前回記事「ハイデガー(4)存在と神」では、ハイデガーの存在思想を「神」と絡めながらまとめました。
今回は、ハイデガーを語る上で無視するのことのできない「ナチスへの加担問題」について考えてみたいと思います。
ナチス礼讃の演説
しばしば「20世紀最大の哲学者」とも称えられるハイデガーですが、彼の生涯において拭い去ることのできない「汚点」として残っているものがあります。
それがハイデガーによる「ナチスへの加担問題」です。
要するに「ハイデガーはナチスに協力した。こんな人間の哲学に価値なんかあるのか?」ということですが、まず問題になっている事実関係を確認しておきます。
1933年1月
・ヒトラー率いるナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)が政権を獲得。
1933年4月
・ハイデガーがフライブルク大学の学長に就任。
1933年5月
・ハイデガー、ナチスに入党。
・いわゆる「アルバート・レーオ・シュラゲーター賛美演説」でナチスを賛美。
・学長就任演説「ドイツ大学の自己主張」でまたナチスを賛美。
1934年4月
・ハイデガー、フライブルク大学の学長を辞任。
1934年6月
・「長いサーベルの夜」事件。ナチス内の親衛隊(SS)が突撃隊(SA)を粛清。
こうして見ると、ヒトラー政権の初期に当たる約1年(1933年~34年)に問題が集中していることが分かります。
この時期にハイデガーがナチスに入党したこと、しかもフライブルク大学の学長という責任ある立場においてナチス礼讃の演説をしたことが問題になっているわけです。
ハイデガーはアルバート・レーオ・シュラゲーターという人物を演説で高く評価しました。
このシュラゲーターとは、第一次大戦の敗戦後、ドイツの賠償金不払いを理由にフランスとベルギーが進駐してきたさい、これに抵抗して銃殺されたナチスの突撃隊員です。
外国の侵略に抵抗して亡くなった愛国青年といったところでしょう。ハイデガーはこういう人を「意志の堅固さと心情の明晰さ」などと言って褒めたわけですね。
それだけなら「まぁアリかな……」とも思いますが、ハイデガーはその際にナチス政権の成立について「民族の偉大さと栄光に向かっての出発」などと讃えてしまっているのです。
また学長就任演説でも、学生に「労働奉仕・国防奉仕・知的奉仕」の3つの義務を課そうとするなど積極的にナチスへの協力を表明したとされています。
この2つの演説だけではなく、この時期に行われた他の演説や寄稿文でもかなり露骨なヒトラー礼讃・ナチス礼讃をやらかしています(汗)。
さらにハイデガーはナチス式の敬礼を党員以外にも強要したり、授業の最初と最後に「ハイル・ヒトラー」と叫ぶ敬礼を義務づけたりもしています。
確かにかなり熱心な関与と言わざるを得ませんね。
さてフライブルク大学で親ナチス的な学内改革をしようとしていたハイデガーですが、学長就任からわずか1年ほどで辞任しています。
そしてその辞任の直後、いわゆる「長いサーベルの夜」事件が起きるのです。
これはナチス内部の粛清事件です。それまで優勢だった突撃隊(SA)のグループが粛清され、その後のナチスを牛耳る親衛隊(SS)グループが主導権を握りました。
ハイデガーの辞任劇もこの大きな動きと関係があると言われています。
大学内の学生組織にもSA系とSS系があってハイデガーはSAを頼りに大学運営をしていたのですが、徐々にSSが伸長してハイデガーは追い出されたというわけです。
ナチスとハイデガーに思想的なつながりはあるか
こうして見ると、ハイデガーのナチス礼讃と言っても、ナチスドイツが周辺諸国の侵略やユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)を開始するよりずっと以前であることが分かります。
もちろんこの早い時期でもナチスはユダヤ人商店の破壊や街頭での示威行動をやっていましたから、ナチスに反ユダヤ的傾向があることはすでに明らかでした。
それにハイデガーの書いた文章や友人関係などから、彼自身にもある程度の「反ユダヤ性」が見い出せるというのはよく指摘されるところです。
しかしながら、数百万人のユダヤ人虐殺や諸外国への継続的な侵略を知った上でなおハイデガーがナチスを礼讃したとか肯定したとかいう事実はありません。
いずれにせよ僕たち哲学徒として考えておきたいのは「ハイデガー哲学にはナチスに通じるような危険なものが含まれていたのか」ということでしょう。
それについて少し考えてみます。
以前の記事で書きましたが、ハイデガーは人間とは「過去を受け止めつつ未来へと駆ける」存在だと考えていました。これを「被投的投企」と呼ぶこともご紹介しましたね。
この「過去を受け止めつつ」というところですが、これは単に個人的なレベルの話だけには止まりません。
僕たち人間は、自らがそこを母胎として生まれた土地・言語・慣習・文化を吸収してこそ人間らしく生きてゆくことができるでしょう。
そこでハイデガー哲学は「民族」「運命」「大地と血」といったことを強調することになります。郷土愛とか祖国愛といったものに親和性が高い思想なのです。
しかも当時のドイツは第一次大戦の敗戦によって国土は荒廃し、戦勝国から天文学的な額の賠償金を科せられるなど、塗炭の苦しみの中にありました。
そんな状況下で「過去を受け止めつつ未来へ駆ける」というハイデガー哲学は「屈辱の底から復興し、栄光の未来へ羽ばたこう!」というメッセージとして受け取られたはずです。
おそらくハイデガー自身にも「ドイツ国民を鼓舞しよう」という意図があったと思われます。
ところがそこに「タイミングよく」と言うべきか「悪く」と言うべきか、「偉大なるドイツ民族の復興」を掲げるナチスが伸長してきたというわけです。
そういう流れでハイデガー(だけではなく多くのドイツの知識人たち)はナチスにお熱を上げることになってしまいました。
さて「ハイデガー哲学とナチズムに本質的な類似性があるか」という問題ですが、結局どう考えるべきでしょうか?
