ホッブズ(3)ホッブズの政教分離論

哲学者ごとの解説

 

前回記事「ホッブズ(2)社会契約説とリヴァイアサン」では、ホッブズの有名な「社会契約説」をご紹介しました。

ホッブズ(2)社会契約説とリヴァイアサン
前回記事「ホッブズ(1)神は物体である?」では、17世紀の思想家ホッブズの説いた「機械論」や宗教思想についてご紹介しました。 今回はホッブズの思想としてとりわけ有名な「社会契約説」について解説してみたいと思います。 社会契約説とは 社会契約...

 

今回の記事では、こうした社会契約によって誕生した国家において「宗教」がどのように扱われるべきだとホッブズが考えていたのかを見てみます。

宗教と国家の関係(政教関係)については現代でもホットな話題ですね。

僕はホッブズの議論がいいとは思っていないのですが、それでも政教関係を考える際の1つの参照軸にはなるものだと思います。

 

教会の政治介入にいかに対処するか

 

では少し復習から。

ホッブズによれば、国家とは「人々を相互の侵害から守るために〈契約〉によって人々の力を1人の人間もしくは1つの合議体に与えたもの」です。

そうして1つになった国家は「主権者」です。

契約によって主権者である1つの国家に力を委ねた以上、その国家が何をしようとも各人はそれに従わねばなりません。

ホッブズによれば「同意によって社会契約をした ⇒ 社会契約によって誕生した国家の意志は絶対である」という理屈になっているわけです。

 

国家の主権は絶対である!

これがホッブズの理論だとよく言われますし、教科書にもそう書いてあるでしょう。

でもホッブズは「国家主権の絶対」ということで何が言いたかったのでしょうか?

要するに「国家が一番だ!」ということですが、そう言うからには何か国家と比較する対象があったはずです。

実はホッブズが意識していた「国家に対するライバル組織」があったのです。

それはズバリ「教会」です。

 

イギリスは(ピューリタン革命で一時中断はしましたが)国教制度です(イギリス国教会)。国王が教会のトップを兼ねるという体制です。

これは教会と言っても国家の一部であり体制内組織ですので、ホッブズ的には問題ありません。

問題は、国家とは関係ないところで下からポコポコできてくる多くの教会です。

例えばピューリタンの中で国教会からの独立を志向する「独立派」と呼ばれる人々の教会や、それ以外のバプティスト派やクエーカー派などの教会です。まずこれが1つ。

もう1つのさらなる問題は、国の外からいろいろと口出ししてくる巨大インターナショナル組織、つまりカトリック教会です。

大きく分けるならこの2つですが、ホッブズはこういう国家体制外の教会が神の権威を背景に政治に容喙してくることに対抗して「国家主権は絶対」と主張したわけです。

 

聖書(神)が政教分離を認めている?

 

しかしホッブズはかなり熱心なキリスト教徒であり、聖書も熟読しまくっています。

前々回記事でも述べた通り「神は物体である」と考えるなどかなり独特な信じ方ではありますが、篤い信仰者であることは確かです。

ホッブズにとってもやはり「神の意志がすべて」なのです。

それなのに神の意志を伝えるはずの教会よりも国家の方が偉いのでしょうか?

 

それに対するホッブズの回答は「国家こそが権力を持つべきであり、教会が政治に介入すべきでないことは聖書を読めば分かる」というものです。

他ならぬ聖書こそが「国家主権の絶対性」と「国家の教会に対する優越」の根拠であると言うのですね。要するに「それが神のお考えだ」というわけです。

 

旧約聖書に出てくる古代の共同体や王国は「祭政一致」「神政政治」でした。政治的指導者たちが同時に預言者(神の言葉・啓示を受ける人)であることが多かったのです。

しかし指導者たちが人民を従わせることに正当性があったのは、彼らが「神の啓示を受けていたから」ではなく「政治的主権者だったから」だとホッブズは言うのです。

そのことがハッキリするのは、古代ヘブライ王国の初代国王(サウル王)が誕生した時です。

それまでの主権者は神から啓示を受ける祭司長(当時はサムエル)だったのですが、ヘブライ人たちはこの祭司長ではなく国王に統治されることを望みました。

こうしてサウルが王に選ばれ、ヘブライ王国が誕生します。ホッブズによれば、これは社会契約によって新たな共同体が誕生したことを意味します。

そしてこの段階で政治と宗教の分離が起きており、これ以降、人々は(神から啓示を受ける)宗教的権威ではなく政治的権力の統治を受けることになりました。

 

