前回記事「ハイデガー(3)死を分析する」では、死を覚悟して未来へ駆ける「先駆的決意性」こそが人間の本来あるべき姿であるという話をしました。
死を覚悟して未来へ駆ける……。
なるほど。深い哲学ですなぁ。
でも、あれ? ハイデガーって「存在」を探究していたのでは?
そっちはどうなったの?
今回は、これまでの話が「存在」とどう関わっているのかを確認してみたいと思います。
時間化
ハイデガーは「存在」を探究するにあたり、存在了解がなされる(=存在という視点が設定される)場所である「現存在」(人間)を分析することから始めました。
そして現存在(人間)のあり方を研究して分かったことは「現存在(人間)はどうも『時間』と深い関係があるらしい」ということです。
人間は過去を引き受けながら未来に向かって歩みを進めていくのです(被投的投企)。
しかしここで注意すべきことがあります。
ハイデガーが言いたいのは「1秒・2秒というような〈物理的な時間〉〈客観的な時間〉が流れていて、その中を人間が生きている」ということではありません。
そうではなく、むしろ現存在(人間)が生きることによって「過去・現在・未来」が生じるというのです。過去・現在・未来という地平が開かれることを「時間化」と言います。
もともとある物理的・客観的時間の中を人間が生きるのではなく、人間が生きることで「時間化」が起きる(過去・現在・未来という地平が開かれる)のです。
前々回、現存在(人間)の姿勢に応じて「世界」が異なってくるという話をしました。「時間」もまた同様です。
野球少年にとって野球の試合中の時間は突出して重要でしょう。彼の人生において大きくクローズアップされている時間です。このように本来は時間にも重要度のメリハリがあるはずです。
各人はそれぞれに個性のある時間を生きているわけです。
物理的時間というのはこれが「平板化」したものに過ぎないとハイデガーは言います。本来の時間とはメリハリがあるものなのですが、それが平板化して物理的時間になるのです。
僕たちが心で感じている時間こそが本来的な時間なのですが、人々は「地球が1回転するのが24時間」「その24分割が1時間」「その60分割が1分」という風に勝手に単位を導入します。
こうして人々は便宜のために「後から客観的時間をこしらえる」のです。
平凡な例ですが、楽しいことをしているとアッという間に時間が過ぎる一方、嫌なことをしていると時間がなかなか進んでくれないということがありますよね。
これは常識的には「客観的に同じ時間であるが、ある場合には心理的に早く感じられ、ある場合には遅く感じられるのだ」と説明されるでしょう。
しかしハイデガーによれば、僕たちが心で感じている時間こそがホンモノの時間であり、物理的時間とはそれが個性を失うことから生じた派生物に過ぎないのです。
ここまでの大きな流れをまとめると……
存在そのものと現存在(人間)には深い関連がある。
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現存在(人間)は時間と深い関連がある。
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だから存在そのものと時間にも深い関連があるはずだ。
ハイデガーの思索はこのあたりまで進んだことになります。彼の主著のタイトルは『存在と時間』です。ここからようやく本論(=存在論)に入るあたりでしょう。
しかし……。
実は彼の『存在と時間』は本論であるはずの存在論に入ったか入らないかのあたりで終わっているのです。この大著は未完なんです(それでも十分長いけど)。
ハイデガーは現存在(人間)の分析を手がかりにして「存在と時間に関係があること」を突き止めたわけです。
次のステップは、現存在(人間)からいったん離れて、もっと一般的に存在と時間の関係を研究することだったはずです。しかしそれは為されないまま終わりました。
いったい何が問題だったのか? これについては多くの研究者がいろいろな説を述べているようですが、ここでは僕なりの解釈を書いてみたいと思います。
チラつく「神」の影
現存在(人間)があることによって〈時間〉の流れが生じ(時間化)、その時間をいかに生きるかに応じて各人なりの特色のある〈世界〉が開けていく。
これがハイデガーの思想です。
それぞれの現存在がどのようなあり方をするかによってその人の〈時間〉は様相を変えるし、それによってその人の暮らす〈世界〉も変わります。
つまり各々の現存在は「それぞれ固有の時間と世界」を生きていることになります。
しかし……です。
現存在(人間)は「共同存在」でもあって、お互いに関係を持ちながら生きていることも紛れもない事実でしょう。
つまり何らかの意味で各現存在が「同じ時間を共有している」「同じ世界を共有している」と考えなければおかしいのです。
人間が自分固有の世界を生きているからと言って、自らの五感や思考の〈外部〉に大きな世界が広がっていないとは考えられません。
各人それぞれの世界や時間があるのはよいとしても、やはりそれらのすべてを「包含する」というか、それらを「包み込む」ような普遍的な世界や時間もあるはずです。
でもハイデガーとしては「それが物理的世界だ」「物理的時間だ」とは言えません。
ハイデガーは、現存在が生きる「時間」「世界」こそが先にあって、それが平板化して物理的時間・物理的空間になるのだと力説してしまっているからです。
それならば、各人の時間・世界を包含する普遍的時間・普遍的世界とはどのようなものか? それはどのようにして生じているのか?
