アリストテレスの哲学(4)徳を高める生き方(倫理学)

哲学者ごとの解説

 

「アリストテレスの哲学(3)目的に満ちた世界(自然学)」では彼の自然学について基礎的な部分をご紹介しました。

アリストテレスの哲学(3)目的に満ちた世界(自然学)
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今回はアリストテレスの倫理学(と少しだけ政治学)について語りたいと思います。

彼の自然学は近代科学によって克服され、今そのまま信じる人はいないでしょう(何らかのヒントを探る人はいます)。

しかし倫理学については今でもアリストテレスの考え方を参照する思想家は多く、現代においても現在進行形で「生きている」思想と言えると思います。

 

徳(アレテー)と善(アガトン)

 

では、枝葉を切ってアリストテレス倫理学の本質的な部分だけを骨太に解説することにします。

 

アリストテレス哲学では、個々の存在物に「エイドス」(形相)という本質が宿っているのでした。プラトンの「イデア」に相当するものです。

自然学では、このエイドスが事物を存在させたり運動させたり成長させたり変化させたりすると考えられていました。

 

このエイドスと関連すると僕は思うのですが、アリストテレスは「その存在者にとって固有の卓越性」あるいは「その卓越性を十分に発揮できる状態にあること」を「アレテー」と呼びます。これが日本語で「徳」と訳されるものです。

 

例えば人間なら「知性」がこれに当たります。人間は他の動物にはない「固有の卓越性」として知性を持っていると言えるからです。

これはすなわち人間の「エイドス」でもあるでしょう。そしてその固有の卓越性である知性を発揮できる状態にあることが人間にとっての「アレテー」(徳)であるというわけです。

 

※ちなみにアリストテレス哲学では人間特有の精神能力に関連する言葉が「ヌース」「ロゴス」「ソフィア」「フロネーシス」などたくさんあります。訳も「直知」「理性」「思慮」「智慧」などたくさんあって混乱しますが、今回はこれらを「知性」という言葉でまとめておきたいと思います。

 

人間の本性としては、他の動物とも共通する感覚能力・生殖能力・運動能力などもありますが、これらは人間にだけ備わった人間独自の本性とは言えませんよね。

動物であればこれらの能力を発揮すれば十分ですが、人間ならば「知性」を発揮できるようにならなければ「徳がある」とは言えないということです。

 

もちろん他の動植物にもそれぞれのアレテーがあります。

例えばスミレなら綺麗な花をしっかりと咲かせることが自らの本領を発揮することであり、これがアレテーでしょう。

チーターならしっかりと成長して時速100キロ(でしたっけ?)で走れること、鈴虫なら秋の夜長に美しい鳴き声をあげられることがアレテーということになるでしょうか。

 

徳(アレテー)とは「固有の卓越性を発揮できる状態にあること」です。つまり「そのための準備が整っていること」と言い換えることもできます。

それに対して、善(アガトン)とは「実際に卓越性を発揮していること」です。

 

例えば、小学生が算数の勉強をして四則演算ができるようになったとします。

この四則演算ができる〈能力を身につけた状態〉を「徳」と言い、実際に四則演算をやって〈能力を発揮している状態〉を「善」と呼ぶのです。

やろうとすれば四則演算できるけど今はやっていないなら「徳」、実際に四則演算しているなら「善」ということですね。

勉強したおかげで英会話ができるようになったとして、今は英会話をしていないなら「徳」、今まさに英会話をしているなら「善」です。

 

これは前回「アリストテレス(3)目的に満ちた世界」でご紹介した「可能態」「現実態」の話とつながっていることがお分かりいただけるのではないでしょうか(冒頭にリンクあり)。

現実態とは「あるものが本来の姿を成就している状態」、「可能態」とは「あるものがまだ本来の姿になっておらず可能性に留まっている状態」でした。

この考え方でいくと「徳」が実現して現実態になったものが「善」だと言えますし、反対に「善」がまだ成就せず可能態に留まっているものが「徳」であるとも言えるでしょう。

 

まとめると、その事物にとって固有の卓越性を発揮できるようになることが「徳」であり、実際にそれを発揮することが「善」であるということです。

人間にとっては固有の卓越性である知性を鍛えて磨いておくことが「徳」、その知性を実際に発揮することが「善」であるというわけですね。

 

倫理的な徳

 

なるほど、知性を発揮して生きることが人間にとっての「善」であるということは分かった。

でも、ここまでの話だとあまり「倫理学」っぽくないと思われるかもしれませんね。

大丈夫、ここから倫理学っぽくなっていきます(^^;)