そしてこれは他ならぬ神が認めたことです。聖書では神が祭司長サムエルに語りかけ、人々の願いを聴き入れて王国の建設を認めるように命じる場面があります。

要するに大昔は祭政一致だったので分かりにくかったが、実は最初から「人々を統治するのは政治的主権者である」という大原則は貫かれていたのだというのです。

アブラハムやモーセなど大昔の指導者が権力を持っていたのは、彼らが政治指導者だったからであって宗教指導者だったからではないとホッブズは考えます。

このことは他ならぬ神ご自身のお考えであって、それは政治と宗教が分離したヘブライ王国誕生の時にハッキリしたのだというわけです。

 

このようにホッブズは彼なりの聖書解釈に基づきながら「国家とは別の宗教組織が人々を支配する」ということを否定しました。

聖書のどこを読んでも「政治権力とは別に宗教権力というものがあって人々を二重に指導すべきだ」なととは書かれていないと彼は言うのですね。

 

なおカトリックの聖職者は聖書に出てくる「神の国」「天の国」がまるで自分たちの教会のことであるかのように言うが、それはとんでもない間違いだとホッブズは言います。

聖書の「神の国」とは将来においてキリストが再臨した時にできる国家のことであって、現在ある教会とはまったく関係がないというのです。

イエス・キリストでさえ生きていた当時は世俗の権力に従っていた。ましてその遠い遠い弟子にすぎない現在の聖職者たちに政治的権能があろうはずがないというわけです。

聖職者たちの仕事は、人々に福音を伝えてキリストの再臨に備えるように「教える」ことであって、政治的に支配したり統治したりすることではないとホッブズは考えます。

 

中世では「叙任権闘争」と言って、「国内の聖職者を任命する権利があるのはどちらか」という問題を巡ってよく国家と(カトリック)教会が争っていました。

ホッブスに言わせれば、叙任権は当然ながら国家にあるということになります。

聖職とは言え「ある国のある地位に誰が就くか」というのはこの世の(世俗的な)問題に他なりません。

そうである以上それは国家の管轄内です。教会が口を出すべきではないということです。

ホッブズはこの重大問題についてもハッキリと国家支持の姿勢を打ち出します。

 

神の啓示があると言うなら〈奇跡〉を起こしてみろ

 

僕は聖書研究者ではないので、ヘブライ人の歴史を政教分離論につなげる解釈が正しいのかどうかについては分かりません(かなり怪しいとは思いますが)。

それはともあれホッブズとしては、カトリックの政治介入を封じるための理論武装はやったことになります。

しかしまだピューリタンたちが残っています。彼らは彼らで自らの宗教的信念に基づいていろいろと政治に注文してきたり反抗したりしてきます。

ホッブズはこちらについても彼らを封じ込める理屈を編み出さねばなりません。

 

ピューリタンというよりプロテスタント全般の特徴かもしれませんが、彼らは「神の啓示や救済は個人に対してもたらされる」と考える傾向があります。

つまりカトリックでは「神はカトリック教会を救いの機関と定めたのだから、ここに所属すれば救われ、所属しなければ救われない」というのが伝統的な考え方でした。

しかしプロテスタントでは「ある組織に所属するかどうかと救済は関係ない」「救済されるかどうかは個人ごとに決まる」と考えます。

これは宗教における「個人主義」ですね。

そしてどうも当時のイギリスのピューリタンはこの考えをさらに進めて「神の光は個人の内に宿る」「神の意志や啓示も個々人の心に現れる」と考えていたようなのです。

 

そうするとどうなるか……。

↓↓↓↓↓↓

聖書には過去に降ろされた神の啓示が記されているが、神の啓示は現在だって続いている。

神が信仰深い人々の心に語りかけることはあり得るのだ。そのようにして現在の神の意志が露わになることもあるはずだ。

さて我々ピューリタンが神の御心だと信じるところでは、現在の国家のあり方は間違っている。神は体制の変革を望んでおられるのだ。

現在の王は悪王なので処刑すべきである……云々。

↑↑↑↑↑↑

こんな言い分を認めていたら大変でしょう。

結局、特定の宗教思想やそれを奉じる宗教団体が政治に介入してくることを許すことになってしまいます。

ホッブズとしてはこれを何としても否定したいところです。

しかしもし「現体制の転覆こそが〈今の〉神の意志である」というのが事実なら、それを否定するのは神への反逆になる。

国家主権の絶対性は聖書に基づくと言ったところで、聖書は〈過去の〉神の啓示が記されているにすぎない。「現在の神の意志は違うのだ」と言われると困る。どうするか……。

 

