神の存在について(6)インテリジェント・デザイン(ID)とは?

宗教哲学

 

前回記事「神の存在について(5)目的論的論証と進化論」では、自然の精巧さから神の存在を推論する「目的論的論証」と、それに対立する「進化論」の概要を述べました。

神の存在について(5)目的論的論証と進化論
前回記事「神の存在について(4)宇宙論的論証―後編」では、神の存在論証の1つである「宇宙論的論証」にまつわる諸問題を論じました。 ここ数回の記事で神の存在論証のうち「存在論的論証」と「宇宙論的論証」についてご説明したことになり...

 

 

目的論的論証は「この複雑かつ精巧な自然(特に生物)のあり方からして、それを創造した知性と意志のある存在(神)がいるはずだ」と論じるものでした。

それに対して進化論は「知性と意志がなければあり得ないと思える生物の仕組みも、実は『変異』と『自然選択』」という偶然のメカニズムで説明できる」と反論します。

それぞれの詳しい内容は上の記事をご参照下さい。

今回の記事では、目的論的論証を支持する陣営から進化論陣営に対して向けられた反論を主にご紹介したいと思います。

 

進化論に対する科学者たちの疑問

 

前回も述べましたが、ダーウィンが考えた進化論に現代の遺伝学や分子生物学の成果を加えた現代の主流派進化論を「ネオ・ダーウィニズム」と言います。

僕が記事の中で「主流派進化論」とか言う場合はこのネオ・ダーウィニズムを指していると思って下さい。

さてこのネオ・ダーウィニズムについては、実は科学者内部でも(同じ進化論者からでさえ)かなり多くの疑問点が提出されているようです。

 

例えば……

  • ダーウィニズムでは進化は徐々に起きるはずだが、発掘された化石を見ると進化はいきなり起きているように思える(断続平衡説)。
  • ダーウィニズムによると生物の形態はなだらかに変化していくはずだが、一般的にある種と別の種との間には「中間種」が見られない。種と種は断絶しているように思える。
  • 現代の進化論は遺伝子が生物の形態を決めていることを大前提にしているが、そもそも遺伝子と形態にはそれほど関係がない可能性もある。

 

もちろんこれらの批判に対しては主流派進化論の側から再反論もあります。

僕としてはいろいろと思うところはありますが、専門家ではありませんし「こっちの勝ち!」と断定するには勉強不足であることは否めません。

 

ただ次のことは言えるでしょう。

それは、もしこれらの議論でどちらが優勢であるとしても「生物進化に神の介入があったかどうか」という問題についてはさほど大きな影響がないということです。

あえて言えば「進化は急激に起きる」という断続平衡説の方が「そこで神の力が働いたんだ!」と言いやすいので、主流派進化論よりは神と親和性が高いかもしれません。

しかしその断続平衡説でも「進化はランダムな遺伝子変化と自然選択によって起きる」という発想の枠内で解釈することもできるでしょう。

この場合、進化のメカニズムについては主流派と同じ考えだが、その進化にかかる時間について意見が違うというだけになります。

その他の非主流派の意見も、必ずしも神の存在を有利にするものではありません。

したがってこのレベルでの議論に深入りするのは避けておきたいと思います。

 

インテリジェント・デザイン理論(ID理論)

 

これに対して、はっきりと「生物界には創造者の知性の痕跡が見られる」と主張してダーウィン進化論に挑戦する人たちがいます。

現代のアメリカで盛んないわゆる「インテリジェント・デザイン理論」(ID理論)です。

以下ではそのID理論を少しご紹介することにします。

 

ID理論は〈確率〉の観点から進化論を批判する議論だと言えば分かりやすいと思います。

彼らは「複雑な生命の構造が偶然の累積で生まれるなどということは〈確率的に〉あり得ない」「したがってそれは知的創造者の設計(デザイン)によるものだ」と主張するのです。

これはズバリ「目的論的論証の現代版」と見なすことができるでしょう。

 

