「アリストテレスの哲学(2)すごい業績を大まかに紹介」では彼の業績を概観しました。
今回はその中でもアリストテレスの「自然学」がどんなものだったか、そのさわりだけご紹介したいと思います。
ここを見ておくと、アリストテレスが師プラトンから受け継いだ「イデア」についてどのように受け継ぎ、どのように修正したのかがよく分かるからです。
本質なくして存在なし
プラトンもアリストテレスもそうだと思いますが、彼らの思考法には(当然ながら)現代人とは違う発想があります。
彼らは物事の「本質」をとても重視します。プラトンはこの本質を「イデア」と呼び、アリストテレスは「エイドス」と表現することが多いのです。
どちらも語源は同じであり、さほど区別しなくてもいいでしょう。
現代の人も「物事の本質をよく見極めなさい」とか「本質的に考えなさい」と言うことはありますが、そういう教訓レベルの話ではありません。
プラトンやアリストテレスによれば、「本質がなければそもそも物事は存在できない」のです。
プラトンはこの世にある事物はイデアを「分有」する(分けてもらう)ことで存在できていると考えました。
アリストテレスもやはりそうです。彼によれば、人間の本質(エイドス)が父親の精液の中に含まれていて、それがこの世の物質や元素をうまく組織・配合して人間の肉体を実際に形成していくというのです。
本質というのは、この世の材料を使いながら「ある事物を現実に存在させるにいたる力もしくはエネルギー」のようなものなのです。
この辺りの発想法が理解できれば、プラトンやアリストテレスの哲学も少しは分かりやすくなるのではないでしょうか。
以下の話もそういうことが大前提になっています。
4原因説
アリストテレスは本質(エイドス)も含めて、自然物(動物・植物・物体・天体など)が生成・変化する4つの原因を挙げています。
これは「自然物が存在するために必要な条件」というイメージでいいと思います。アリストテレスのこの考えを「4原因説」などと言います。
ちなみに「物体」を「自然物」の中に入れていますが、ここで言う「物体」の中には人工的に作られたものも含みます。
①質料因
これはその自然物が「何からできているか」という側面から見た原因です。要するに「材料」ですね。家なら木材とかコンクリートがそれに当たります。
②形相因
これがその自然物の「本質」です。つまりプラトンの言う「イデア」であり、アリストテレスの言う「エイドス」です。
この「エイドス」の日本語訳が「形相」ですね。
プラトンは家なら家について目に見えないイデア(本質・原型・理想形)が霊界にあって、それが「分有」されることによって現実の家が生じるという考えでした。
すでに述べたように、この発想をアリストテレスも受け継いでいるわけです。材料(質料因)だけあっても、そこに「本質」がなければ現実的な事物として実体化しないというのです。
しかしプラトンの場合、諸事物がイデアを「分有する」ということの意味が曖昧でした。
霊界に家のイデア(本質・原型・理想形)があって、それがバラバラに分裂して現実世界のたくさんの家に宿るという理解でいいのか(~~?)……といった問題があったのです。
アリストテレスは「エイドス(イデア)は霊界にポツンとあるもの」とは考えず、個々の自然物にそれぞれ内在するものだと捉えます。家を家たらしめる内在的な力のようなイメージです。
これが木材やコンクリートを適切に配剤して人が住める建物にするのです。上で述べましたが、個々の事物に内在してそれをそれにする「力」もしくは「エネルギー」のようなものですね。
③起動因(もしくは作用因)
これは事物を現実に作っていく原因です。家の場合なら大工さんということになりそうですが、アリストテレスによると、家の起動因は大工というよりむしろ「大工の技術」だと言います。
大工は人間ですが、人間であればだれでも家が作れるわけではありません。大工技術を持った人でないとダメです。だから家の真の起動因を挙げるなら大工ではなく大工の技術だと言うのです。
この技術が大工の手や道具を動かすことによって材木や石やコンクリートなどの材料(質料因)を動かしたり変形させたりして最終的に家を作り上げるのです。