ホッブズの切り返しは「お前たちに神の啓示や力が臨んでいると言うなら、その証拠である〈奇跡〉を見せてみろ」というものでした。

確かにモーセやイエスは驚異的な奇跡を起こした。それは神の力によるものである。

さて神がお前たちと共にあると言うなら、その証として奇跡の1つや2つは起こせるのだろうな?……というわけです。

確かに神の意志ならば国家も倒されるべきだ。それは認めよう。しかしそれが神の意志だということはお前たちが証明すべきだろう。その方法は奇跡以外にないはずだ。

 

ここでホッブズは「奇跡を起こすと言っても、もちろんインチキはダメだぞ」と付け加えることも忘れません。

つまり「神が本当に政治的変革を望んでいるというなら宗教の政治介入も仕方ないが、それを証明したいならインチキなしの奇跡を起こせ」ということです。

ところがホッブズの基本思想は唯物論です。聖書に記されている奇跡は例外として「それ以外の超常現象はすべてインチキに決まっている」と思い込んでいる人なんです。

例えば「霊を見た」という人がいても「それは人間の認識メカニズムが引き起こす錯覚にすぎない」と現代の超常現象否定派みたいなことをそのまま言っています(^^;)

誰かが奇跡らしきものを起こしても、ホッブズは「それはトリックだ」「トリックでないことを証明せよ」などと言って絶対に認めないに決まっているでしょう。

聖書には「見ずに信じる者は幸いである」というイエスの言葉もあるのですが、その辺は完全スルーです(笑)

 

要するにホッブズのようなタイプの人に「現に奇跡が起きている」ということを認めさせるのは無理です。

こうして「奇跡は起きない」→「神はお前たちの側にはおられない」→「原則通り、お前たち宗教団体の政治介入は禁止である」という大義名分が立つわけです。

ホッブズとしても神が奇跡を介して意思表示をしてくる可能性は認めざるを得ません。これを否定したらイエスが行ったことすら否定することになってしまうからです。

しかしつまらん連中が神の権威を持ち出して政治介入してくることは何としても阻止したい。

そこで編み出したのが「奇跡や啓示が〈あり得る〉ことは認めながら、1つひとつについては絶対に認めない」という方法です。

奇跡認定のハードルが高すぎるために「これは神の意志に基づく社会変革だ」と認めさせることは事実上不可能になっているんです。

 

ちなみにホッブズは「奇跡」以外にも条件を挙げていて、それは「聖書以外の教えを説かないこと」です。

これだと仏教やイスラム教が政治的影響力を持つことはNGになりますね。

この理屈をどのように非キリスト教徒に納得させるのかは分かりませんが、周囲にほとんどキリスト教徒しかいなかった当時はそんなことを考える必要がなかったのでしょう。

 

以上のようなホッブズの考え方をまとめるなら、一般的に理解されている意味での「政教分離」に近いと言えます

しかし「いかなる場合でも政治と宗教がくっついてはいけない」ということでもなく、例外もあります。

宗教組織が国家とは独立した意志を持って国家のやろうとすることを邪魔してこなければいいのです。言い換えれば、宗教が国家の一部というか体制内組織ならいいわけです。

つまり国家と宗教がくっついてもよいケースとは「国家主導の完全なる政教一致」の場合です。これが例外であり、イギリス国教会はまさにこれだと言えます。

あるいはこう言ってもいいかもしれません。

つまり「宗教が国家(政治)に介入するのは禁止」だが、「国家(政治)が宗教に介入したり宗教活動をしたりするのは勝手」ということです。

 

さて今回はホッブズの政教関係についての考えを見てきました。

次回「ホッブズ(4)誤解だらけの政教分離」では、こうしたホッブズの考えを足掛かりにしながら「信教の自由」「政教分離」といったことを考えてみます。

先ほどホッブズの思想について「一般的に理解されている意味での政教分離」と言いましたが、これが正しい「政教分離」の理解なのかも次回論じたいと思います。

ホッブズ(4)誤解だらけの政教分離
前回記事「ホッブズ(3)ホッブズの政教分離論」では、ホッブズの政教関係(政治と宗教の関係)についての考えを紹介しました。 今回はそこで紹介したホッブズの考えを足がかりにしながら、「信教の自由」「政教分離」などについて考えてみたいと思います。...