西田幾多郎(2)純粋経験とは何か

思想の解説

 

前回記事「西田幾多郎(1)西田哲学を学ぶ準備~二元論の問題」では、西田哲学を理解するための前提として、哲学上の大問題である主客二元論について解説しました。

西田幾多郎(1)西田哲学を学ぶ準備~二元論の問題
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前回のまとめ

 

この世界には「物理現象」「物理的事物」の領域と、「心的現象」「意識」の領域があります。まったく性質の異なる2つの領域があると、その関係を議論したくなるのが人情です。

現代の科学者たちの多くは「唯物論」の立場からこのことを説明しようとするでしょう。

つまり彼らは、脳内の物理現象(電気信号・化学物質・血流の働きなど)によって人間の意識や心が生じているのだと説明すると思います。

しかしそのような説明の仕方では「クオリア問題」「意識のハード・プロブレム」といった難問が出てきてうまくいかないのでした。

ここまでは前回の復習です。「よく分からない」という方は上記のURLから前回の記事をご参照下さればと思います。

 

この「物理現象→心的現象」という順番で説明しようとする唯物論に対して、反対に「心的現象→物理現象」という順番で説明しようとするのが「唯心論」です。

そして西田哲学はこの唯心論の系譜に属するというのが僕の考えです。

ただ「心的現象の存在から出発して、そこから物理現象を説明する」と言われても、意味がよく分からないと思いますので、それは後ほどご説明します。

 

何はともあれ、まずは西田哲学そのものを見てみましょう。

 

純粋経験とは

 

西田哲学の最重要キーワードは「純粋経験」です。

純粋経験とは意識の原初的(直接的)な統一状態のことです。西田自身の表現では「色を見たり、音を聞いたりする刹那」の経験です。

例えば画家であるあなたが美しいバラの花に心を打たれ、我を忘れて一心不乱に描いている状態が純粋経験と言えるでしょう。バラの花という対象に「没入」している感じですね。

あるいはミケランジェロがインスピレーションのままに一心不乱にダヴィデ像を制作している状態もそうかもしれません。

 

ポイントは、このような純粋経験においては〈私〉という意識(主観)が〈バラ〉という対象(客観)を眺めているということすら忘れているということです。

主客二元論(さらには物心二元論)の構図を超えているわけですね。主観と客観が分かれていない未分離の状態、つまり「主客未分」です。

芸術家が「ゾーン」に入って制作している瞬間は、自分と作品は一体のようになっていると言います。「自分は作品であり、作品は自分である」という境地があるらしいのです。

仏教僧でも修行が進んでくると、仏像に向かって精神統一をする際、仏像が自分の中に入り、自分も仏像の中に入っていくという感覚がするそうです(入我我入)。

 

しかし無我夢中で作品制作に没入していた芸術家も「我に返る」と言うか、日常的な意識に切り替わってそれまでの作業を冷静に分析するような瞬間があるでしょう。

例えば「あそこの色はああした方がよかったかな。ここの形はこうする方がいいだろう。その方が遠近感が出るから……」といった具合ですね。

こうなると主客未分であった純粋経験が〈私〉という主観と〈作品〉という客観に分裂してしまっています。

分裂した一方の極である主観が、もう一方の極である客観についてあれこれと思考し分析を加えているわけです。これはもう厳密な意味での純粋経験とは言えません。

 

純粋経験の分裂と深化

 

でもこのことが純粋経験にとって不幸なのかというとそういうわけではありません。

冷静に自分の作品の良いところと悪いところを分析し、あれこれと思案するという作業を繰り返してこそ芸術家も腕を上げていけます。

そしてそういうプロセスを経た芸術家が再びインスピレーショナブルに制作する「ゾーン」に入ったなら、以前よりもさらに素晴らしい作品を創造できるのです。

 

このことは、純粋経験にも「段階」と言うか「深さの違い」があることを示しています。

同じ画家でも10年前に描いたバラの絵と、試行錯誤を繰り返しつつさらなる研鑽を積んで描いた現在のバラの絵とでは違いがあるでしょう。

描く瞬間に自分とバラとが一体化した没入状態に入っていたのは同じだとしても、その没入状態・統一状態の深さが違うわけですね。

 

そのように考えると、純粋経験は「分裂」と「統一」を繰り返すことで深みを増していくということになります。

主観と客観へと分裂した状態は、狭い意味での(つまり狭義の)純粋経験ではありません。しかしこのプロセスも純粋経験の深化発展にとって必要不可欠な要素です。

したがって西田はこの分裂状態も広い意味では(つまり広義の)純粋経験だと考えます。そして分裂した主観や分裂した客観もやはり純粋経験の一部なのです。

 

先ほどの例を使うとこうなります。

↓↓↓↓↓↓

①画家とバラが一体になっている状態は純粋経験。

②分裂した主観(画家の心)も純粋経験の一部。

③分裂した客観(対象としてのバラ)も純粋経験の一部。

④分裂状態を克服し、画家とバラがさらに深く再統一された状態も純粋経験。

 要するに森羅万象が純粋経験(もしくはその一部)。

 

