今回から「霊」「魂」をテーマにいくつか記事を書いていきたいと思います。
簡単に言えば「人間は死んだ後も、霊あるいは魂として存続するのか」という問題について論じていきます。
霊と哲学の本質的な関係
このブログは哲学や思想の解説ブログですが、僕としては「霊が存在するかしないか」「死んだら終わりかそうでないのか」は哲学における超重要問題だと思っているんです。
なぜなら、人間の霊(魂)が死後も存続するかどうかは、人間の生き方にズバリ関係してくるはずの問題だからです。
例えばですが、伝統的に多くの宗教が説いてきたように「善人として生きたら天国行き、悪人として生きたら地獄行き」なのだとすれば、人間は正しく生きなければ損です。
反対に唯物論者が説くように「死んだら灰になって終わり」なら、ハチャメチャな生き方をしても構わないかもしれません。
具体的に「どんな信念がどんな生き方につながるか」についてはもう少し細かい議論が必要でしょう。上のような組み合わせだけではないかもしれません。
しかしながら、一般的に言って「死後に霊(魂)として存続するかどうか」は人間の倫理・道徳と関連があることだけは確かです。
そして倫理学は哲学の大きな柱の1つですから、結局、「霊の存在問題と哲学には論理的な関係がある」ということになるわけです。
それなのに大学など世間一般の学問の世界では、霊の問題というのは基本的にスルーされています。しかも「どうしてスルーするのか」という理由は曖昧なままなんです。
大学の哲学科で霊の話をしたりすれば「そういうのは学問じゃないから……」「信じるのは勝手だけど……」という冷笑的ムードに包まれます(笑)
僕が「霊が存在するかどうかは哲学的に重要な問題だ」と主張しても、まさに「暖簾に腕押し」でほとんど手応えがないんですね。
例えば「霊など哲学が扱う必要はない! なぜなら……」と理屈で反撃してくれれば議論することもできますが、「態度」「冷笑」「ムード」で排除してくるのでどうしようもありません。
さてしかし霊の死後存続と倫理学に関係があるとしても、果たして霊を学問的に論じることができるのかという疑問が出てくるかもしれません。
これについては「できる!」というのが僕の回答です。
さらに言えば単に「議論ができる」というレベルを超えて、「すでに結論が出ている」「霊は存在する」というのが僕の言いたいことなのです。
これまでに提示された証拠を集め、それを材料にして論理的に考察する限り、この結論は動かないでしょう。「霊は存在すること」はすでに「証明」されています。
僕はこの問題に関してすでにKindle本にしてまとめていますので、詳細はそちらをご覧下さい。
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ただ「本を買って読んでね」と言うだけだとやっぱり不親切なので、売れ行きが落ちることを覚悟の上で(笑)ブログでもポイントだけまとめておこうと思います。
臨死体験
霊が存在する証拠として僕が主に念頭に置いているのは、いわゆる「臨死体験」の研究です。
臨死体験とは、人が死に瀕した状態で不思議な現象を体験することです。例えば「事故で瀕死の重傷を負った人があの世を見てきた」というアレです。
臨死体験には魂が肉体から抜け出す「体外離脱体験」を伴うことが多いと言われています。
ただし体外離脱のない臨死体験もありますし、死に瀕していないのに(臨死状態ではないのに)体外離脱することもありますので、学問的には一応2つを分けて考えるようです。
臨死体験には「意識がなかったはずなのにその間の出来事を詳細に語る」「霊界らしき場所で故人に出逢う」など、典型的なパターンがあることが知られています。
もちろんそういう証言そのものは大昔からありましたが、本格的な研究としては20世紀後半から始まりました。
レイモンド・ムーディ(1944-)やエリザベス・キューブラー=ロス(1926-2004)の研究が有名で、その後も多くの研究者が続いています。
個人的な話になりますが、僕は雑誌記者だった時代、取材チームのメンバーと一緒に(スカイプで)ムーディ博士にインタビューしたことがあります。
いい感じのおじいちゃんでした(笑)
唯物論的解釈が不可能なケース
こうした研究者たちはこれまでに膨大な量の臨死体験の事例を収集し研究してきました。
そうした事例の中には「霊(魂)が肉体から独立して活動できること」を前提しないとどうしても説明できないものが一部あるのです。
つまり「錯覚」「偶然」で片付けようとする唯物論的な説明を受け付けない事例がやはりあるわけです。
もし「霊の存在を想定しなければ説明不可能である」という事例がたった1つでも確実に認められれば、そこで霊の存在証明は完了となります。
そんな例の1つをご紹介しましょう。
これは有名なのでいくつかの本に載っていますが、ここではフランスの医師・臨死体験研究者シャルボニエの著書『「あの世」が存在する7つの理由』に依拠します。
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これはアメリカの女優・歌手であるパメラ・レイノルズのケースである。
1991年、彼女は脳幹にできた動脈瘤を切除するため、「低体温循環停止法」という大がかりな手術を受けた。
まず彼女は脳から血を抜かれた。こうすると脳波はゼロになり脳活動はストップする。そのことは脳電図(EEG)で確認できる。抜かれた血は身体の外で循環させておく。
通常、脳は血液循環がストップすると数分で致命的な損傷を受ける。それを防ぐために患者の身体を低体温にしておく(15.5度)。
この低体温では脳の神経細胞(ニューロン)同士が何らかの情報伝達をすることは不可能である。
ちなみに彼女の両目には絆創膏が貼られて塞がれていた。
レイノルズは約1時間、この状態のままだった。そしてその間に手術が行われ、動脈瘤は無事に摘出された。
