西田幾多郎(3)西田の宗教哲学

哲学者ごとの解説

 

前回記事「西田幾多郎(2)純粋経験とは何か」では、西田哲学の中核である純粋経験について解説しました。

西田幾多郎(2)純粋経験とは何か
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前回のまとめ

 

厳密な意味での純粋経験とは、主観(意識)と客観(対象)が統一されている状態です。

例えば、あなたが「我を忘れて」美しいバラの花に見入っている状態なんかがそうです。完全にバラに没入というか自己移入して、自分とバラの区別がないような感じですね。

 

でもそんな風にうっとりと忘我状態でバラを見ていても、やがてフッと我に返って〈あなた〉という意識が〈バラ〉という対象を見ていたのだと自覚するでしょう。

ここでのポイントは、純粋経験の中には意識(見ているあなた)も対象(バラ)もすでに含まれていたということです。

純粋経験の中には、ありとあらゆる種類の存在、ありとあらゆる種類の現象が含まれています。

物理的事物(物体や物質)や物理現象はもちろんですが、一般に「心的現象」とされている思考・知覚・感情・意志といった作用も含まれています。

 

物理世界を第一存在と見なし、人間の心的現象(意識現象)はそれに付随すると考える「唯物論」では、物理現象からいかにして心的現象が創発するのかが説明できません。

しかし純粋経験論なら、大きな意味での心的現象(純粋経験)の中に最初から物理現象や物体が含まれているので、改めて2つの領域の関係を説明する必要がないのです。

これは哲学的には大きなメリットだと言えます。

 

独我論の問題

 

このように、人間の心的現象(意識現象)から出発する純粋経験論には、唯物論が抱える難問を回避できるという利点があります。

しかし純粋経験論もそうですが、まず意識から出発するタイプの哲学(=唯心論)には、実は1つ難点があります。

それは「唯心論は『独我論』になる恐れがある」という問題です。

この「独我論」とは「世界には私の意識しか存在しない」あるいは「私の意識の範囲を超えた世界は存在しない」という思想です。

 

映画やドラマなどで時々「すべては夢だった」「バーチャルリアリティだった」という展開のものがありますよね。「トータル・リコール」とか「マトリックス」とか。

映画では夢や幻影から醒めた後に「本当の世界」があるのが普通ですが、ここからさらに「本当の世界」すら無くしたものが「独我論」です。

独我論者の主張によると、「世界」とはこの〈私〉の意識界のことで、その外部には何も存在しません。

世界には〈私〉の意識しか存在しない。より正確に言うなら、〈私〉の意識領域こそが「世界」なのだ……。

こういうちょっと寂しい思想が独我論ですが、「すべては意識現象だ」「まず意識から出発すべきだ」という唯心論だと一歩間違えるとこうなってしまう恐れがあるわけです。

これに対して唯物論だったら「まず広大な物理世界がある」「そこに各人が属している」と前提しているわけなので、独我論の問題は生じません。

 

唯心論から有神論へのプロセス

 

唯心論には「心的現象(意識現象)と物理現象の関係をうまく説明できる」という利点がありますが、引き換えに「独我論になりやすい」という難点を抱えてしまうということです。

しかし「すべては意識だ」という唯心論でありながらも、「私の意識しか存在しない」という独我論に陥らない考え方もあります。

広大な大宇宙が存在し、そこで物理法則が働いていることも認めながら、「その大宇宙は実は大いなる意識の内で成立している」「宇宙の存在も法則も意識現象だ」と考えるのです。

その「大いなる意識」とは言うまでもなく「神」「仏」「摂理」といった超越的な存在です。

 

これは僕だけが言っている特殊な解釈ではありません。唯心論を「独我論に陥らせない方向」で論理徹底すると必然的にそうなるしかないと思うのです。

実際に(もちろん例外はありますが)唯心論的な傾向のある哲学は同時に有神論であることが多いのです。

古くは、唯心論の代表者であるアイルランドの哲学者バークリーもそうです。フィヒテ、シェリング、ヘーゲルといったドイツ観念論の哲学者たちもそうです。

ハイデガー哲学を「唯心論」と表現すると専門の研究者に怒られそうですが、僕の考えでは彼もまた同じ思考プロセスで有神論に接近しています。

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ハイデガー(4)存在と神
前回記事「ハイデガー(3)死を分析する」では、死を覚悟して未来へ駆ける「先駆的決意性」こそが人間の本来あるべき姿であるという話をしました。 死を覚悟して未来へ駆ける……。 なるほど。深い哲学ですなぁ。 でも、あれ? ハイデ...