このID理論は聖書の言葉をそのまま信じる「創造論」(クリエイショニズム)の焼き直しだと批判されることもあります。

聖書では「生物種がどのように誕生したか」について神話的に語られています。これを文字通りに信じて進化論を否定するのが創造論者です。

進化論者に言わせれば「さすがに創造論は科学的議論としては苦しくなった。そこで彼らはID理論として衣替えしてきたのだ」ということのようです。

しかし実際のところ、ID理論家たちは必ずしもキリスト教原理主義者というわけではありません。したがってこの批判は当たっていないでしょう。

もし本当に聖書を文字通りに読むならば、生物が進化していることすら否定することになりますが、ID派の多くは進化の事実は受け入れているはずです。

唯物的な進化論者は要するに「ID派の奴らは本当は創造論者なのだが、非科学的な議論を数学なんかで粉飾しているだけだ。だから論じるに値しない」と言いたいようです。

しかしその議論が非科学的かどうかは内容を見なければ分かりません。

ID理論の「出自」にこだわって議論を忌避するのは「むしろ相手の議論を恐れているからではないか」と勘繰りたくなります。

 

還元不能の複雑性

 

では代表的なID理論家をご紹介します。

 

まずはアメリカの生化学者マイケル・ビーヒー(1952-)です。

もとの綴りは「Behe」です。ここでは「ビーヒー」と書きましたが「ベーエ」と書いている本もあってどちらが正しい発音に近いのか分かりません(^^;)

僕は雑誌記者だった時、この人に取材してコメントをもらったことがあります。名前の正しい発音を聞いておけばよかった(笑)。

 

それはともかく彼の議論は次のようなものです。

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生物の器官の多くは「複数の部分が協力して1つの機能を果たし、そのうちどれか1つが欠けただけでその機能は失われる」という特徴を示している。

これを「還元不能の複雑性」(※)と呼ぶことができる。

※「還元不能」というのは「バラバラにしたら機能がダメになる」というくらいの意味。

例えば細菌が水中を進むために必要な「鞭毛モーター」というのがある。

鞭毛モーターは多くの部分(タンパク質群)からできていて、どれか1つでも欠けると「推進する」という本来の機能を失う。

したがって鞭毛モーターのようなものは「すでに組み上がった状態で」「突然に」出現しなければ意味がないはずだ。

そしてそれほど複雑で精巧な「機械」はデザインする者なしにはあり得ない。

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ここで例に挙げられている鞭毛モーターは非常に多くの部分からできていて、図を見ると確かに「ナノレベルの機械」「ナノレベルの工場」であるかのように見えます。

機械のような複雑かつ精巧な機構は、知性ある存在がそれを設計(デザイン)したと考えなければならないというわけです。

 

このビーヒーの議論は大きな論争を巻き起こしました。

反対者たちは大筋で次のような議論をしているようです。

↓↓↓↓↓↓

鞭毛モーターを構成する各部分(タンパク質群)だって鞭毛モーターとは別の独自の機能があった。だから生存する上で有利となり自然選択されて存続していた。

億単位の極めて長い年月の間に各部分がたまたま合体して鞭毛モーターとなった。

そして「推進する」という(各部分とは別の)機能を果たすようになったと考えることができる。

したがってそこに「デザインの痕跡」を見る必要はないのだ。

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確かにこう言われれば「絶対にそんなことはない」と言って完全論破することは難しくなります。

しかし進化論者の反論はいつもこんな感じで「何億年もの時間があるのだから偶然に組み上がることだってあるでしょうよ」といったものなんです。

これは「それを言っていいなら何でもアリ」になってしまう論法であって、これが科学的な議論と言えるのか非常に疑わしいと僕は感じています。

ちょっと科学哲学に入りますが、カール・ポパーという哲学者は「どんな反論でもスルリとかわして反証できないようなタイプの議論は科学ではない」と主張しました(反証不可能性)。

このポパーの思想については以下の記事をご参照下さい。

科学の条件とは(4)反証可能性ってなに?
「科学の条件とは(3)『証明しろ』と言うけれど……」では、科学でよく出てくる「証明」という言葉の曖昧さについて述べました。 今回はこれに関連する「反証可能性」という考え方について紹介します。 なかなか「絶対的な証明」はない ...

