魂の死後存続」を前提としなければ人間学や人生論において内容のあることは語れないのです。

もし唯物論者の言うように「死んだらオシマイ」だとすれば、「どうせ死ぬんだから」と言ってメチャクチャな生き方をする人だって出てくるだろうと思います。

ハイデガーは「死を意識することは人生を真剣に生きることにつながる」と善意に考えていますが、そうとは限らないかもしれないわけです。

そういうわけで、もしハイデガーが「魂の死後存続」を明確に認めていれば、現存在(人間)の本来的なあり方についてさらに深い思索を展開できたはずだと思います。

 

このように言うと、哲学を専門に研究している人たちからは「哲学とオカルトを一緒にするな!」「まったく別の分野だ!」という批判が聴こえてきそうです。

しかしハイデガーは「死」と「人間のあり方」の関係を云々しているのですから、その思想にとっては「魂が死後も存続するか」は内容的に(論理的に)関係があるはずです。

内容的に関係があるなら真正面から取り上げて議論しなければならないはずでしょう。「分野が別」などというのは人間側の都合であって世界の真実とは関わりのないことです。

それに先ほどのソクラテスやプラトンの思想を見ても分かる通り、もともと「死後の魂」は哲学の中心テーマだったのです。

それが近現代になってからは分離されてしまっています。ハイデガーもそうした枠組みの中で思索せざるを得なかったのでしょう。

 

さて、ハイデガーによる「死の分析」を紹介してきました。

次回「ハイデガー(4)存在と神」では彼の「存在」への探究がどうなったのかを見ていきます。

ハイデガー(4)存在と神
前回記事「ハイデガー(3)死を分析する」では、死を覚悟して未来へ駆ける「先駆的決意性」こそが人間の本来あるべき姿であるという話をしました。 死を覚悟して未来へ駆ける……。 なるほど。深い哲学ですなぁ。 でも、あれ? ハイデガーって「存在」を...