前回「ヘーゲル(3)神と人間の繊細すぎる関係」では、神(絶対者)と人間とがどのようにつながっているのかについて、やや詳しく説明しました。
人間が精神活動を行う結果として、様々な文化現象(芸術・学問・宗教)や様々な社会現象(道徳・法律・政治制度・国家)が生じますが、それらも神の自己表現なのでした。
それらは徐々に洗練されていきます。ということはつまり、それらは「時間」「歴史」の中で高度になっていくということです。
神の立場から見れば、神は「歴史の進展の中で」自己を顕現させてゆくということになります。
今回はその辺りの話を中心にしたいと思います。
自由への旅
ロゴスとして存在する神はまず大自然として現象化する。その次に人間の精神活動として現象化し、歴史の中において文化や社会が築かれていく……。
この壮大な「旅」において、本質的には何が起こっているのでしょうか? 何のためにこんな旅が行われているのでしょうか?
ヘーゲルによれば、神(絶対者)の自己展開は「自由の実現」を目指して進行します。
大きな文脈では、自然から人間精神への展開も「自由」を目指したものです。
自然となって鈍重な物質の中に閉じ込められたロゴス(神)は、物質や物体という有限なものの制約を超えた「自由な」活動をするために人間精神となって現れるのです。
もちろん物質の中にあってもロゴスはそれなりに顕現しています。例えば、自然法則はロゴスの表れですね。
しかし「決まり切った規則性」でしかない自然法則という形では、真の意味で自由は実現していないとヘーゲルは考えます。「それ以外のあり方ができない」というのは不自由です。
だからこそ、自然の制約を超えた人間精神となってさらに自由度の高い活動をするのです。
しかし人類が精神活動を開始したからと言って、それが最終的な自由ではありません。最終的な自由は人類の歴史を通じて段階的に獲得されていきます。
まず個人個人が「内面の自由」を獲得しなければなりません。他人や外部環境に支配されない心の領域を確保し、そこで自由に思考や感情を巡らせるわけです。
でもこれだけでは不十分です。個人の自由は社会制度として確実に保障されなければなりません。そうでなければ自由と言っても「絵に描いた餅」になりかねないですから。
つまりは基本的人権を保障し、「思想・信条の自由」「集会・結社の自由」「表現の自由」「職業選択の自由」「奴隷的拘束からの自由」などを国家の法律として実現させる必要があります。
国家もまた神の一側面でしたね。近代国家の段階に至って自由が客観的に(制度的に)実現されると、歴史はその終着点に達したことになります。
ヘーゲルによれば、世界史とは神が自由を実現してゆく過程なのです。
世界史の進展と同時進行で、「芸術」「宗教」「哲学」などの文化もまた発展します。くどいようですが、これらもまた神の自己表現です。
そうした文化はその最終段階に至ると、「神と人間とが一体であること」「神が世界に顕現していること」をそれぞれのやり方で表現するようになると言います。
例えば宗教なら、最終的にキリスト教が出現して「天なる父(神)が受肉してイエス(人間)になった」と教えます。
この「神と人間とが一体である」という教義を持つがゆえに、キリスト教こそが宗教の最高形態だというわけです。
また「哲学」であれば、まさにヘーゲル哲学が「神と人間の一体性」を表現しています。ヘーゲルは彼自身の哲学こそ、哲学史のトリを飾る哲学の最終形態だと言っていることになります(^^;)
人間1人ひとりが自由の意識に目覚め、国家の中で制度的にも自由が確立され、芸術・宗教・哲学は神と人間との一体性を表現する。こうして神の自由への旅は終わります。
ヘーゲルは非科学的だからダメ?
ここまでヘーゲル哲学の概要を見てきて、どんな印象を持たれたでしょうか?