 

要するに進化論が反証しにくいのは確実な議論だからではなくて「ああ言えばこう言う」というタイプの怪しげな理論だからではないかという疑いがあるのです。

つまりどんな反論に対しても「何億年も時間があるのだから、精巧な仕組みが偶然にできることもあり得る」と言って〈逃げて〉しまえるのですね。

実際、ポパーは進化論の〈科学性〉について疑念を表明したことがあります。

進化論者の「還元不能の複雑性」に対する態度についても、「万一の可能性を持ちだすことでかろうじて完全論破を免れている」というのが客観的な状況でしょう。

したがって何か特別の理由がないのならばビーヒーの主張する「還元不能の複雑性」の方を支持するのが合理的な態度であろうと僕は考えています。

 

特化複雑性

 

もう1人ID論者をご紹介します。アメリカの数学者ウィリアム・デムスキー(1960-)です。彼は「特化複雑性」という概念を提出しました。

この「特化複雑性」とは「ある対象が十分に『複雑』であり、しかも『独立したパターン』に合致していること」です。

そしてデムスキーは「特化複雑性が見られるならば、そこに『デザイン』が介在していると推定してよい」と主張したのです。

 

複雑はいいとして「独立したパターン」というのがよく分からないかもしれません。下で参考文献に挙げた『ダーウィニズム 150年の偽装』に載っている喩えを拝借してご説明します。

例えばどこかの砂浜に「I Love You, John」と書かれていたとしましょう。

この文字列は十分に複雑ですし、しかも「アルファベットの綴り方」や「英文法」といったパターン(規則)に合致しています。「独立したパターン」とはこういうことです。

こうした条件下ならば上の文字列は自然の力ではなくデザイン(知性)によるものだと推定してよいというわけですね。

 

とても分かりやすい話だと思います。

これも同じ参考文献に載っている話ですが、山の崖に4人のアメリカ大統領の胸像が刻まれていたら、誰だって「人間がそれをデザインして刻んだのだ」と考えるでしょう。

その胸像は複雑であるだけでなく、「大統領たちの顔の形」というパターンに合致しているからです。自然にできたものと考える人はいません。

ダイナマイトで崖を爆破しても、崖の形は「複雑」にはなるでしょうが「大統領たちの顔の形」というパターンに合致することはないでしょう。

あるいは「2億年待てば風や雨によってワシントンやリンカーンの顔が自然にできあがることもあるさ」などと言う人がいるでしょうか?

デムスキーは鞭毛モーターはもちろん生物界の様々な局面で特化複雑性が見られることを理由にして「そこにデザインが働いている」と結論するのです。

 

これも僕としては文句のつけようのない議論だと思えるのですが、やはりいろいろと反論する人はいるようです。

それを聞いてみると「確率論ではダメだ」「それ以外の明白な証拠を示せ」などという感じで、感情的あるいは抽象的な反論に止まっているように僕には思えます。

しかし(次回も言いますが)「明白な証拠」などと言い始めると危なくなるのはむしろ主流派進化論の方でしょう。

今のところタイムトラベルして進化の様子をビデオに収めることはできないのですから、結局のところ「どちらの議論により多くの説得力があるか」という勝負になるのです。

そしてそういう視点から見ると、デムスキーの「特化複雑性」には強い説得力を感じるのです。

 

以上のことを総合的に考えると、ID派は「自然界にデザイン(知性)の痕跡がある」というところまでは論証できていると僕は考えています。

少なくとも「デザインなどない」という意見と比較した場合、その優位は明らかであるように思えるのです。

 

ここから先は長くなりそうなので、今回はこの辺りで切り上げることにしましょう。

次回「神の存在について(7)ID理論と進化論のそれぞれの問題」では、ID理論と進化論についてさらに議論を進めます。

神の存在について(7)進化論とID理論、それぞれの問題
前回記事「神の存在について(6)インテリジェント・デザイン(ID)とは?」では、「目的論的論証」の現代版とも言えるインテリジェント・デザイン(ID)理論を紹介しました。 僕としてはID理論は「自然界の少なくとも一部についてはデ...

ID理論と進化論はお互いに批判し合っていますが、僕としてはそれらの論争とは別のレベルでそれぞれに問題があるように思えるので、そのことをお伝えしたいと思います。

 

〈参考文献〉

  • 『「神」という謎[第二版]』(上枝美典著、2007、世界思想社)
  • 『科学と宗教』(A・E・マクグラス著、稲垣久和他訳、2009、教文館)
  • 『インテリジェント・デザイン』(宇佐和通著、2009、Gakken)
  • 『ダーウィニズム 150年の偽装』(渡辺久義/原田正著、2009、アートヴィレッジ)