神の存在について(8)目的論的論証の拡張版

宗教哲学

 

前回記事「神の存在について(7)進化論とID理論、それぞれの問題」では、論争を続ける進化論とID理論(インテリジェント・デザイン理論)についてそれぞれの問題点を指摘しました。

神の存在について(7)進化論とID理論、それぞれの問題
前回記事「神の存在について(6)インテリジェント・デザイン(ID)とは?」では、「目的論的論証」の現代版とも言えるインテリジェント・デザイン(ID)理論を紹介しました。 僕としてはID理論は「自然界の少なくとも一部についてはデ...

 

進化論とID理論との戦いは「目的論的論証」の是非を巡る論争とも言えるでしょう。

目的論的論証とは「自然界に『精巧さ』『複雑さ』が見られるのは、神という知性的存在がそれを創造したからだ」と論じて神の存在を主張する議論です。

この目的論的論証を現代的に精緻にしたものがID理論であり、一方の進化論は「自然の精巧さは『知性』を持ち出さずとも説明できる」としてそれを否定するのです。

ここでは「自然の精巧さ・複雑さ」と言いましたが、前回までの記事は「自然」と言ってもほぼ生物界の議論に限られていました。

今回は生物界を離れて、さらに広範な観点からの目的論的論証についてご紹介します。

 

物理定数の「微調整」(ファイン・チューニング)

 

さて生物界以外での目的論的論証とはどのようなものでしょうか。

その1つに次のような議論があります。

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宇宙が現にあるように安定した状態であるからこそ、人類をはじめとした様々な生物は生存してゆける。

宇宙がこのような安定した状態になるには、光の速度・重力の強さ・電荷の値などの「物理定数」と呼ばれる数字が極めて精巧に「微調整」されていなければ不可能である。

そのような「微調整」には知性的創造者(神)による設計が必要である。

知性的創造者である神による微調整なくして、これらの物理定数が都合よく現在の値になるとは考えにくい。

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例えば光の速度は秒速29万9792.458キロメートルです。

どうしてかは分からないけれども、なぜか最初からそうなっているんですね。

こういう風に自然界において最初から決まっている値を「物理定数」と言います。

 

自然界にこういう物理定数がいくつあるかは知りませんが、もしそのうちの1つでも今と違う値だったら、宇宙の様相はまったく違うものになっていたことは間違いありません。

例えば原子核の中の陽子と中性子とを結びつける力(核力)が今より少しでも弱かったら、それらはバラバラのままで原子核になることはできなかったでしょう。

原子核ができなければ原子もできません。そして原子ができなければ僕たちに分かるような物質はできません。

宇宙には気体も液体も固体も現れず、当然ですが生物が誕生することもなかったでしょう。

でも核力がちょうどよい具合の力だったからこそ様々な物質が生まれ、僕たち生物も今のように生存することができています。

 

たまたま原子核内の核力を例に挙げましたが、どの物理定数を取り上げても同じようなことが言えるでしょう。

もし光の速度が今と違っていたら? もし電気素量(電子1個が持つ電気量)が違っていたら? もし重力定数が違っていたら?

やはり宇宙は全然違ったものになっていたはずです。いや、むしろ宇宙は誕生することすらできていなかった可能性の方が高いでしょう。

生物の生存にも適した現在のような宇宙であるためには、多くの物理定数が(どんな値でもよかったはずなのに)ズバリ現在の値に揃っていなければ難しいのです。

 

聖職者でもありケンブリッジ大学で物理学教授も務めたジョン・ポーキングホーン(1930-)が提示した1つの思考実験をご紹介します。

多くの物理定数を自由に設定して、それに従った宇宙を創ることができる「宇宙創造機械」というものがあると考えてみるのです。

その機械を使って(物質や生命に満ちた)有意義な宇宙を誕生させるためには、各定数の数値やそれらのバランスを配慮しながら極めて精巧に微調整する必要があるでしょう。

物理定数Aはこの値に、それなら物理定数Bはこの値に、すると物理定数Cはこの値に……という具合にスパコンのような計算をしながら設定していくわけです。

そのように考えると、どんな値であってもおかしくないはずの物理定数がなぜか素晴らしく微調整されていることが理解できるはずだとポーキングホーンは主張します。

そしてその微調整を行った存在として「神」を想定するのですね。

このような議論を「微調整理論」(ファインチューニング理論)と言います。

 

マルチバース理論を使った反論

 

確かにこのように考えれば、この宇宙は物質や生命が誕生できるように極めて見事に〈チューニング〉されているように感じますね。

前回までは進化論とID理論の論争をご紹介しましたが、これはあくまで「生物の世界に神の設計(デザイン)が見られるかどうか」という議論でした。

ところが微調整理論は生物界のさらに根底にある物理世界の成立に関する話です。

生物界の話として進化論とID理論のどちらが正しかろうが、それとは関係なく微調整理論を主張することはできるでしょう。

したがって無神論者がこの微調整理論を否定したければ、進化論とは別の反論方法を編み出さなければなりません。

 

そんな反論方法の1つとしてマルチバース理論(多宇宙論)を持ち出す議論があります。マルチバース理論とは「宇宙はたくさんある」という宇宙物理学の考えです。

それを使った反論とはこんな感じです。

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宇宙というものはそもそも無限に多く誕生している。そしてそれぞれの宇宙ごとに物理定数や物理法則は異なっていると考えられるのだ。

その中でたまたま物理定数がちょうどよい値になっている宇宙だけが安定した秩序を持つようになり、恒星や惑星や生命が生まれたのだと考えることができる。

そうだとすれば「微調整」を行う神などを想定しなくてもすむだろう。

我々の宇宙が微調整されているように見えても、実はその裏で無限に近い失敗があるのだとすればこの世界の秩序も確率論で説明できるのだ。

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別の神の存在論証である「宇宙論的論証」のところでも、それを否定するためにマルチバース理論を持ち出す人たちがいました。

神の存在について(3)宇宙論的論証ー前編
前回記事「神の存在について(2)存在論的論証」では、「神」という言葉の定義から出発して神の存在を導き出す「存在論的論証」をご紹介しました。 今回はそれとは異なる神の存在論証を見ることにします。 宇宙論的論証とは     ...

