前回「デカルト(3)世界は機械である?」では、近現代に大きな影響を与えた(今も与えている)デカルトの発想法というか思考法について論じました。
今回は、その影響とはどんなものか、具体的に考えてみたいと思います。
科学的思考法の勝利
これまでの記事の内容を簡単に復習します。
デカルトは世界に存在するものを大きく「精神」と「物体」の2種類に分けました。
そして物体の本質は「タテ・ヨコ・高さの3方向に広がっていること」だと考えたのです。これに対して精神の本質は「思考すること」です。
この2つはまったく別種の存在ということになります。これをよく「物心二元論」と言います。人間にフォーカスして、肉体(物体)と精神との違いを強調する場合は「心身二元論」などと表現しますね。
ときどきインテリっぽい人が「デカルト的二元論」とか言っていることがありますが、こういう意味なのですね。
さて、物体の本質がタテ・ヨコ・高さへの広がりだとすると、それは(単位を決めれば)数字で表現できます。「タテ何センチ、ヨコ何センチ」という風にです。
そして物体とは「タテ・ヨコ・高さへの広がり」でしかありません。それ以上でも以下でもないのです。
デカルト以前のルネサンス時代には「物体にも『生命』が宿っている」とか(生気論あるいは物活論)「神が定めた目的が宿っている」(目的論)とかいう思想もありました。
しかしこのあたりの神秘思想はそぎ落とされてしまいました。
そしてデカルトは「大きな物体・複雑な物体は、小さな物体・単純な物体の組み合わせでできている」と考え、世界は精巧な機械だと捉えました。これを「機械論」と呼ぶことも述べました。
さて、この発想法が世界にどう影響したか。
結論としては、その後の科学の急速な発展に貢献しました。
物理的世界は数学で表現できるわけです。物体の大きさ・質料・位置はもちろん数字として測定できますし、空間の広がりも数値で表現できます。
物体の運動にも数学を当てはめることによって運動方程式などを導けるようになりました。当然ながら、こうしたやり方にとっては実験や観察といったものも重要になります。
ガリレオの「宇宙は数学という言語で書かれている」という名言がありますが、デカルトの発想もこれと基本的に同じです。デカルトはこの考え方を哲学的に補強したわけです。
このような「広がりを持った物体や物質を実験・観察・数学を使って研究する」という方法を仮に「科学的方法」と呼んでおきましょう。
これがとてつもない爆発力を持った思考法だったわけで、これのおかげで近代科学の柱となる多くの物理法則が発見されていったのです。
この発想法がなければ、近代科学の発展はずっと緩やかなものだったことでしょう。
科学と「唯物論」はまったく別
ここまでなら何の問題もありません。むしろいいことづくめです。
ところが科学の輝かしい大発展の裏で、本当は科学とはまったく関係ない思想もどさくさまぎれに浸透し始めたのです。
その思想とは「3次元的に広がっているもの=数値的に測定可能なものしか存在しない」というものです。要するに「唯物論」です。
※ちなみに「エネルギー」「力」「運動量」などは空間的な広がりを持つ「物体」ではありませんが、「数値的に測定できるもの」として(多少の論争はあったようですが)実在として認められました。
さてここが非常に大事なのですが、科学的方法が輝かしい成功を収めた結果、それに幻惑された知識人たちの間で次のような思考の展開があったのではないかと僕は推測しています。
「科学的方法はなんてすごいんだ!」
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「あらゆる物事は科学的方法で探究できるに違いない!」
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「科学的方法で探究できないもの(霊・超常現象など)は存在しない!」
おそらく誰かがハッキリとこう主張しているというわけではないでしょう。
しかしデカルトのいた17世紀以降ゆっくり時間をかけながら、「ムード」「風潮」「空気」レベルでこのような推論が起きたのではないかというのが僕の考えです。
しかしこの推論は論理的には誤謬です。間違いです。
論理的誤謬だと言うのは「一定の範囲内で科学的方法が大成功を収めた」ということと「科学的方法で把握できるものしか存在しない」ということは論理的にまったく別だからです。
