ホッブズ(2)社会契約説とリヴァイアサン

哲学者ごとの解説

 

前回記事「ホッブズ(1)神は物体である?」では、17世紀の思想家ホッブズの説いた「機械論」や宗教思想についてご紹介しました。

ホッブズ(1)神は物体である!?
今回は17世紀に活躍したイングランドの思想家ホッブズを紹介します。彼はピューリタン革命から王政復古に至るまでの激動の時代を生きた人物です。社会思想家としていわゆる「社会契約説」を説いたことがよく知られていますが、彼が哲学者・自然科学者として...

 

今回はホッブズの思想としてとりわけ有名な「社会契約説」について解説してみたいと思います。

 

社会契約説とは

 

社会契約説とは「国家というものは人々の〈契約〉によって成立したと考え、国家の正統性を契約に求める思想」のことです。

国家は人々が契約して設立したものなんだから、国家と人民のあるべき関係を考える場合には「国家を設立した時の趣旨」を基準にして判断しようということです。

 

一般的にこの社会契約説とよく対比されるのが「王権神授説」というものです。

これは「神が国王に国家を統治する権利を与えた」「だから王の権利は神聖不可侵なのだ」という思想ですね。

つまり国家は神が誰かに統治権を授けることで誕生するのか(王権神授説)、それとも人間たちの契約・同意によって誕生するのか(社会契約説)という対立軸があるわけです。

ただしホッブズ以前には「国家は神と王との〈契約〉によって王が統治するようになった」という中間的な考え方もあったようです。

ただ一般的には「社会契約説」の〈契約〉と言えば人間同士の契約を指し、(少なくとも表面的には)国家の成立に神を持ち出さない思想のことを言います。

したがって今回もその前提で進めたいと思います。

 

自然法とは

 

さてホッブズの考えでは国家は人々の契約によって成立します。

そして社会の具体的なルール(法律)は国家が成立した後に改めて定められるわけですね。

こんな風に人々が「よし、こういう法律を作ろう!」と考えて意識的・自覚的に定める法のことをよく「実定法」と言います。

 

しかし人間が具体的な法律を定める前には何も無かったのかと言えば、「最初から存在する法や摂理のようなものだってやはりあるだろう」と考える人たちもいます。

このような「社会が作られる以前からあって人間たちが守るべき法」のことを「自然法」と言います。先ほどの実定法と対になる概念だと言えますね。

ちなみに人々が社会を設立した後の状態を「社会状態」、社会を設立する以前の状態を「自然状態」と言います。

これを使って表現するなら「自然法」とは「自然状態においてすでに存在している法」と言うこともできるでしょう。

実際に人々が定める実定法の役割とは、自然法を「確認する」「具体的にする」「補強する」ことであって、自然法の範囲を逸脱してはならないとされます。

 

すると「どうして自然法なるものが存在するのか」ということが問題になります。つまり「自然法の根拠は何か」ということですね。

この自然法の根拠としては伝統的に「神」「理性」「自然」などが想定されてきました。ここで最後の自然というのは「大自然」と言われる場合の自然です。

つまり自然法が存在する理由として次のような考えがあるわけです。

 

① 神が定めたものが自然法である。

② 人間が理性を使って考えれば「当然そうなるでしょ」という法が自然法である。

③ 大自然の摂理こそが自然法である。

 

③は分かりにくいかもしれませんが、例えば「自然界ではオスとメスがつがいになる。だから人間でも同性愛は摂理(自然法)に反する」などという考えがそうです。

これら3つはきれいに区別できるわけではなく、思想家によっては重なっていることもあります。

例えば「神が人間に理性を与えた」「その理性を根拠として自然法が出てくる」と考えるならば①と②が融合していることになりますよね。

 

万人の万人に対する闘争 ~ ホッブズの自然法思想

 

自然法という考え方はそれこそ大昔からあります。

しかし(ホッブズもその1人ですが)近世になると「近世自然法論者」という人たちが登場し、自然法の根拠としてあまり神を持ち出さない考え方を確立していきました。

国際法の父として有名なフーゴー・グロティウス(1583-1645)という人もそうです。

ホッブスもまた自然法を「理性によって発見された戒律すなわち一般法則」と定義していて、上の3分法ならやはり②に相当するでしょう。

ホッブズにとっても神は絶対的な存在ですから①のような要素も皆無ではないかもしれませんが、大枠では「理性を自然法の根拠と考える近世自然法論者の代表」と言えます。

 

ではホッブズにとって人間がまず守るべき自然法の内容とはどのようなものでしょうか?