マルチバース理論は神を否定するために使われる傾向があるようです(^^;)

確かにこの反論は(マルチバース理論が正しいという前提ですが)「微調整理論が神の存在を100%確実に証明しているわけではないこと」を示しているかもしれません。

 

しかし一方、この反論が神の非存在を証明しているわけでもないのです。

僕たちは(今のところ他の宇宙を観察することができないので)他の宇宙が成功しているか失敗しているかを確認することができません。

しかし反論者の予想とは反対に数多くの宇宙がもし成功しているとすれば、その反論はあべこべに微調整理論を強力にサポートすることになってしまいます。

それでは反論者が想定する通りに、数多くの宇宙が失敗しているのだとすればどうか。

それでも「神の非存在の証明までは届かない」と言うべきでしょう。

わずかでも成功する宇宙を誕生させるべく、数多くの失敗宇宙を計算に入れつつランダムに宇宙創造を行う神の存在を想定することも不可能ではないからです。

 

いずれにせよマルチバース理論を考慮すると、僕たちの宇宙だけでなく数多くの宇宙の創造を司る超宇宙的な神が存在する可能性が視野に入って来るのではないでしょうか?

マルチバース理論を使った反論は確かに「微調整理論による神の存在証明」の100%の確実性を崩すかもしれません。

しかしその反面、(無神論者にとっては不本意でしょうが)これまでの議論のスケールを遥かに超えた超絶的な神が存在する可能性へと道を拓くものでもあると思います。

 

世界の「数学的構造」

 

さて物理定数が微調整されていようがいまいが、いずれにせよ神の存在を擁護できる新しいタイプの目的論的論証もあります。

イギリスの宗教哲学者スウィンバーン(1934-)は神の存在を示唆するものとしてこの世界の根底にある「数学的構造」の存在を指摘しています。

 

この宇宙におけるあらゆる現象は相対性理論や量子力学などの物理法則に従っており、それらは数学を用いて記述することができます。

つまりこの世界はその骨組として「数学的構造」を持っているわけです。

あのガリレオは「宇宙は数学という言語で書かれている」という名言を遺しましたが、スウィンバーンが主張していることもそれと同じですね。

 

数学と論理学の関係については難しい議論もありますが、論理学の法則もまた宇宙の根底にあると言って構わないでしょう。

宇宙の根底には「数学的構造」あるいは「論理的構造」があるわけです。これらは知性ある存在によって定められたとしか思えません。

これらを定めた存在として「神」を想定するのは自然な推論ではないでしょうか?

ちなみに先ほどのマルチバース理論では、それぞれの宇宙を支配する物理定数や物理法則が異なる可能性があるとされています。

しかし仮にそうだとしても、数多くの宇宙の創造を司る根本的な数学的摂理はあるはずで、その摂理を定めた神を想定することはできるでしょう。

 

僕は今のところスウィンバーンのこの議論を支持しています。

これに対する説得力のある反論を聞いたことがありませんし、僕自身も思いつかないからです。

あえてひねり出すなら「宇宙の数学的構造だとかそういう問題は人間の理性を超えていて正しい結論は出せない」という(カント的な)反論くらいかもしれません。

数学を用いて建てられた建築物があればそれを建てた知性(人間)を想定してもいいが、宇宙全体に同じような議論を適用していいかどうかは分からないというわけです。

 

しかし少なくとも僕たちの観察できる範囲内においては「数学あるところ知性あり」は確固たる事実です。

確かに「それは宇宙全体でも同じだ」と断言はできないかもしれませんが、「宇宙全体になると話はまったく別だ」と主張する根拠はさらに薄いでしょう。

僕たちは「数学あるところ知性あり」という原理で生きているのですから、「宇宙全体だと話は違う」と主張するならば、そう主張する方がその理由を示す必要があると思います。

その理由が出てくるまでは僕たちはスウィンバーンの議論を受け入れていていいのではないでしょうか?

僕は宇宙を創造した神の存在を信じていますが、それはここでご紹介した「数学的構造の存在」という議論に説得力を感じることが1つの大きな理由になっているんです。

 

そして僕が神を信じるもう1つの理由があります。

それについては次回「神の存在について(9)道徳の根源としての神」にて議論したいと思います。

神の存在について(9)道徳の根源としての神
前回記事「神の存在について(8)目的論的論証の拡張版」では、この宇宙に数学的構造・論理的構造が認められることから神の存在を主張する議論などをご紹介しました。 今回もまた違ったタイプの「神の存在論証」を取り上げたいと思います。 ...

 

〈参考文献〉

  • 『「神」という謎[第二版]』(上枝美典著、2007年、世界思想社)
  • 『科学者は神を信じられるか』(ジョン・ポーキングホーン著、小野寺一清訳、2010年、BLUE BACKS)