手術用のメスがとても有用だからと言って「メスで切れないものが存在しない」ことにはなりませんよね。メスで岩は切れません。それと一緒です。
しかしこうした論理的誤謬が起きたことによって「科学で解明できないものは怪しい」「科学的なものしか認められない」という思考がこの辺りからハッキリと姿を現してきました。
いわゆる「唯物論」「科学万能主義」です。
「心」は物理では理解できない
科学で把握できないものとは、例えば「霊魂」とか「超能力」とか、いわゆるオカルトに分類されがちなものがまず挙げられます。
しかしそれだけではありません。
僕たちの「心」だってそうです。
僕たちの心の領域に属するもの、例えば「愛」「勇気」「智慧」「慈悲」「もののあはれ」等々、これらの繊細な感情や情緒は科学的方法で探究できるものではありません。
これらは物体でもなければ数値化できるものでもないからです。
これに対して「いーや、それらのものだって今では科学で解明できる!」と主張する方もいます。
心について「科学的方法で探究できない以上そんなものは存在しないのだ」とはさすがに言いづらいので、「心も実は科学的方法で探究できるのだ」(→だから存在するのだ)となるわけです。
例えば、脳を調べることによって愛の感情を調べることができるという発想などがそうです。
人を愛している時、脳内における血流・ニューロンの電気活動・化学物質などがどういう状態になっているかを調べるわけです。
しかし物理的に調べているのはあくまで脳内の血流・電気活動・化学物質です。決して「愛」そのものではありません。
愛は愛です。オキシトシンとかじゃないでしょう(笑)
現在は「愛であれ何であれ心の活動はすべて脳から生じているのだから、脳を調べることは心を知ることになるのだ」という知識人も多い(ほとんど?)です。
僕は「心は脳から生じる」というのは大いなる嘘だと思っていますが、今はその論点は置いておきましょう。
百歩あるいは千歩譲って仮に「心は脳から生じている」のだとしても、脳から生じたその心は大元の脳のように物理的に調べられるものでしょうか?
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」
正岡子規が法隆寺の鐘の音を聞いてこの句を詠んだとき、彼の胸を打っていた繊細な感情は、彼の脳を調べれば解明できるのでしょうか?
やはり心と脳とは完全に別物なのです。例えば感情などは僕たちが「ダイレクトに感じる何か」であり、物質でも物体でもありません。
心というものが脳から独立して存在できるものなのか、脳に依存して存在するものなのか、そのどちらであるにせよ心と脳は別カテゴリーの存在なのです。
別カテゴリーのものを同じに扱ってしまう間違いを「カテゴリーミステイク」などと言いますが、心と脳を混同するのは典型的なカテゴリーミステイクです。
それなのに、心というものの独自性をまったく認めず、脳を研究しさえすれば心を研究したことになると思っている現代の知識人たち。
これはデカルトが説いた「数値化できるものを実験・観察・数学を使って研究する」という科学的方法を誤って拡大適用しているのです。
何度も述べている通り、デカルト自身は「精神」を「物体」とはまったく違うものだと強調していました。
それなのに僕たちは物体(あるいは物理的存在)に対してだけ有効な方法を精神にも使ってしまっているわけです。
その結果、血流やらニューロンやら化学物質やら、いずれにしても数値で把握できる物理的なものが「精神」「心」の正体であると誤解されるに至っています。
現代における大いなる洗脳だと僕は思っています。
心は理系的な科学的方法だけでは理解できません。むしろ人文系の諸学問を含めた人類の英知を総動員して探究すべきものでしょう。
心を物理的なものと見なす「大いなる誤謬」の淵源はどのあたりにあるのか?
この誤謬の責任をデカルトに帰すことはできませんが、デカルト的思考法をその後の人々が誤って拡大適用したあたりから始まっているのではないでしょうか。
いくら現代で常識になっていても、論理的にそれが正しいわけではありません。間違いは間違いであり、その間違いがどのあたりから始めっているのかをトレースすることもできるのです。
そして淵源を突き止められれば、それを正すこともできるでしょう。
心を物理的なものへと貶める現代の思考法を正すには、デカルトの時代にまで遡って、彼の方法を誤って拡大したことを自覚することから始めるべきだと僕は思っています。