 

そして我らが日本代表・西田幾多郎も同じです。彼はハイデガーと異なり、堂々と「神」を語る哲学者です。

 

普遍的純粋経験としての神

 

西田によれば、僕たちの身の回りに存在するもの、あるいは身の回りで起きる現象はすべて僕たちの純粋経験です。あるいは少なくとも純粋経験の一部です。

それは話を全宇宙レベルに広げても一緒です。宇宙に存在するもの、宇宙で起きる現象はすべて「神の意識」と言うか「神の経験」の内にあります。

例えば、生命の存在しない死の惑星で砂が舞うとしましょう。

これも神の純粋経験なのです。独我論者ならば「誰も見ていないなら存在しない」と言いそうなところですが、そんなことはありません。ちゃんと神がそれを意識しているからです。

 

僕たち1人ひとりの純粋経験を「個別的純粋経験」と呼ぶとすれば、神の純粋経験は「普遍的純粋経験」だと言えます。

神とはこの普遍的純粋経験そのものだと考えてもいいし、あるいは普遍的純粋経験を貫く力・生命力・エネルギーと考えてもいいでしょう。このあたりは些細な学者的な問題です。

ともかく神の純粋経験は人間たちの純粋経験の奥底にあってそれらを支えています。と言うよりむしろ、神の純粋経験が分裂して個性化したものが人間の純粋経験です。

つまり人間とは、神から分かれて成立した神の一部なのです。

人間は神の一部として存在し、神によって生かされています。しかし神もまた人間たちの経験を吸収し、それを通して自らの経験知を上げているのです。

もちろん神と人間とでは偉大さにおいて無限の隔たりがあるのは確かでしょう。両者はあくまで別物です。しかし根底においてつながってもいるのです。

絶対に違うものでありながら同時に同じものでもある……。西田はこのことを「絶対矛盾的自己同一」と表現しました。

こうした発想はズバリ、ヘーゲル哲学の影響です。ヘーゲルもまた神と人間との相互浸透的な関係を想定したのです。

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ヘーゲル(3)神と人間の繊細すぎる関係
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そしていわゆる「宗教」とは、個人的純粋経験の奥底にある普遍的・根源的な力(神)と一体になろうとする試みのことだと言います。

宗教的要求とは全宇宙的生命と一致したいという要求であり、西田によればそれこそが人間にとって最大最深の要求です。

西田の言葉を少し引用してみましょう。

 

宗教的要求は我々の已まんと欲して已む能わざる大なる生命の要求である。厳粛なる意志の要求である。宗教は人間の目的そのものであって、決して他の手段とすべきものではない(西田幾多郎『善の研究』、小坂国継全注釈、講談社学術文庫、2006、p.380)

 

世には往々何故に宗教が必要であるかなど尋ねる人がある。しかし、かくの如き問いは何故に生きる必要があるかというと同一である(中略)真摯に考え真摯に生きんと欲する者は必ず熱烈なる宗教的要求を感ぜずにはいられないのである(同、p.385)

 

東洋思想と西洋哲学の融合

 

西田は生涯を通じて参禅などの宗教修行をしていました。そうした経験が彼の哲学にも色濃く表れているように思います。

上で述べた通り、人間は根底においては神とつながっていますが、普段は「自分は自分」という意識で生きています。仏教的に言えば悪い意味での「自我」があるわけです。

この悪い意味での自我、言うなれば「偽物の自分」「偽我」を滅却しなければ、神と通じるような「真実の自己」に目覚めることはできません。

 

実はここに「正」「反」「合」という弁証法的なプロセスが現れています。

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〔正〕現在の自我(偽我)がある。

〔反〕その自我(偽我)をいったん滅却する。

〔合〕すると深い真実の自己(神)に目覚める。

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この「いったん偽我を滅却して真正の自己に至る」という過程はとても仏教的ですね。

弁証法という発想もヘーゲルの影響を受けたものです。ただヘーゲルの弁証法は「歴史が弁証法的に展開する」というように「時間」のイメージが強いものでした。

しかし西田は「心を開拓して真実の自己に至る」という仏教的展開の中に弁証法のプロセスを見出したのです。

東洋思想と西洋哲学の良質な融合がここに見られるのではないでしょうか。

 

次回「西田幾多郎(4)西田の倫理学~善とは何か~」では、西田の倫理学・道徳哲学について解説したいと思います。

西田幾多郎(4)西田の倫理学~善とは何か~
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