もしハイデガーとナチスに似ている部分があるとしたら、それは今述べたようなところでしょう。つまり「民族」とか「郷土愛」を尊重するところです。
しかしこれをもって「似ているからダメだ」と言われたら、ハイデガーに限らず古今東西ほとんどの保守的な思想家は「アウト」になってしまいます。
それだと歴史的に重要な哲学者のおそらく半分以上(ほとんどかも)を「ナチス的思想家」にしてしまうことになるので、それは言いすぎです。
僕としては、ハイデガー哲学の中心部分である「存在論」「時間論」「現存在分析」に危険な要素があるとは思っていません。
そうした思想が「祖国愛」「郷土愛」につながることもあるでしょうが、祖国愛や郷土愛がそれ自体として危険というわけではないのです。
自分が生まれ落ちた国や社会を愛せるならばそれに越したことはありません。それが極端な他者排斥につながらないようバランスへの配慮が必要なだけです。
このように僕も「健全なナショナリズムは必要だ」という立場ですし、ハイデガー哲学も十分その範囲内に収まるものだと考えています。
「悪を見抜けなかった」という責任
問題はその先にあって、ナチズムというものが「健全なナショナリズム」なのか「恐るべき危険思想」なのかという判断が当時としては必要だったわけです。
そしてヒトラーのナチズムは後者でした。放っておけば異民族の大量虐殺や際限のない侵略戦争を引き起こす悪魔的思想だったのです(ただしそれは共産主義も同じです)。
ハイデガーに責任があるとすれば、その責任は「ナチズムの本質を見誤ったこと」「ナチズムが危険思想であることを見抜けなかったこと」に求められるでしょう。
そしてヒトラー・ナチズムの本質を見誤ったまま(短期間とは言え)それへの協力姿勢を示し、明確な礼讃を行ってしまったことです。
ナチスは選挙で政権を獲得しました。多くの国民がナチスを支持していたわけです。
現在進行形で行われていることを同時代に評価するのは難しいこともあるでしょう。一般の人ならそれほど批判されることではないかもしれません。情報統制もありましたしね。
そういう意味ではハイデガーだけを責めるのは酷な気もしますが、やはり思想家はそれなりの責任を負っています。「物事の是非善悪を正しく見抜いて人々に教える」という責任です。
特に有名大学の学長という立場で政治に積極的にコミットするならば、その責任はさらに重大だと言えます。
その頃のハイデガーの文章を読むと、「私がこの運動を正しく導いてやるのだ」という自負のようなものすら感じられます。
破壊活動・示威活動など「ちょっとオイタ」をする若い奴らもいるが、偉大な哲学者である私がナチズムを真の民族復興運動へと昇華させてやろう……という感じでしょうか。
しかしナチズムはそれほど甘っちょろいものではなく、ハイデガーがどうこう指導できるレベルではなかったのです。
その意味でハイデガーは自分の力をも見誤っていたと言えるでしょう。
さらに批判されるのは、ナチスによる蛮行の全体像が暴かれた戦後になってもハイデガーが明確に自分の過ちを認めて謝罪しなかったことです。
ハイデガーはナチス問題についてはほとんど語らずに沈黙してしまいます。たまに何かを言っても自己弁護のようなことばかり……。ついに明確な謝罪をしないまま亡くなりました。
ナチスにコミットしたこと自体よりも、こうした態度の方を厳しく非難する人もいます。
なぜこうした態度をとったのかは推測するしかありませんが、明確な謝罪をしてしまえば、ハイデガー哲学は「巨悪に加担したことを認めた人間がつくった哲学」になってしまいます。
政治判断の過ちによって、人生をかけて築き上げた存在論も葬られてしまうのか……。これがハイデガーには耐え難かったのではないかというのが僕の想像です。
ハイデガー「ナチス加担問題」のまとめ
以上のことを踏まえて、この問題に関する僕の考えを箇条書きにすると、以下のようになります。
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・ハイデガーはナチスに協力する姿勢を見せ、ナチズムを礼讃する演説をした。
・それは「民族」「祖国」を重視する考え方に共鳴したからだと思われる。
・ハイデガーには「ナチズムの危険性を見抜けなかった」という責任がある。
・戦後もハッキリとした謝罪をしなかったのは卑怯である。
・しかしユダヤ人ホロコーストや他国侵略まで肯定していたわけではない。
・またハイデガー哲学(存在論)そのものに問題があるとも思えない。
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ハイデガーの存在論は深い思索に基づいたものであり、西洋哲学の1つの精華として後世に伝えて然るべきものだと僕は評価しています。
ハイデガー自身が自負していたように西洋思想を根底から覆すほどのインパクトを持っているかどうかはともかく、哲学史にとって重要な貢献であることに僕も異論はありません。
もし「ナチスに加担したような奴の哲学なんか価値はない」という人がいるなら、やや了見が狭いだろうと思います。
純粋に存在論を探究していた学究肌の哲学者が、ナチスを「自分の思想を体現してくれるもの」とナイーブにも誤認し、今も消えない汚点を残してしまいました。
これはハイデガーにとっても「生涯の不覚」「人生の痛恨事」でしょう。しかし政治感覚や現実認識の甘さと存在論は分けて考えるべきです。
ハイデガーが偉大な哲学者であり、彼の哲学が人類の遺産であるということは疑えないと僕は考えています。