でもこれは先ほどのエイドスと関係がありそうです。エイドスとは本質・原型・理想形であり、家を家たらしめる内在的な力のことでした。
大工技術が起動因となるといっても、大工の心の中には家の本質・原型・理想形(つまり設計図・施工図のようなもの)があって、それが大工技術として現れると考えられます。
つまり形相因と起動因は実体としては同じものなのですが、その事物を形成していく力という側面に注目した言い方として「起動因」という言葉があるのです。
アリストテレスはそもそもエイドス(形相)を「事物を形成していく力」と考えているので、起動因と別のものではないということです。
この「実体としては同じだが言葉の上で区別される」ということでは、次の「目的因」も同様です。
④目的因
これは事物が完成した未来の姿です。家の場合なら「完成した状態にある家」です。
「完成した未来の姿が原因になる」というのは奇妙な感じがしますが、これは事物の本質・原型・理想形(=完成形)であるエイドス(形相)が内的な駆動力となって事物を完成形へと導くという発想です。
こう述べるとお分かりのように、この「目的因」というのは、「形相因」および「起動因」と実体としては同じものだと言えます。
実体としては同じ力あるいはエネルギーですが、事物がまだ生成途上にある場合は「目的因」と言い、事物が完成してそのエネルギーが事物の内に安らいながら事物を維持している場合は「形相因」と呼ぶと考えていいでしょう。
そしてそれらについて「実際に生成していく力」という側面に注目する場合は「起動因」と呼ぶのです。
したがって、アリストテレスの自然学は形相因(=起動因=目的因)と質料因による二元論的な理解の上に成り立っていると言えるのです。
4原因説による自然現象の説明
上で挙げた家というのは、静止している事物の例でしたが、アリストテレスは4原因説を動いている物体にも当てはめて考えます。
現在であれば物理学(力学)が扱うような運動のメカニズムも4原因説で説明しようとしたのです。
アリストテレスの「運動」概念は広くて、物体の位置変化だけではありません。彼の言う「運動」には、①位置変化、②性質変化、③量変化、④実体変化、があります。
①位置変化は物体が移動すること、②性質変化は(花の色など)物の性質が変わること、③量変化は何かが増大・減少することです。生物の成長なども含まれます。
④は上で挙げた家の例がそれに当たりますが、何かが生成したり、反対に消滅したりすることです。
例えば①位置変化を取り上げてみます。土の塊が地面に落ちるという現象がその例です。
現代人なら「土の塊と地球の間に引力が働くからそういう現象が起きる」と説明するところですが、アリストテレスは違います。
土とはそもそも「下方へ直進運動するもの」だと言うのです。
つまり土のエイドス(本質)の中に「下方へ直進運動する」という規定が含まれているから、そのエイドス(形相因)が起動因・目的因となって土を地面へと移動させるのです。
でも「どうして土は地面に落下するのか?」と聞かれて、「地面に落ちるのが土の本質だからだ」と返答するのってなんか腑に落ちません。
論理的に考えると「土はもともとそういうもんなんだ!」と言っているだけです(笑)
近現代の哲学者や科学者はアリストテレスのこういう考え方を大いにバカにして笑うのですが、それはちょっと気の毒な感じがします。
ある疑問をぶつけられて「もともとそういうもんなんだ」という答え方をしているわけですが、よくよく考えればこれは現代でも同じですよね。
量子力学や相対性理論といった世界の基本法則がありますが、「ではなぜそのような法則が存在するのか?」と質問されれば「世界はそうなっているのだから仕方ないだろう」と答えるしかありません。
現在は「超弦理論」というのが研究されていて、これが量子力学や相対性理論をも説明してしまう「万物の理論」かもしれないと期待されているようです。
だとしても「ではどうして超弦理論のような法則があるのか?」という疑問がやはり出てきます。それに対しては「もともとそうなっている」と言うしかないでしょう。
アリストテレスの時代には「土や水は下方に直進運動する」「火は上方に直進運動する」ということが、それ以上その理由を説明できない根本的な事実だったのでしょう。これは仕方ないと思います。
