「科学の条件とは(3)『証明しろ』と言うけれど……」では、科学でよく出てくる「証明」という言葉の曖昧さについて述べました。
今回はこれに関連する「反証可能性」という考え方について紹介します。
なかなか「絶対的な証明」はない
一口に「科学的な証明」と言っても、その内実はまちまちです。
「証明された」「証明されていない」の2分法というわけではなく、その証明をどのくらい信頼してよいかは「程度の問題」なのです。
ここまでは前回の記事でも述べました。
それでも、証拠や理論などを総合的に考えるならば「かなり強固に証明されたと見なしてよい理論」というのもあります。
例えば、19世紀までならばニュートン物理学などがその例でしょう。
人類はこの理論のおかげで物体や天体の動きを正確に記述したり予測したりできるようになりました。ロケットを飛ばせるのもニュートンのおかげです。
しかし、です。
このニュートン物理学も万能ではなかったことが明らかになり、20世紀にアインシュタインの相対性理論に置き換えられました。
例えば、運動する物体が光の速度に近くなるとニュートン物理学が当てはまらなくなります。それをうまく説明するには相対性理論が必要になります。
それまでの人類は「光速に近いスピード」なんて考えなくてもよかったので、ニュートン物理学の不備に気づかなかったわけです。
ニュートン物理学は「光よりも十分に遅い物体を対象にする」という「条件つき」で成り立つ理論だったわけです。
このように、かなりの精度で理論が「証明された」と思われても、その後、その理論が破棄されたり大幅修正されたりすることがあり得るのです。
これは現時点の僕たちにも当てはまる教訓でしょう。
相対性理論を含めてですが、現在は支配的であるような理論でも、将来的に破棄・大幅修正される可能性は否定できないのです。
一番あり得るのは、(ニュートン物理学のように)「これまでの理論は実は●●の条件を満たす場合にだけ当てはまるものだった」ということが分かり、もっと普遍的に当てはまる理論に統合されるというケースでしょう。
ポパーの「反証可能性」とは
ある科学理論が正しいことを完全に証明し尽くすことはできない。
それなら、「科学の条件」として「証明」云々を言っても仕方ないのではないか?
科学であれ非科学であれ、何かを完全に「証明する」ことはできないのだから……。
そう考えたのが、オーストリア出身ですがイギリスで活躍したカール・ポパー(Karl Popper / 1902-94)という哲学者です。
しかしポパーも、由緒正しい「科学」と怪しげな「非科学」「疑似科学」を一緒にはしたくない。何か「証明」とは別に2つを分ける基準はないか?
そこでポパーが持ち出したのが「反証可能性」という概念です。彼は「証明できること」ではなく「反証できること」が科学の条件だと言ったのです。これを「反証主義」と言います。
????……という感じだと思いますので、もう少し解説を。
反証主義を別の言い方にすると「不利な証拠が出た時にきちんと反証される(間違いを認める)理論が科学だ」という考え方だと言えるでしょう。
つまり「観察や実験でどんな結果が出ても絶対に反証できない理論」というのは「ああ言えばこう言う」というタイプの理論、何とでも言い訳できる理論であり、ポパーはこれこそが疑似科学の特徴だとしたのです。
このように言い訳で切り抜けることを、よく「アド・ホックな解決」と言います。その場を切り抜けるためだけの都合のよい解決法というイメージですね。
分かりやすい例としては「占い」なんかはそうかもしれません。
例えば占い師さんがある人に「あなたは半年後にこうなります」と予言したのにそれが外れたとします。
それでもその占い師さんは自分の占い理論の間違いを認めるのではなく、「あなたの行動が原因で予定が変わった」云々と言って、失敗をつくろおうとするでしょう。
こういう風に「アド・ホックな解決」をして理論そのものは守ろうとするのが普通だと思います(ちなみに僕は占いを完全否定しているわけではありません。一般的にはそういう例も多いだろうという話です)。
ポパーはこれこそが「疑似科学」「非科学」の特徴だというのです。「ああ言えばこう言う」式で切り抜けられてしまうようなフワフワしたものは科学ではないというわけです。
それに対して科学理論は、それにとって不利な証拠が出てきたときには潔く反証される(間違いを認める)というのです。
「どういう証拠が出てきたらその科学理論は反証されたことになるのか」(反証条件)も明確だというのです。
例えば光の速度は「秒速約30万キロメートル」ということになっています。
しかし改めて測定してみて、もし何度やってもそれと違った値になるのであれば「光速度は秒速約30万キロメートルである」という理論は反証されます。
このように、「どういう証拠や実験結果が出たらその理論が間違っていたことになるのか」が明確であり、ハッキリ白黒つけながら修正してゆけるのが科学であるというのがポパーの反証主義です。
なかなかユニークでそれなりに説得力のある考え方だなあ……と僕なんかは感心してしまいます。
このポパーの反証主義について面白い話があります。
ポパーの(かなり年上の)友人に有名な心理学者のアドラー(Alfred Adler / 1870-1937)がいました。
フロイトの弟子に当たる人ですが、アドラーもまた彼独自の心理学理論を構築しています。最近、日本でも関連書籍が出るなど人気がありますね。
あるとき、ポパーは「アドラー心理学の理論に合致しないと思える人の事例」をいくつか挙げ、それについてどう思うかアドラー本人に問い合わせてみました。
