フォイエルバッハ(2)無神論に「根拠」はあるか

哲学者ごとの解説

 

前回「フォイエルバッハ(1)現代的無神論の源流」では、フォイエルバッハがいかにしてヘーゲル思想を換骨奪胎して無神論を説いたかを述べました。

フォイエルバッハ(1)現代的無神論の源流
今回はフォイエルバッハ(Ludwig Feuerbach/ 1804-1872)の思想を取り上げたいと思います。 今の日本ではそれほど有名ではないかもしれません。しかしこのフォイエルバッハ、実は現代思想に巨大な影響を与えている人なんです。 ...

 

今回は、そのフォイエルバッハ思想をどう評価すべきかについて私見を交えて述べてみたいと思います。

 

死後の魂はない?

 

その前に、フォイエルバッハ思想のもう1つの重要論点について触れておきます。

それは、「神」と並ぶもう1つの宗教的テーマである「死後の魂」のことです。

 

フォイエルバッハは、人間の魂が死後も存続することを否定しました。宗教や神話が昔から説いてきたような「人間は死んだらあの世に行く」というのはウソだということですね。

フォイエルバッハは「人間は自らの知性・意志・愛を理想化し、それを外部に投影して『神』を創作する」と論じました。死後の魂についても考え方は似ています。

 

人間は様々な欲望に動かされる存在であり、純粋でも無垢でもない。

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それにもかかわらず、人間は遥かな目標として罪や穢れのない「純粋な人格」というものを想定してしまうものだ。

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現世に生きる人間は、この純粋な人格に無限の時間を介して到達しようという願望を抱く。

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この願望から「不死の魂」という信仰が生じるのだ。

 

人間の内なる理想を外部に投影して対象化するという発想はこの場合も共通していますね。

 

フォイエルバッハ説に「根拠」はあるか

 

さて、フォイエルバッハの「無神論」および「無霊魂説」について説明し終わりました。

次に、僕がフォイエルバッハ思想について思うところを述べてみたいと思います。

 

フォイエルバッハ思想について僕がまず思うのは「神の存在や霊魂の不滅を否定するに当たって直接的な根拠を何も示せていない」ということです。

フォイエルバッハの議論の中心は「人間はなぜ『神』という考えを抱くのか」「人間はなぜ『霊魂』という考えを抱くのか」という(現代風に言えば)心理学的分析です。

しかし人間の心理学的分析と「神は存在するか」「魂は存在するか」という客観的事実の問題とは別です。

もしフォイエルバッハの「人間が神を外部に投影する心理メカニズム」の説明が完全に正しいと仮定しても(あくまで仮定)そこから論理的に「神の非存在」は出てきません。

例えば「人間は自らを理想化して神をイメージする」「そして実際にも神は存在する」ということだってあり得るわけです。霊魂の問題についてもまったく同様です。

 

もちろん哲学であり思想ですから「主張の1つひとつについて科学的な意味での証明が必要だ」というわけではありません。

科学的証明などということを要求していたら、哲学は重要なことを何1つ言えなくなって矮小化されてしまうでしょう。

フォイエルバッハと反対に「神の存在」を力説したヘーゲルだって、科学的な意味で自分の意見を証明できているわけではないですから。

 

ただフォイエルバッハについて僕が気になるのは「この人は人間の心理分析を行っただけで『神の非存在を証明した』と思い込んでいるのではないか?」ということです。

別に数学や科学のような証明である必要はないので、神の存在についての「哲学的な議論」というのはできるはずなのです。

直接的な証明ではなく万人に強制できるような議論ではなくとも、「神の存在」「神の非存在」について自分なりの根拠を示しながら説得力のある議論を展開することはできるのです。

そして「どちらの陣営により説得力があるか」について優劣を競うことが大切であり、それこそが哲学の本領であるはずです。

ところがフォイエルバッハ思想には「人間の心理分析」があるばかりで、「神の非存在」についての哲学的議論がゴソッと抜けているのです。ここが最大の問題だと思います。

 

この傾向は現代でも続いています。

神の非存在を論じるに当たっては根拠を示して直接それを論じる必要はなく、「なぜ人間は神を空想してしまうのか」を心理学的・脳科学的に説明できれば論証として十分であるという風潮です。

そのため、現代の無神論(そして唯物論)は確たる根拠を欠いたまま、「ムード」「風潮」として蔓延しています。このことが無神論や唯物論への反論をかえって難しくしているのです。

何しろ「風潮」「ムード」なので、理屈で斬り込んでいっても手応えがないんですね(^^;)霧を刀で斬っているような感覚でしょうか。

 

僕としては(科学的な証明とは違いますが)様々な理由から「神は存在する」と考える方が無神論よりもはるかに自然であり合理的であると考えています。

神の存在論証についてはシリーズ記事にしていますのでぜひご覧いただければと思います。

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神の存在について(1)多神教を論じる
今回から「神の存在」について考えていきたいと思います。 日本では「神」を論理的・哲学的に論じようとすると、よく「学問的ではない」「科学的ではない」「私的な問題だから公に議論すべきものではない」などと言われます。 僕はこういう学問的なムードを...

 

一方の「魂の死後存続」についてはすでに科学的な意味で証明されているというのが僕の考えです。それも根拠をまとめてKindle書籍にしていますので、こちらもぜひご覧下さい。

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虚偽を剥ぐのが哲学の使命

 

マルクスはフォイエルバッハのことを念頭に置きながら「宗教批判は本質的な点で終わっている」と言いました。

すでにフォイエルバッハ先輩が「神が存在しないこと」を十分に論証してくれたので、次世代の自分たちはそれを土台として議論を先に進めてよい……。

いやいや、論証できてませんがな!……と言いたいところですが、とにかく空気のような無神論は広がっていきました。

無神論の雄であるニーチェも議論の「スジ」はフォイエルバッハとよく似ています。彼がやっていることも結局は「なぜ人間どもは愚かにも神を信じてしまうのか」という心理分析だからです。

フロイトの無神論もフォイエルバッハと同類型です。

 

フォイエルバッハはこのように、マルクスの共産主義・ニーチェ哲学・フロイトの精神分析といった20世紀に主流となった多くの無神論の源流に位置しています。

そしてその源流であるフォイエルバッハは無神論の積極的な根拠を示せてはいない。

ということは……

現代の無神論には積極的な根拠はほとんど何もないということです。

 

積極的根拠がないにもかかわらず、まるで証明済みであるかのように「真理」の座に居座るのはあまり良いことではありません。

ソクラテスは、当時の権威であった人々の説に根拠がないことを暴露していきました。虚偽を剥いでいくことで「真理」を明らかにしようとしたのです。

それが哲学の原点であったというならば、「無神論には根拠がないこと」を暴露することも哲学の使命だと僕は考えています。

その意味において、現代無神論の源流に位置するフォイエルバッハ思想を批判的に再検証することが求められているのではないでしょうか?