前回「マルクス主義はいかにして生まれたか」では、マルクス主義の成立に影響を与えた思想をいくつか挙げて紹介しました。
今回はマルクス主義の具体的な中身に入っていきたいと思います。
唯物史観(史的唯物論)
前回、マルクスは「唯物論的弁証法」ということを考えたと述べました。
前の時代に潜在していた矛盾が露わになって対立や混乱が生じるが、それがやがて克服されて新たな時代に移行する……。
この対立や混乱の中で生じるエネルギーが社会を変革していくというのです。
ヘーゲルはこうした変動の背後に「神」の存在を感じ取っていましたが、マルクスはこれを唯物論的に(この世の視点だけで)説明できると主張しました。
具体的には例えばこういうことです。
かつて絶対王政だった時代の社会的矛盾が噴出してピューリタン革命やフランス革命が起き、自由主義・資本主義の時代に移行した。
しかし現在(19世紀)は自由主義・資本主義がどんどん昂進して、格差の拡大など様々な歪みを生んでいる。
この矛盾が臨界点を超えたところでまた「革命」が起き、新たな時代に突入するであろう……。
そしてマルクスによれば、こういう変動を説明するには(政治制度や経済体制など)目に見える現実社会を分析すればよく、ヘーゲルのように「神がどうこう」と言う必要はありません。
このように、唯物論的弁証法を歴史の解釈に応用したものを「史的唯物論」あるいは「唯物史観」などと呼びます。
搾取と階級闘争
では、マルクスは彼の時代にどんな矛盾があり、それがどんなかたちで革命につながると考えたのでしょうか?
マルクスは、工場などで働く「労働者」と彼らを雇って働かせている「資本家」との対立が激しくなって社会変動につながると考えました。「階級闘争」という考え方です。
※ちなみにここで「資本家」という場合、事業に出資している人であると同時に、工場などを経営管理する「経営者」も兼ねているイメージです。
資本家と労働者が対立するのはどうしてか?
資本家は労働者を働かせて得た利益の一部を労働者に(嫌々ながら)賃金として支払いますが、残りは自分の懐に入れます。マルクスはこれが「搾取」だと言うのです。
利益が出たのは、あくまで労働者が働いて商品を生産してくれたからです。資本家はカネを出しただけで自分は働いていません。
それなのに資本家は利益の多くを取っていく。本来なら、実際に働いた労働者にこそ行くべきお金が資本家に流れていく。制度的な「ピンハネ」だというわけですね。
資本家は自らの利益を増やすためにいろいろと策を講じます。
①(賃金はそのままで)労働者の労働時間を増やす、②(賃金そのままで)機械を導入するなどして生産性を高める、③賃金を下げる、などです。
こうなるとどうなるか。
資本家の利潤は増大します。一方、労働者の賃金は下がります。機械の導入によって仕事がなくなり失業することも増えます。
こうして資本主義社会では「格差」「貧困」「抑圧」などが蔓延してゆきます。
こうして労働者たちの怒りが溜まっていくとやがて……
労働者が「暴力」を用いて資本家を打倒する!
こうして社会主義革命が成就し、資本主義・自由主義の世界は崩壊するというのです。
搾取というメカニズムは資本主義の中に組み込まれていました。この腐敗が進むと階級闘争が顕在化して社会は分裂しますが、革命を経て対立は克服されて新たな時代を迎えることになります。
一連の流れが弁証法になっていることがポイントです。
さて革命によって成立した新しい社会では、資本家から財産を奪って、資本家も労働者も経済的に平等な状態にします。「私有財産の否定」です。
また資本家たちが個々に(工場など)生産手段を握っていたことが原因で資本主義の歪みが生じたわけなので、生産手段は共有にします。
土地は私有財産でもあるし、工場や農場になるスペースとして生産手段の元でもあるので、当然ながら共有物となります。農民や地主からぶんどります。
さらに資本家はいなくなるので、彼らが決めていた「商品として何を作るか」「どのくらいの量を作るか」「値段はどうするか」といったことは共同で決定します。いわゆる「計画経済」です。
これが、マルクスの考えた世界の弁証法的な発展です。その最終段階で社会主義(共産主義とほぼ同じ意味)が成立し、ユートピアが訪れます。
マルクスとしては「自分たちが生きているのは資本主義の矛盾がピークに達している時代であり、間もなく労働者による革命が勃発する」という時代認識を持っていたのです。
的外れだった資本主義への批判
こういうマルクスの考えをどう受け取るべきでしょうか? マルクスの資本主義批判のポイントについて考えてみます。
まずマルクスは「本来、利益とは労働者の労働によって発生したものであり、自分で汗水流して働いたわけでもない資本家がそれを取っていくのは『搾取』である」と言って批判しました。