さて、アリストテレスは生物の成長についても4原因説で説明します。
生物の場合、エイドス(形相)に当たるものは「霊魂」です。
人間なら人間のエイドスが霊魂として宿っているからこそ、筋肉・骨・毛髪などの材料(質料因)がうまく組織・配剤されて人間の姿かたちをとるというわけです。
その霊魂は完成された大人の姿(目的因)を実現するべく、内部からムクムクとエネルギーを発動させて(起動因)身体を成長させます。これは上で挙げた③量変化ですよね。
また子供の時であれ大人になってからであれ、身体を動かす起動因となるのは霊魂です。確かに死んで霊魂が抜けてしまえば身体は動かなくなります。
このようにアリストテレスは自然界のありとあらゆる変化を4原因説で捉えようとします。
可能態と現実態
ここでアリストテレス哲学の重要概念をさらにご紹介しておきます。「可能態」と「現実態」というものです。
とは言え、これは4原因説とは別のことを言っているわけではないと考えていいでしょう。同じことを別の表現で言っているだけだと解釈できます。
現実態(エネルゲイア)とは「あるものが本来の姿を成就している状態」であり、可能態(デュナミス)とは「本来の姿はまだ成就しておらず可能性に留まっている状態」のことです。
これも家の例で考えてみます。
木材やコンクリート(質料)はバラバラに用意されているが、それが設計図や大工技術といったエイドス(形相)と結びつかずにまだ家として建築されていないならば、その家はまだ「可能態」にあります。
これらが結びついて現実に家として建ったならば、その家は「現実態」にあります。
次に人間の例。
人間のエイドス(形相)は霊魂ですが、霊魂として漂っているだけでは人間としてはまだ「可能態」です。これが筋肉・骨などの質料と結びついて現実に生きる人間となったならば「現実態」です。
つまり、この「可能態」「現実態」というセットの概念は、4原因説で述べたようなことを「もう本来の姿になっているか」「まだ本来の姿になっていないか」という観点から言い直したものということになります。
ここもポイントですが、実はこの「可能態」「現実態」は段階的になっているのです。確かに現実に完成して建っている家は「第一の現実態」にあるとは言えます。
しかし家のエイドス(本質)の中には「人が住むもの」という規定が組み込まれているはずです。人が住まないものは家ではないでしょう。
ということは、ただ単に建っているだけでまだ人が居住していない家はまだ本来の家ではなく、人が実際にそこで生活してはじめて家としての本質を申し分なく実現していることになります。これが「第二の現実態」です。
人間についても同じことが言えます。
人間として生き、呼吸をして食事をしているならば「第一の現実態」であるとは言えるでしょう。しかしそれだけなら動物も同じですよね。
他の動物と異なる人間のエイドス(形相)には「智慧」「思考」というものが組み込まれているはずです。
そうであるならば、智慧を発揮して生きていなければ人間として「第二の現実態」にあるとは言えないというのです。
この辺りの考え方はアリストテレスの倫理学・政治学にも関連していますので、別記事に譲りたいと思います(下にリンクあり)。
さて、アリストテレス流の自然理解が近現代の物理学や生物学とはまったく違うことがお分かりいただけたのではないでしょうか。
近世の科学者たちはこのアリストテレスの自然学を否定することによって近代科学を生み出していったのです。
でも僕個人としては、古代の人がどのように世界を理解しようと努力していたか、その息吹を感じられるような気がしてアリストテレス自然学は新鮮で面白いですね。
他にも「4元素説」「天体論」「動物学」など、具体論に入っていくならアリストテレスの自然学にはいろいろなトピックがあってそれぞれ興味深いものです。
しかしそれらもここで紹介した「4原因説」「可能態と現実態」を基本原理としてその応用として理解できるものになっています。
したがって、アリストテレス自然学のさわりとしてはこれだけ押さえておけば十分だと言えるでしょう。
「アリストテレスの哲学(4)徳を高める生き方(倫理学)」では、彼の倫理学・政治学をまとめます。