前回「ヘーゲル(4)歴史は『自由への旅』である」では、ヘーゲルの歴史観を紹介しました。また「ヘーゲル哲学は非科学的である」という批判に対する考え方を述べました。
今回は、ヘーゲル哲学に対する「非科学的である」ということ以外の批判を取り上げます。
差別主義の問題
主なヘーゲル批判をさらに取り上げるとすれば何か。
それは「ヘーゲルは差別主義者である」という批判です。
そしてこれについては確かに一部当たっていて、擁護できない部分があります。
へ―ゲルは世界史の進展とともに人類の文化が高まっていくと考えています。しかしそれは、どの国・どの地域・どの民族でも同じように一律に高まっていくのではありません。
古代ギリシャで文化が発展すると、次にローマがそれを引き継いでさらに発展させる。そしてその頃にはかつて栄えたギリシャは没落している。
ローマ文化は次にゲルマン民族が引き継いでさらなる高みへ導く。その頃にはローマは没落している。つまり世界史で主役となって文化・文明を盛り上げる民族は次々に交代していくのです。
あるいは、こうした世界史の舞台にはまったく登場せず、文化の流れに取り残されたままの地域もあります。
ということは「世界には『高い文化』と『低い文化』が歴然と存在する」ということになります。
この段階ですでに批判する人がいるのも事実です。「文化や文明に上下をつけるのは傲慢で差別につながる」というわけです。いわゆる「文化相対主義」です。
しかし僕はこの文化相対主義そのものには賛成できません。やはり各文化・各文明には上下があるのではないでしょうか?
例えばジャングルで原始的な生活をしている人々の文化と、日本の文化のレベルは同じではないと僕は思います。
この違いを無視することは、日本の経済・政治・学問・科学・道徳・芸術を高めるべく心血を注いだ先人たちの功績を無視することであり「アンフェア」だと思います。
したがって「文化に上下があると言ったからヘーゲルは差別主義者なのだ」と言うつもりは僕にはありません。
※もちろん「上下がある」からと言って「いつでもそれを判定できる」とは限りません。例えば「日本文化とフランス文化のどちらが上か?」となると喧々諤々、大喧嘩になってしまうでしょう。
問題はこの先にあります。
客観的に見れば、確かに世界史の文化の中心は移り変わっているように思えます。
もしヘーゲルが「文化の中心はどんどん移り変わっていくが、どの民族も一度はその栄光に浴する可能性がある」と言っているなら、むしろ平等かつ公平でよいかもしれません。
ところがヘーゲルは「神が自己展開して自由を実現してゆく」という意味での世界史の主役になれるのはコーカソイド(白人)だけであると言ってしまっているのです。
ネグロイド(黒人)やモンゴロイド(黄色人種)にはその可能性がないというわけです。彼らの精神の発達には限界があるからというのがその理由です。
残念ながら、こうなってしまうと純然たる「人種差別」でしょう。
先ほど偉そうに「ジャングル生活をしている民族と日本人の文化レベルは違う」と言いましたが、僕は別に「永久にこの上下関係は変わらない」と言っているわけではありません。
もし日本人が怠けてしまって没落していけば逆転される可能性は十分にあるわけです。
僕は「どの民族や人種に属しているか」を基準にして、人間の本来的な優越性・劣等性を決めることが「差別」の本質だと思っています。
例えば、僕が誰かに「お前は●●人だ。俺たち日本人はもともと●●人とはデキが違う優等民族なのだ。だから永久に俺たちの方が偉いんだ」と言ったとすればそれは「差別」です。
ヘーゲルはそれを言ってしまっているわけで、残念ながら「差別主義者」という側面があることは否定できないと僕は思います。
ヘーゲルは国粋主義者か?