要するに、マルクスは肉体労働だけを仕事の本質だとイメージしているようなのです。
しかし何らかの事業をやる場合、「額に汗して働く」という意味での労働だけでは成立しません。資本家が資金を、地主が土地を、企業家がアイデアを提供して初めて事業ができます。
利益が出た際には、リスクを覚悟で出資したことに対する正当なリターンを資本家が得るのは当然でしょう。
それに会社としては利益のほとんどを労働者への賃金に充てられるわけではありません。
事業の継続的発展のために設備投資に回さないといけないし、いざというときのために内部留保も必要です。
そうしないと事業が継続できず、労働者としても働く場所がなくなるのです。
※ちなみにマルクスは搾取理論を補強するために「労働価値説」という商品の価格理論を使っています。大いに間違っているものですがここでは触れません。
さらにマルクスは「資本家は労働者を好きなように扱う」と想定していましたが、これも現実とは少しズレがあります。
資本家が一方的に労働者の賃金を下げたり労働時間を増やしたりできるわけではないでしょう。
資本主義の社会では会社や工場はたくさんあるのですから、労働者が自分の待遇に不満があれば職場を変えることだってできます。
会社側も「労働者をどれだけよい待遇で採用できるか」を競わないと、人が集まらずに事業にならないわけです。
まだあります。
資本主義社会においては、資本家が効率を重視して機械を導入するなどするために失業が増えるとマルクスは予想しました。
もちろん機械化による失業増という現象もあるにはありますが、それは一時的なもので、そこで失職した人々はやがて新しい産業に移行していきます。
鉄道や自動車が登場すれば馬車業者は失業しますが、そういうことを繰り返して社会は進化していくわけで、発展中の社会ならむしろ健全な姿であると言えるでしょう。
さて、いくら強調しても足りない重要な事実があります。
自由な企業家の活躍などにより、資本主義の国々は(労働者など一般大衆も含めて)昔よりもはるかに豊かになったのです。
資本主義の世界では、各人・各企業が自由市場において切磋琢磨することによってあちこちで「イノベーション」が起きます。これが国や社会を爆発的に豊かにするわけです。
自由主義経済であればこそ、ロックフェラー、カーネギー、フォードが登場してくる余地があるのです。彼らは新たな基幹産業を起こし、社会を次のステージに押し上げました。
イノベーションは後にシュンペーターという経済学者が分析したものですが、こうした「イノベーション」「企業家能力」への視点が欠落していることもマルクスの弱点だと言われています。
よく「資本主義では〈格差〉が広がった」と憤っている人がいます。
確かに格差が広がったことは否定しませんが、では「現在の低所得層の生活が昔の低所得層の生活よりひどくなったのか?」と言えばまったくそんなことはありません。
ハイエクという思想家は20世紀初頭の西ヨーロッパの労働者について「物質的な繁栄において100年前のナポレオン時代には不可能と思われたレベルに達した」と指摘しています。
低所得層は低所得層なりに昔よりはるかに豊かになったわけです。惨めになるのは、それよりすごいスピードで豊かになった富裕層と比べるからにすぎません(笑)
格差がどうしてそれほど悪いのでしょうか?
貧困は確かに問題ですが、資本主義が栄えることによって貧困は昔より確実に減っているのです。
格差是正を叫ぶ人たちは〈格差〉と〈貧困〉を混同しているように僕には思えます。
格差が生じるのが嫌だからと言って資本主義を否定してしまえば、次に本物の貧困がやって来るでしょう。
また「資本主義では不況や恐慌が定期的に起きる」としばしば批判されますが、それは資本主義の範囲内での対策(財政政策や金融政策)によって対処できるものでした。
マルクス好きの人たちが「大恐慌の発生が資本主義崩壊へつながる」と言うこともあり、不況が来るたびにそうした期待を抱いているようですが、それも的外れでしょう。
いずれにせよ「貧困」「格差」「失業」「抑圧」といった矛盾が噴出することで資本主義社会は崩壊すると考えたマルクスの予想は外れました。
マルクスは「弁証法の摂理にしたがって資本主義は必然的に崩壊する」と考えたのですが、現代でも資本主義の繁栄は(問題を抱えつつも)隆々たるものです。
僕たちが歴史で学んだように、確かにロシアなどで「革命」は起きました。
しかしそれは「歴史の必然」として起きたのではなく、マルクスを信奉した人々が「人為的に」起こしたのです。
今回は主にマルクスの資本主義批判を取り上げました。
次回「マルクス(3)共産主義がダメな理由―前編」では、マルクスが描いた共産主義社会の本質を考察します。