レイノルズが目を覚ました後、仰天すべきことが起きた。
脳活動の完全な停止が確認されていたにもかかわらず、彼女は手術中に起きた出来事(手術器具の形状や医師たちの会話など)を詳細に描写・報告したのだ。それらは事実と一致していた。
昏睡状態になる前後でレイノルズが手術器具を見ていないことは確認されている。
レイノルズ本人によると、彼女の意識が手術中に身体から離れ、手術の一部始終を観察した後、別の場所に移動してすでに亡くなっていた祖母やおじと再会したのだという。
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この話が正しいとするなら、レイノルズは「脳を使わずに」手術室での様子を見聞きしていたことになります。
彼女は「吸引用のカニューレを差し込むには血管が細すぎる」「左右両方の血管から吸引するように」といった医師同士の会話を正確に報告しています。
そして彼女は手術用の器具やそれを入れる箱についても正しく描写しました。箱は高さがあり、上から見下ろさないと中身を見ることはできなかったそうです。
手術器具が手術台にセットされたのは彼女の意識が喪失した後ですし、それらが撤去されたのは、手術後に彼女が別の部屋で目を覚ますよりずっと前でした。
これらの事実を考え合わせるなら、レイノルズ自身がそう主張する通り、「彼女の魂が肉体を抜け出して周囲の様子を見聞きしていた」と結論するしかないでしょう。
これ以外にも心停止状態(=脳活動停止状態)において臨死体験をしたというケースは数多く報告されているのです。
レイノルズの場合、「その体験報告の中に第三者によって客観的に確認できる事実が含まれていた」「実際にそれが正確であった」という点で特に劇的な事例であると言えます。
幻覚説が通用しない
このケースが科学的に重要なのは、臨死体験に対して否定派がよく言う「脳が起こした幻覚だ」というタイプの反論が通じないからです。
唯物論者たちは様々な理由をつけてレイノルズの話を否定しようとしました。
例えば彼らは「脳の酸素不足による錯覚だ」「手術中の音から解釈して脳がイメージを創作したのだ」などと反論してきたようです。
しかし脳活動が停止していたことが客観的に確認されているのに「脳による錯覚」「脳による創作」というのは無理があるでしょう。
レイノルズの件に関する否定派による反論とそれに対する再反論については割愛します。詳細はシャルボニエの著書に書いてありますので、そちらをご参照下さい。
一般的に言って「脳による幻覚説」はそもそも脳活動が停止していたことが確認されている事例には適用できません。
特にレイノルズのように、意識喪失していたはずの時間に起きていた現実の出来事を正しく報告したという場合はなおさらです。
さらに死に瀕した人の周囲にいる人々が不思議な体験を共有する「臨死共有体験」という現象があり、幻覚説はそれについても説明できないのです。
例えば死の床にある人を見舞うために親族たちが集まっている時などに、その親族たち複数人が同時に「亡くなったおじいちゃんの姿を見る」ということがあります。
他にも「神秘的な音楽を聴く」「不思議な光を見る」「空間が歪む」「引き上げられる感覚を持つ」といった体験を共有することがあり、数多く報告されています。
これらは脳の幻覚ではないでしょう。脳ミソは別々なのに、複数の人たちが揃いも揃って同じ幻覚を見るとは考えにくいからです。
確かに脳の幻覚説は否定派にとっては非常に使い勝手がいいものです。どんなリアルな体験報告があっても「幻覚だよ♡」の一言で葬ってしまえますから。彼らのいわば「必殺技」です(笑)
そして幻覚説には嫌になるほどバリエーションが多いのです。
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・脳の酸素不足による幻覚
・二酸化炭素過多による幻覚
・脳内物質による幻覚
・側頭葉などへの電気刺激による幻覚
・意識不明から回復して脳が再起動する際の幻覚
・レム睡眠時の夢が現実に侵入することによる幻覚……。
要するに幻覚を起こすことが分かっている脳のメカニズムを羅列しているだけですが、「それが本当に臨死体験の説明として正しい」ということは証明できていません。
一般的な話として「それが原因かもしれない」ということと「それが原因である」ということはまったく違います。
それなのに反対派は「原因かもしれない」メカニズムをひたすら数え上げればそれで十分だと思っているらしく、実際に「それが原因であること」の証明を怠っているのです。
またこれはある宗教学者が指摘していることですが、上で挙げたようなことが原因で起こる幻覚には共通の特徴があると言います。
そういう幻覚は「歪んだ視覚」「混乱した思考」「断片的で脈絡のない記憶」「恐怖や不安などのマイナス感情」を引き起こすのだそうです。
これは臨死体験の際に一般的に見られる「普段以上に明晰な知覚や意識」「ストーリー性のある一貫した経験」「大きな安心感や幸福感」とは対照的です。
両者の間に「統計的に意味のある違い」があるなら、幻覚論者はそのことについて科学的な説明が求められるのではないでしょうか?
臨死体験(例えば体外離脱体験)は上のような状況にない人でも普通に起きることがあるようです。健常者が日常生活をしていて突然起きるケースもあるのです。
したがって、幻覚説が当たっているケースもあるのでしょうが、何でもかんでもそれで済まそうとする態度には科学的に問題があります。
今回ご紹介したように、幻覚説が通用しない事例も確かにあるのです。
さて次回「霊が存在する理由(2)懐疑も度を超せば有害」では、引き続き臨死体験の話をしていきます。
〈参考文献〉
- 『「あの世」が存在する7つの理由』(ジャン=ジャック・シャルボニエ著、石田みゆ訳、2013、サンマーク出版)