 

人間特有の卓越性=徳として「知性」を挙げました。これらは「知性的徳」と言われます(「これら」と言うのは知性にもいろいろあるからです)。

しかし実は人間の徳はこれだけではないのです。

知性的徳とは別に、知性そのものとは違いますが、知性によって動物的欲求が統御される過程で培われる卓越性=徳もあるのです。そちらは「倫理的徳」と呼ばれます。

 

例えば、動物は恐怖を感じたら本能的に逃げるだけですが、人間は「今は逃げるべきではない」という知性の勧告に従って踏み止まることもできます。これは「勇気」ですよね。

また、本能に流されるだけなら自堕落になりますが、人間は知性的に考えてそれを改めることができます。これは「節制」という徳です。

これらもやはり他の動物には真似できない、人間だからこその固有の卓越性であり徳です。そしてこれらを実践することも善です。

 

さらに、アリストテレスによれば「善」イコール「幸福」(エウダイモニア)です。

 

つまり人間に固有の性質(①知性および②知性が欲求を統御することで生じる心の傾向性)を磨いておくことが「徳」であり、それらを発揮することが「善」であり、それがすなわち人間にとっての「幸福」であるということです。

 

こうしてみると、アリストテレスが「性善説」と言うか、人間や動植物を含めた存在物を本質的に善きものと考えていることが分かりますね。

それぞれの本質を遺憾なく発揮することが素晴らしいというのですから。

日本の哲学者・西田幾多郎は主著『善の研究』の中でアリストテレスのこういう思想を「活動説」と呼んで賛同しています。

 

政治学

 

 

政治学についても少しだけ述べておきます。

 

アリストテレスは「人間はポリス的動物である」と言いました。

有名なので知っているとカッコイイかもしれません(笑)。

ポリスというのはアテナイとかスパルタといった都市国家のことで、社会と言い換えてもいいでしょう。要するに「人間は本質的に社会を形成する動物である」ということです。

 

この「社会を形成する」ということが人間の本質(エイドス)であるとするなら、社会を営みながら生きていくことが人間にとっての「善」であり「幸福」であるということになります。

 

それぞれのエイドス(本質)を発揮することが善であり幸福である。

 ↓↓↓↓↓↓

人間のエイドス(本質)には「社会の形成」が含まれている。

 ↓↓↓↓↓↓

人間にとって社会を形成することは善であり幸福である。

 

というわけで、倫理学と政治学がうまくつながりました(笑)。

こういうことですので、アリストテレスにとって「倫理学は政治学の土台であり入口であり一部である」という関係になっているのです。

 

社会を築くことが善であるということはよいとしましょう。

次に問題となるのは「社会や国家を運営していくにあたって(つまり政治をしていくにあたって)目標とすべきことは何か」ということでしょう。「政治の目的とは何か」ということです。

これについて本人が分かりやすく明言しているわけではないかもしれませんが、彼の倫理学を踏まえて考えるならば「政治の目的とは、個々人の徳の陶冶および善の実現が可能であるような社会をつくり維持すること」になるのではないでしょうか。

 

さてアリストテレスも師プラトンと同じく様々な政治体制の分析や順序づけを行っていますが、プラトンほど面白くないし、そのくせ複雑で分かりにくいので解説するのはやめておきましょう(^^;)

1つだけ言っておくと、民主主義はプラトンの場合ほど毛嫌いされているわけではありません。

1人の支配者が自分の欲望のままに政治を行ったり、少数の支配者が自分たちだけの利益のために政治をするよりは民主主義の方がマシで、「まぁアリかな」くらいの感覚ですね。

 

アリストテレスの倫理学・政治学を見てきました。

どちらかと言えば、近代以降の倫理学では善悪や道徳の基準として「行動」や「行動の結果」が重視される傾向がありました。

行為する人間の「徳」「人柄や人格の立派さ」といった精神的な要素は(まったくとは言いませんが)あまり考察されてこなかったのです。

しかし道徳を論ずる際にそういった「人格が陶冶されているか」「魂が磨かれているか」「心が練れているか」といったものが欠落していていいとは思えません。

東洋の仏教や儒教ではそういった面がむしろ重視されますよね。西洋でも古代はそうだったわけで、そういった伝統を復興させようとする人たちもいるわけです。

アリストテレス倫理学はそういった文脈で最もよく参照される貴重な思想と考えられているのです。