自由意志はない?(5)個性を創造する自由

科学哲学

 

「世界でどんな出来事がどのように起きるかは最初からすべて決まっている」という「決定論」によると、人間には自由意志は存在しないことになります。

また、「自由意志はない?(1)自由意志と道徳」では、自由意志がなければ道徳や善悪が崩壊することも論じました。

つまり「決定論が正しい」→「自由意志はない」→「道徳が崩壊する」という関係があるわけですね。

自由意志はない?(1)自由意志と道徳
NHKの「100分で名著」という番組があります。 古今東西の名著を100分で紹介する(25分×4回)というコンセプトで、僕もそれなりに好きで大体毎週見ています(再放送が多いのでそれは別ですが)。 そこで哲学者スピノザの『エチカ』という有名な...

 

道徳や善悪というものに意義を持たせるためには「決定論が間違っている」ことが絶対条件になります。しかし「決定論が間違っている」だけで道徳や善悪が成立するわけでもありません。

道徳や善悪が成立するためには、それ以外にも必要な条件があるように思えます。今回はそれについて考えます。

 

行為者因果

 

脳内現象をはじめとする様々な物理的因果関係に決定されてしまうことなく、行為者が言わば「第一原因」となって意志や行為を開始することを「行為者因果」と呼ぶことがあります。

アメリカの哲学者ロデリック・チザムなどに代表される考え方です。

 

自分が何を意志して何を行為するか……。こういうことが脳内の物理現象によって勝手に決まってしまうなら、僕たちは自分の意志や行為に道徳的責任を負えません。

自分で自分に責任を負うためには、脳内でどんな物理的現象が進行していようが、それとは関係なく意志や行為を決定している「自分という主体」がなければならないでしょう。

この「自分という主体」を「行為者」という言葉で表現しており、この行為者が原因となって何らかの結果を引き起こすことを「行為者因果」と呼ぶわけです。

 

しかし、この行為者因果という概念は「非科学的」で「正体不明」な概念であるとして非難されることも多いようです。

脳内の物理現象とは別にある「行為者」とは一体何なのか? 脳や肉体ではないとするなら、例えば「霊魂」のような不可解なものを認めることになるのでは?

こんな感じで、特に唯物論的な科学者たちは「行為者因果」という概念に何か不穏なものを感じるようなのです。

 

彼らの言い分としては「そもそも〈物理的でない何か〉が物理的世界に何らかの影響を及ぼすなどということは科学的ではないし、そんなことが可能であるなどと証明されてもいない」ということでしょう。

 

しかしながら、〈物理的でない何か〉が物理的世界に影響を及ぼすことなどあり得ないと証明されているわけでもありません。

別の記事で言っていますが、僕は「魂」「霊魂」があって肉体を動かしていると考えていまして、そうであるなら〈物理的でない何か〉が物理的世界に影響を及ぼしているわけです。

 

現時点では行為者因果というものを科学的に証明することはできませんが、科学的に否定することもできません。その存在を想定することはできるのです。

むしろ道徳を崩壊させないために必要であるならば、その存在を想定することが合理的であると言うべきでしょう。

 

ただし、行為者因果の存在を想定するにしても、道徳に意味を持たせるためには、その行為者因果の内容をさらに考察する必要があります。

人間の意志や行為は物理法則によって予め決定されておらず、行為者自身がそれらの第一原因となるとしましょう。

そうだとしても、例えば、行為や意志が全く無秩序に(自分でも予想不可能なかたちで)生じるなら、それは道徳的責任とセットになる自由だとは言えないでしょう。人間はそのような自由に対して道徳的責任を負えません。

 

「個性創造」「個性発揮」としての自由

 

 

では、人間が道徳的に責任を負えるような「自由」とはどんなものでしょうか?

ここからは僕の私見ですが、大体次のように考えています。

 

まず「〈私〉は自由である」と言うためには、①他人から区別される「個性ある私」という主体が確立されていなければなりません。

その個性とは「〈私〉はこういう時にはこう感じ、こう考え、こう行動する」という(他人とは違う)「法則性」「傾向性」です。

各人に個性があるからこそ、それを存分に発揮できるなら「自由である」と言い、環境や他人の影響によってそれを発揮できないなら「自由ではない」と表現できることになるのです。

 

そして、その個性を発揮して生きる自由に道徳的責任が伴うというなら、②その個性(法則性・傾向性)は自分で創造したものでなければなりません。

これはもちろん物理法則ではないし、(更新してゆけるので)例外がないような心理法則でもありません。

つまり、その人を外部から支配する法則ではないけれども、その人自らが創造した内在的な法則です。

カントはこういう自分なりのポリシーのようなものを「格律/格率」(Maxime)と呼びました。

 

南北戦争時のアメリカ大統領リンカンは「誰に対しても悪意を抱かず」という格律を指針にして生きたと言います。

この指針は彼の意志・感情・行為を律する内在的な法則でした。これは法則ではありますが、物理法則のように「以前の状態によって次の状態が決定される」という類の秩序ではないことは明らかです。

リンカンが自分で採用し、自分で築き、自分で磨いていった秩序ですね。そしてリンカンはこの指針に基づいて生き切ったので、まさに「自由」だったと言えるのです。

 

予め定められた法則に一律に支配されるのでもなく、意志・感情・行為がただ無秩序に生じるのでもない。自ら個性を創造し、その個性に基づいて意志し行動する……。

このような意味での「自由」を考えることができるのではないでしょうか。

そうした自由を持つ人間であればこそ、自らの行為に道徳的に責任を持つこともできるのです。

 

この「個性創造・個性発揮としての自由」は、現在のところ科学的に検証できる概念ではありません。

しかし一部の唯物論者のように「科学的に検証できない」という理由で門前払いするのは間違っています。

これは道徳学・倫理学の根拠を支えるものですから、極めて学問的な内容であるはずです。理系的な「科学」だけが「学問」ではありませんしね。

 

政治的にも「表現の自由」「信教の自由」「結社の自由」など、「ナントカの自由」というのがたくさんありますが、自由意志がないならこうしたものも無意味になります。

「自由意志」の存在を擁護する議論は抽象的なように見えて、僕たちの社会的な自由や人権にもつながる超・重要な議論なのです。