すると、アドラーはいろいろと理由をつけて、それらの事例をアドラー理論に合うように実に見事に説明してしまったというのです。
これを目の当たりにしたとき、ポパーは「アドラー心理学はすごい!」とはなりませんでした(笑)
ポパーは反対に「アドラーさんの心理学は、それを使って『何とでも言える』理論ではないのか」「これを科学とは言えないのではないか」と考えたのです。
反証主義にも問題がある
では、「反証主義をどう評価すべきか」ということについて、僕なりの考えを述べておきたいと思います。
結論から言えば、反証可能性で「科学」と「非科学」を分けることには問題があると考えています(それが妥当であるケースもあるでしょうが)。
というのは、科学であっても不利な証拠が出てきたからといって潔く反証されることは少ないからです。
例えば18世紀の後半、天王星の軌道がニュートン物理学による計算とずれていることが分かりました。
では科学だから潔くニュートンの理論が反証されたかと言えば、そんなことはありませんでした。
そのときは「おそらく天王星の外側に未知の惑星があるのだ。その惑星の引力によって天王星の軌道がずれるに違いない」というアド・ホックな解決(言い訳)によってニュートン理論は反証されずに守られたのです。
さらに面白いことに、その言い訳は結果的には正しかったのです。天王星のさらに外側に海王星が発見され、その引力によって天王星の軌道が変えられていることが判明しました。
要するに、科学もまた「アド・ホックな解決」(言い訳)をしますし、ケースによっては言い逃れにも思えるその意見が正しいことだってあるわけです。
「アドホックな解決をするなら科学ではない」という反証主義によれば、この天王星をめぐる考察は科学ではなかったことになってしまいます。
言い逃れのように見えても(天王星の事例のように)「正しいことがすぐに判明する」あるいは「正しいかどうかすぐに検証できる」ならそれは科学的であると言ってよく、疑似科学とは違うという意見もあります。
しかし科学史を眺めてみると、すぐには検証できないような「言い逃れ」だったが、何百年もたってからやっぱり正しいことが分かったという事例もあります。
そういう見解は「結論として正しい」にもかかわらず、数百年間、科学として認められないことになってしまいます(※興味がある方は記事の下の方に書いています)。
すぐに検証できないような言い逃れをしているからと言って、それを「非科学」「疑似科学」と断定してはいけないことになるでしょう。
確かに、「ああだこうだと言い逃ればかりして間違いを認めず、そのために発展性もないような理論は科学的とは言えない」という反証主義の考え方が当たっているケースも多いと思います。
その意味で、反証主義が有意義な考え方であることは僕も否定しません。
しかし、それをすべてに通用する万能の基準のように考えることには無理があります。「当てはまるケースも多いよね」というくらいの基準でしょう。
時々ですが、ポパーの反証主義に基づいて超常現象の研究を否定する記述に出会ったりするので、ちょっと考え方を整理させてもらいました。
さて「科学の条件とは」と題していくつか記事を載せましたが、やはり科学とそれ以外を明確に区別する基準というのはありません。
あくまで区別したければ、そのための基準や定義を「発明」しても結構ですが、それは人間が勝手に引いた線にすぎません。
それにせっかく線を引いたところで、科学研究はどんどん進展していくのですから、自分が認めたくないものが(証拠が蓄積されて)その線を超えるようになることもあるでしょうし、その反対のことも起きるでしょう。
何らかの基準を設けて「科学」と「非科学」を峻別し、後者を貶めるという行為は無駄であり有害なのでやめるべきです。
もちろん、「現時点ではまだまだ確証度が低い」という現象や理論もあるでしょうから、それはそういうものとして(未来に判断を委ねるものとして)残しておけばいいだけの話です。
「現時点で謎が多いから」という理由で否定する態度は、科学そのものの発展を阻害してしまうでしょう。
※補足 ずっと後世に正しいことが判明した「言い逃れ」の例
教科書では、天文学は「天動説」から「地動説」へ移行したと習いますね。
しかし、地動説には地動説で問題がありました。その1つが「年周視差」の問題です。
もし天ではなく地球の方が動いているのであれば、季節によって恒星の見える角度が異なるはずです(これが年周視差)。しかし当時(16世紀~17世紀)はそのような事実は観測されませんでした。
そうであるならば地動説を拒否して、それまで通り天動説を維持する理由になってもよかったはずです(天動説には天動説の問題があるので、もちろん実際には総合的判断になりますが)。
しかし年周視差の問題から地動説を守るために、「言い訳」「アド・ホックな解決」が持ち出されました。
地動説を支持していたヘルメス主義の思想家ブルーノ(Giordano Bruno / 1548-1600)は「恒星までの距離は想像以上に遠い」と言ったのです。
あまりにも恒星が遠くにあれば、年周視差は検出できないほどわずかなものとなるので、それが確認できなくても地動説を排する理由にはならないというわけです(イメージできない方はググってみて下さい。画像が出てくると思います)。
そして、この場合もやはり「言い訳」が正しかったのです。恒星までの距離は非常に遠いため、年周視差は当時の観測機器ではとても検出できないものでした。
年周視差の観測に成功したのは、19世紀に入ってしばらく経ってからのことです。
これは、アド・ホックな解決がすぐには検証できないような内容であっても、それをただちに「非科学」として排除してはならないという教訓になる事例です。