1つ注意したいのは、主観(意識)と客観(対象)に分離したうちの主観だけが「意識」だというわけではないことです。

西田が「意識と対象に分離する以前の主客未分の経験」などと強調するので分かりにくいのは確かですが、純粋経験も「経験」である以上、大きな意味では心的現象(意識現象)であるはずです。

西田が「主客分離後の主観(意識)」と考えているのは、大きな意味での意識現象である純粋経験から客観(対象)を差し引いて残った部分のことです。

例えば、思考作用・意志作用・想像作用・感情といった心的現象です。

純粋経験とは、これらのいわゆる心的現象に加えて客観(対象)をも含んだものではありますが、心的現象(意識現象)であることに変わりはないのです。

 

意識のハード・プロブレムを回避できる理由

 

さて、ここまでの話からすると……。

物体や物質のようなものも純粋経験(意識現象)の一部です。

あなたが見ている美しいバラや美味しそうなリンゴは物体ですが、それと同時にあなたの意識現象の一部であるはずです。物体だって結局、意識という舞台に現れるものですからね。

 

ここで主客二元論(さらに物心二元論)との兼ね合いが出てきます。

唯物論者によれば、世界に存在する「真なる実在」は物理現象・物理的対象(物体や物質)だけだということになります。

彼らは、人間の心的現象(意識現象)なるものは物理現象から派生した付随物として説明します。

しかし最初に物理現象を据えてしまうと、どうしてそこからまったく範疇(カテゴリー)の異なる心的現象が生じるのかが説明できないのでした(意識のハード・プロブレム)。

 

それに対して、西田の純粋経験論ならば話は簡単です。

最初に意識現象・心的現象を据えれば、物理現象や物理的対象(物体や物質)はすでにその中に含まれているのです。

大きな意味での心的現象から、思考作用・意志作用・想像作用・感情といった「小さな心的現象」を引き算して残ったものが物理現象・物理的対象であるということです。

これが西田の純粋経験論が「クオリア問題」「意識のハード・プロブレム」を回避できる理由です。説明すべきものはすでに最初から含まれているのです。

 

これに似たアイデアは、実は西田に限らず19世紀から20世紀にかけて多くの哲学者たちが採用するようになっていました。

フッサールというドイツの哲学者が創始した「現象学」というのも純粋経験論に似た発想だと思います。フッサールの弟子であるハイデガーの「世界-内-存在」という概念もそうです。

あるいはフランスのベルクソンの「イマージュ」論もそうでしょう。さらにアメリカのジェームズは西田に先駆けて(少し違った形ですが)純粋経験論を唱えていました。

これらはいずれも「物理世界・物理現象を第一存在とし、そこからの派生物として心的世界・心的現象を説明する」という唯物論的な方法を拒否した哲学なのです。

これらを一括りにする呼び方はないように思いますが、僕は個人的にこれらを「直接経験の哲学」と呼んでまとめています。

 

豊かな存在の世界

 

僕が思うに、こうした直接経験の哲学には「クオリア問題」「意識のハード・プロブレム」を回避できること以外に、もう1つ重要な利点があります。

それは「直接経験の場に現れるあらゆるものを、それぞれにリアリティのある存在者として認めることができる」という点です。

例えば、イデア・抽象的概念・想像上の産物・知覚の対象(物体)・数・感情・意志・愛・真理・善悪・美醜・正義……等々。これらはすべて立派な「存在者」となります。

 

ここまでの話にはあまり出てきませんでしたが、真理や善悪といった人間が生きる上で大切な「価値」に関わるものも純粋経験の1つです。

眼には見えないものでも、人間がそれを痛切に感じ、そのために生きたり死んだりするものは純粋経験の1要素であり、重要な存在者ということになります。

もし唯物論のように、物理的対象および物理現象しか本来の存在として認めないなら、こうはいきません。

愛や価値なんかは(そちらの方が人生では重要なのに)物理世界から派生的に生まれてくる煙のような存在にすぎなくなるでしょう。

 

愛? ああ、それは脳の中でセロトニンが分泌されてね……云々。

善? ああ、それは生存で有利になるから進化の過程で身に付けた感覚で……云々。

 

それに対して直接経験の哲学では、こうしたものを派生物として説明することはしません。愛は愛であり、善は善なのです。

西田哲学をはじめとする直接経験の哲学は、存在者の世界を多様で豊かなままに享受することを可能にしてくれると僕は考えています。

僕たちの人生にとって大切なものを「物理現象から派生してくるだけの付随現象」などとして貶めることはありません。

僕としては直接経験の哲学を高く評価していますが、それはこうしたことが理由です。

 

次回「西田幾多郎(3)西田の宗教哲学」では純粋経験についてさらに別の観点から考察します。

西田幾多郎(3)西田の宗教哲学
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