自由意志はない?(3)決定論とは

科学哲学

 

「自由意志はない?(2)リベットの実験」では、「人間に自由意志はない」ことを示唆すると言われている科学実験を紹介しました。

自由意志はない?(2)リベットの実験
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人間が自分の意志で決めたと思っている行為でも、「よしやろう!」と意思決定を自覚するよりも前に脳の活動が起きており、人がどんな風に意志するのかは脳活動によって決められているというのです。

脳で起きている電気的活動や化学物質の伝達は完全に物理的な現象ですので、私たちが崇高なものと思いがちな自由な意志決定も実際には「物理法則の奴隷」ということになってしまいそうです。

 

ただ、記事ではいくつかの理由を挙げて「必ずしも実験結果を自由意志の否定に結びつける必要はない」と述べました。

実験を行った科学者本人もそう考えていたのです。

 

さて、今回は自由意志というものを考える上で知っておくべき「決定論」という立場についてご紹介します。

 

決定論の意味(強い決定論)

 

決定論とは何か? 例を挙げて考えてみましょう。

 

テニスボールを上方斜めに投げ上げるとします。

この場合、投げ上げる角度・初速度・空気抵抗の強さなど(こういうのを初期条件と言います)が分かっていれば、その後のボールの動きは正確に計算できます。

高校物理の最初のほうでやった方も多いのではないでしょうか。簡単な運動方程式などを勉強していれば誰でも「何秒後に何メートル先にボールが落ちるか」が計算できるようになるでしょう。

 

初期条件と運動方程式が分かっていれば未来は完全に予測できる。

そして完全に予測できるということは「未来は最初から決まっているのだ」と考えることができる。これが「決定論」です。

 

決定論者は「世界が物理法則に従っている以上、世界の未来は決定されている」と考えます。

彼らも実際に正確な未来予測が難しいことは認めますが、予測が困難であるのは「初期条件について正確に知ることができない」という技術的な問題にすぎないというのです。

 

決定論者であり、しかも「人間の心は脳から生じる」と主張する唯物論者なら「脳も物質からできている。そして物質は物理法則に従う以上、人間の心が何を感じ考えるのかも最初から決定されている」と主張するでしょう。

人間の心理や行動がからむ社会現象(株価の変動など)は一見不確定に思えますが、これも厳格な決定論者によれば予め決定されていることになります。

 

非生物であろうが、意志を持つ生物であろうが、それらがどう動くかは予め決まっている。そもそも世界には「非決定の領域」がないというわけですね。

 

17世紀から18世紀にかけて活躍したフランスの数学者ラプラスは「ある特定の時間の宇宙のすべての粒子(原子)の運動状態が分かれば、これから起きるすべての現象は予め計算できる」と言いました。

すべての粒子の運動状態を知り、なおかつそれらを分析できる知性がもし存在するなら、その知性から見れば宇宙の未来は決定しているというわけです。この知性のことを「ラプラスの悪魔」と言います。

 

さて厳格な決定論によると、私たちには自分の意志や行動を決定する「自由」がないことになります。

そして私たちにそうした自由がないなら、私たちの意志や行動について責任を問うこともできなくなります。つまり「善悪」などの道徳的価値にも意味がないことになってしまうのです。

このように、決定論の立場から自由や道徳を否定する立場を「強い決定論」と呼ぶことがあります。

 

弱い決定論(両立主義)

 

これに対して、「決定論が正しくても自由がなくなるわけではない」と主張する人たちもいます。

決定論は正しいと思いたい。「物理的に決定できない領域がある」と認めるのは、何だか世界に神秘やオカルトを持ち込むみたいでイヤだ。でも「自由」や「善悪」を否定する人でなしとも思われたくない……という感じでしょうか(^^;)

 

決定論と自由とが両立すると説くこの立場を「両立主義」と言います。自由を否定するような強烈な主張をしないという意味で「弱い決定論」と言われることもあります。

 

しかし「意志は脳の内外で起きている物理現象に従って決まる」はずなのに、それでも「自由がある」とはどういうことなのでしょうか?

その理屈は例えば以下のようなものです。

 

エアコンの自動制御装置は「暑ければ涼しく、寒ければ温かく」という風にしっかり自己コントロールして機能を果たします。両立論者はこの状態こそが「自由」だと言うのです。

 

つまり、物理的・決定論的なメカニズムによって動いているだけですが(人間に壊されるとか)何らかの外部的強制を受けたり、内部メカニズムがその働きを邪魔されたりしていない限り「自由」だと表現してよいというわけです。

先ほどのテニスボールの例なら、投げ上げられたボールが、何も邪魔がなければそこまで到達できたであろう位置まで実際に飛べたら「そのボールは自由だ」ということになります。

 

古くは17世紀の哲学者トマス・ホッブズもこの立場です。

彼は社会契約論を説いた人物として有名ですが、すべては物理法則に従って動くだけの機械のようなものであるという「機械論」を説いたことでも知られています。

当然、ホッブズも決定論者ということになりますが、彼の主著『リヴァイアサン』を読んでみると現代の両立主義者とほとんど同じ議論をしていて驚かされます。

 

しかし結局、弱い決定論では全てが機械的な法則に支配されていることに変わりはありません。

「内部」と「外部」を分けて(この分け方も恣意的です)「外部からの邪魔がないなら〈自由〉と表現してよいことにしよう」という提案をしているだけです。「自由」という言葉の定義を変えているだけですね。

 

言葉の定義を変更するのは勝手かもしれません。しかしそれは「物理的・機械的な法則の支配を脱した〈真の自由〉は本当にあり得ないのか」ということを探究してからにすべきではないでしょうか。

言い換えるなら「決定論が間違っている可能性はないのか」をしっかり検討する必要があるということです。

 

両立論者はその可能性がない(決定論は絶対に正しい)と考え、決定論と妥協できるように「自由」という言葉の意味を矮小化しているように思えるのです。

 

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