ヘーゲル哲学の壮大さに心打たれる人は多かったですし、ヘーゲルの晩年から没後しばらくの間はドイツの思想界を席巻しました。
しかしその一方、いろいろな理由で各方面からこれほど激しく攻撃された思想も珍しいでしょう。特に多かったのが「ヘーゲルは非科学的である」という批判です。
例えばイギリスの有名な哲学者・論理学者・数学者としてバートランド・ラッセルという人がいます。哲学上も多くの業績を挙げ、ノーベル文学賞なども受賞した才人です。
この人も若い頃はヘーゲル主義者だったそうなのですが、ヘーゲルの自然哲学に間違いが多いことに失望して、唯物論に近い立場に転向してしまっています。
確かに「正・反・合の弁証法で世界は動く」だの「神が自然や人間になる」だの、科学的思考法に親しんだ人にとってはオカルト以外の何物でもないかもしれません。
彼らに言わせれば「そんなのどうやって科学的に証明するの?」ということでしょう。
しかし、もしヘーゲルが生きていて科学主義者たちに反論できたとすれば、「そんな戯言は本末転倒だ!」と一蹴していたでしょう。
ロゴスが低いレベルで現象化したものが自然であり、科学はその自然を扱う学問にすぎません。ロゴスが高いレベルで現象化したものが社会や文化であり、それを扱うのが人文系の諸学問です。
ヘーゲルの考えでは、科学は人文系の諸学問の下位に位置づけられるべきものです。
もっと深遠なロゴスがあってこそ自然も科学も存在できるのであって、その逆ではありません。
したがって科学的思考法であらゆるものを判定するという態度がすでに本末転倒なのです。複雑な人間の心や人間社会を科学的方法だけで分析できるはずがありません。
ヘーゲルに言わせるなら「科学のブンザイで哲学サマに物申すなど、思い違いも甚だしい」ということです。
学問を「科学」に押し込めるな
現代は「人文系・社会系の諸学問も科学をモデルにすべきである」という風潮が強く、文系の学問も「人文科学」と言わないとカッコ悪い感じになっています。文科省までそんな感じです。
こうした科学偏重の風潮はヘーゲルにとっては「狂っている」と映ることでしょう。実は僕もそう感じています。
誤解がないように言っておくと僕も科学は好きです。
高校までは理系でしたし、今でも科学哲学を勉強していますし、素人ながら科学ニュースや科学番組もよくチェックしています。科学を貶める気はさらさらありません。
でも人文系の学問は(例えば)人間の心を直接的に扱うものであって、科学より下に置かれていいとも思わないのです。
科学みたいに、証拠がどうこうとか、根拠がどうこうとか、証明がどうこうとか、そんなことを気にしていたら言うべきことも言えなくなります。
弟子:先生、「仁」って何ですか?
孔子:自分が嫌なことは人にもしないことだよ。
弟子:なんで? 証拠は? 根拠は? 証明して下さいよ。
孔子:……ぶん殴るぞ。
これは『論語』をパロディ化したものですが、こんな調子では儒学も成り立ちません。でも現実にはこの弟子と同じような考えが蔓延しているのです。
その意味では、ヘーゲル的な「理系は下、文系は上だ。文句あるか?」という態度も現代人への一喝としていいかもしれないと思います。
僕が言いたいのは要するにこういうことです。
近世以降、科学的思考法・科学的方法論が大成功を収めたことは疑いない事実ですが、学問というものはそれよりはるか以前から豊かな伝統と内容を持っていたのです。
その多様な諸学問はそれぞれの方法で真理の探究を行っていたはずで、それがここ数百年で発達した科学的方法論と違っているからという理由で価値が減るわけではないということです。
上で挙げた儒学の例なら、人生論・人間学を探究した結果として「自分が嫌なことは人にもしないことが仁(思いやり)だ」という真理に到達したのでしょう。
そして、それをテキストにして多くの人が体系的に学べるようにしているわけです。これが「学問」でなくて何でしょうか?
蔓延している「学問は科学的であるべし」などという発想は、人類が営々と築いてきた豊かな学問的伝統を破壊してしまうものだと僕は思います。
ヘーゲルの解説としては少し脱線してしまったかもしれません。
ただヘーゲルは「自然科学は学問のごく一部にすぎない」という当然の感覚を持っていた人で、それが彼の哲学体系にも表れているのです。
現代人はそれを忘れつつあると思うので、あえてここで述べてみました。
次回「ヘーゲル(5)差別主義者ヘーゲル?」では、「ヘーゲルは差別主義者である」というもう1つの批判について考えてみます。