またヘーゲルは「世界史の発展はドイツで最終形態を迎える」という主張をしたので、「救いがたい国粋主義者」のような言われ方をすることもありますが、こちらについては留保が要ります。
ヘーゲルが若い頃、フランスのナポレオンがヨーロッパを席巻していました。ドイツ(当時はプロイセン)も戦いに敗れ、占領されてしまいます。
しかしヘーゲルは「神が自由を実現するためにナポレオンという人物を使っている」と考えていたので、むしろ自分の国がフランス軍に占領されて変革されていくのを歓迎しているのです。
普通の愛国主義者から見ればヘーゲルはむしろ「売国奴」「国賊」的な人物でしょう。
やがてナポレオンが失脚して、「ナポレオン以前の封建時代のドイツに戻ろう!」という国粋主義・民族主義の運動が強くなった時、ヘーゲルは彼らを痛烈に批判しています。
そうした愛国主義グループのリーダーの1人にフリースという人がいたのですが、彼は暴力を肯定する反ユダヤ主義者で20世紀のナチズムを先取りするような人物でした。
気に入らない書物を焼いたりするところなどナチスとそっくりですね。
そのフリースに対してヘーゲルは「最近流行している軽薄さのボス」「恣意を弁護する詭弁家」などと激しく罵倒しています。ここまで来ると単なる悪口のような……(^^;)
こんなわけですので、へ―ゲルに差別主義者という一面があることは否定できないとしても、後世のナチズムとは違うものだということも付け加えておきたいと思います。
もちろん「ヘーゲル哲学はナチズムに影響しなかった」「まったく関係がない」というつもりはありません。やはり影響はあったでしょう。その意味での責任はあると思います。
しかしヘーゲルには、ドイツであれ他の国であれ「神に使われてナンボ」という視点がありました。その神とは世界に「自由」を保障する制度を実現する存在です。
自由の実現を描くヘーゲル哲学と、人々の自由を圧殺するナチズムや全体主義とは本来まったくベクトルが異なるものだと僕は考えています。
ナチスは人受けのよい言葉をたくさん並べて大衆の支持を得ていきましたが、それでも「自由」という言葉だけは使いませんでした。それほど体質として合わない概念だったのです。
ちなみに(最近は分かりませんが)昔はよく「ヘーゲルは立憲君主制を支持したから反動主義者だ」という意見がしばしば聞かれました。
しかし彼の考える君主とは国家統合の象徴としてサインをするだけの人なので、現代の日本やイギリスに近い制度を想定していただけであり、こうした批判は当たっていません。
以上で、ヘーゲル批判に対する考え方を述べ終わったことにします。
勇気の原理として
さてヘーゲルの記事も今回で終わりにしたいと思いますが、彼の哲学から現代の僕たちが学べることを最後に考えておきたいと思います。
ヘーゲル哲学から学べることとは何か?
弁証法の難しいメカニズムなどはスルーしていいでしょう。「過度なヨーロッパ中心史観」「キリスト教を最高とする宗教観」「人種差別」も僕たちとしては気にする必要はありません。
しかし現代人がヘーゲルから学ぶべき大事な視点もあると僕は思います。あくまで僕なりにですが、大きくまとめると以下の点になります。
①大自然も人間もすべては神の表れであるということ
②神は自らの子である人類を導こうと歴史に働きかけていること
もちろん、これらの思想は神の存在を信じない人には意味がないかもしれません。
しかし「ヘーゲル(3)神と人間の『繊細すぎる』関係」で述べたように、僕は「人間の尊厳」を説明するためには神などの「人間を超えた存在」を想定する必要があるという考えです。
そして神の存在を想定してよいとすれば、そこから「神が人類のために歴史に働きかける」という発想になるのも自然ではないでしょうか?
もちろん、「神は存在するが、偉大なる神は人間の世界などには関わらない」という立場の人はいます。例えば「理神論」というのはそうですね。
これに対してどう答えるのかはまた別に議論が必要なので、ここでは触れません。
ただ「神はいるけど人間の世界には関係ない」というのは、下手をすると無神論になりかねないものです。これでは神の存在を説く意義はほとんどないのではないでしょうか。
戦争・テロ・貧困・差別など、世界には悲惨なことや悲劇的な出来事がたくさんあります。個人の人生においても苦難や困難はあるでしょう。
しかし大きな目で見ると、最終的には神仏が人類を見守っている。社会が良い方向へ向かうよう働きかけを続けている……。
こういう世界観を持つことができたなら、人類の未来に希望を持つこともできるようになるのではないでしょうか? 「みんなで社会をよくしよう」という気持ちも湧いてくるかもしれません。
ヘーゲル哲学はマクロ的で壮大すぎるためか、「個人への眼差しがない」と批判されることもあるのですが、人間1人ひとりの主観についてもきちんと分析しています。
それに「人間はみな神の自己表現である」という思想は、個人にとっても勇気の原理になるものだと僕は思います。あなたは塵芥に等しい単なる物質ではなく、神の一部なのです。
ミクロとマクロの視点を融合して、その両方において勇気と希望の原理を示している。こういう意味でやはりヘーゲル哲学は偉大だと僕は思うのです。