ホッブズの考える自然法を一般的に表現したものが「自分の生命を破壊するようなことをするな」あるいは「自分の生命を守ることを回避するな」です。

分かりやすく一言でいえば「生き残れ」ということです(笑)

これだけなんです。サバイバルです。

これを〈権利〉の側面から言い換えると「自分の生命を維持するためなら何をしてもいい」ということになります。これが人間の持つ「自然権」(自然の権利)です。

 

ホッブズは自然状態を「万人の万人に対する闘争」という有名な言葉で表現しました。

確かに「自分の生命を守るためなら何をしてもいい」という人たちの集まりが自然状態なのだとすれば、それは「万人の万人に対する闘争」になるでしょう。

ここでは何も禁止されておらず。人殺しや盗みだってオッケーです。

「正」「不正」あるいは「善」「悪」なんてものは、社会が成立して具体的なルールが定まった後に出てくるもので、自然状態ではまだ存在しないからです。

 

しかしこの自然状態のままだと不条理なことになります。「各人が何をやってもよい状態」というのは「自分が何をされても文句が言えない状態」ということでもありますよね(汗)

これではかえって危険なので、各人は自分が生き残るためにこそ平和と秩序のためのルールを定めようとするのです。

お隣さんの目つきが怪しい。→ 俺の財産を狙っているに違いない。→ だったら先制攻撃で殺しちまおう! これがまかり通っていては誰も安心して暮らせません。

各人の安全を確保するため、もともと持っていた「何をやってもいい」という自然権の一部を放棄して、これから作ることになる社会に譲渡する。これこそが社会契約です。

そしてこの社会契約によって国家が成立するというのです。

 

国家はリヴァイアサンである

 

まとめますと、国家とは「人々を相互の侵害や外国人の侵入から守るため、契約によって人々の力を1人の人間もしくは1つの合議体に与えたもの」ということになります。

この契約によって各人の人格は1つの人格に統一されるとホッブズは考えます。統一されて誕生したこの人格が「主権者」です。

多くの人間が集まって、巨大な1人の人間のような存在になるというイメージですね。

 

人々の力を「1人の人間」もしくは「1つの合議体」に与えたものと言っていますが、力を与えられるのが1人の人間であるならその国家は「君主制」です。

力を1つの合議体に与える場合はどうか。その合議体が少数精鋭なら「貴族制」でしょうし、大勢の人たちなら「民主制」に近いものになりそうです。

このようにホッブズの思想は(彼自身の本音はともかく)理屈上はどの政治体制にも適用可能なニュートラルなものになっています。

 

さて、こういう経緯で誕生した国家が持つべき特徴があるとホッブズは考えます。

それは「国家は怖いものでなければならない」ということです。

ホッブズの主著のタイトルにもなっている「リヴァイアサン」というのは旧約聖書に登場する怪獣の名前です。怪獣の名前を国家の比喩として使っているわけです。

ホッブズがそう呼ぶのは「国家というのはそれほど怖いもの」「怖くあるべきもの」というニュアンスを表現するためでしょう。

ホッブズはリヴァイアサンを「可死的な神」とも表現しています。

ここで「可死的」(死ぬことがあり得る)と言っているのは国家もまた滅びることがあるからですが、それにしても神のような力を持つ恐ろしい存在だというわけです。

 

もし国家が役立たずのヘナチョコで、人間たちが「ふん、俺は『何をしようがオッケー』のままでいくのさ」という輩ばかりだったら秩序は保てません。それは自然状態です。

国家なら強権を発動して、他人の生命や安全を脅かす者たちを容赦なくしょっ引いて投獄するなり処刑するなりしてくれないと困ります。

そのためにこそ設立されたのが国家であり、秩序を乱す者たちに対してはもちろん、普通の人たちにとっても恐ろしい存在であってくれないと存在意義がありません。

 

社会契約説もいろいろ

 

ホッブズは主権者たる国家が絶対であることを強調します。

主権者が各人を〈代表〉することに同意した以上、主権者たる国家が何をしようとも各人はそれに従わなくてはならないと言うのです。

ホッブズによれば「同意によって社会契約をした ⇒ 社会契約によって誕生した国家の意志は絶対である」という理屈になっているわけですね。

 

しかしこれは社会契約説から論理的・必然的に出てくる結論とは思えません。

実際、(いずれ紹介しますが)少し後輩に当たるジョン・ロック(1632-1704)という人も社会契約説を説いていますが、彼の結論はまったく違います。

ロックによれば「自分たちのために社会契約をして国家を設立したのだから、その国家が自分たちを害してくるなら解体していいのだ」という理屈になるのです。

これに対してホッブズでは「自分たちで権利を委ねた以上、ゴチャゴチャ言うな」という正反対の結論になってしまっています(^^;)

 

このように見てみると一口に「社会契約説」と言っても内実はいろいろで、各思想家が自分の国家像を正当化するためにそれを使っている感じもします。

 

今回はホッブズの社会契約説をご紹介しました。

次回「ホッブズ(3)ホッブズの政教分離論」では、彼の考える「国家と宗教の関係」をご紹介したいと思います。

ホッブズ(3)ホッブズの政教分離論
前回記事「ホッブズ(2)社会契約説とリヴァイアサン」では、ホッブズの有名な「社会契約説」をご紹介しました。今回の記事では、こうした社会契約によって誕生した国家において「宗教」がどのように扱われるべきだとホッブズが考えていたのかを見てみます。...