こういう問題が出てくると思われるのです。
現存在があることによってその人なりの「時間」と「世界」が生まれる。
ということは、普遍的時間・普遍的空間についても、やはりそれを生じさせる「普遍的な現存在」のようなものがあるのではないだろうか……?
ここまで来ると、何だか「不穏な」展開だと思う人もいるのではないでしょうか(^^;)
そうです。これって要するに普通は「神」と呼ばれているものですよね。
ハイデガー自身は決して明確には語りませんが、彼の思想を論理的に突き詰めるとやはり「神」に行き当たるようになっていると思うのです。
でも20世紀の哲学者としてあからさまに「神」を持ち出すのは恥ずかしい。これ以上『存在と時間』を進めると神学者みたいになってしまう。ここらでやめておこうか……。
このあたりが『存在と時間』が頓挫した理由だったのではないかと僕は考えています。
ちなみにハイデガー哲学の背後に「神」を読み取ってしまうのは別に僕だけではなく、有力な解釈の1つです(反対者も多い)。
例えばアメリカやイギリスで活躍するジョージ・スタイナーという文芸評論家などは(僕とは理由が違うかもしれませんが)ハイデガー哲学を「隠れた神学」と考えているようです。
結局のところ「存在」とは
この『存在と時間』以降に展開されたハイデガー哲学の世界観を(僕なりに)大胆に表現すると次のようになります。
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普遍的な世界・普遍的な時間を成立させている根拠として「神」が存在する。
神が存在することによって時間が流れ、神が存在することによって空間が切り開かれて世界が生まれる。「時間が流れること」「空間が開かれること」と「神が存在すること」は同じである。
そこでは多くの現存在(人間)が生きており、各人なりの小時間を過ごし、各人なりの小世界を生きている。現存在と彼らの小世界は神によって根底で支えられているのだ。
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これに伴ってと言うべきか、後期のハイデガーでは「存在」のニュアンスも変わります。
『存在と時間』では「存在」とは現存在(人間)が設定する「視点」のようなものでした。人間が主体的にその視点を設定するからこそ、森羅万象が「存在者」として現れてくるのです。
しかし後期ハイデガーでは、「存在」とは現存在という舞台に「勝手に『生起』してくるもの」というニュアンスになります。現存在が主体的に設定するものではなくなるのです。
喩えるなら「存在」はスポットライトの光のようなものでしょうか。舞台にスポットライトの光を当てると、そこにある椅子や机がクッキリと浮かび上がりますよね。
このスポットライトの光が「存在」、舞台が「現存在」、椅子や机が「存在者」です。
となると、やはり「光を当てる者」として「神」を想定するのは自然な流れではないでしょうか?
こうした思想上の変化をハイデガーの「転回」(ケーレ)と呼ぶことがあります。
ただこの「転回」は、ハイデガーが「変わってしまった」というよりも、潜在的には最初からあった宗教性・神秘性が表に出てきただけだと思います。
先ほど述べたように、若い頃の『存在と時間』でも論理的に徹底すれば神の存在に行き当たるというのが僕の考えです。
研究者の中には「ハイデガーの『存在』を『神』のようなものと考えてはならない!」と言う人もいますが、無理にハイデガーを無神論的に解釈する必要はないと思います。
ハイデガーは「存在しているとはどういうことなのか」「そもそも無が支配しているのではなく何かが存在しているのはなぜか」を探究しました。
そして僕の考えでは、その解答は宗教的な領域に踏み込むものとなっています。やはり神のような究極の存在根拠があって森羅万象を存在させているということです。
ハイデガーは哲学の範囲内に踏み止まりながら存在の神秘に迫ろうとしましたが、それは困難なことだったのでしょう。
いくら難解な哲学用語をちりばめて粉飾しても、ハイデガー哲学はやはり「宗教哲学」「隠れた神学」だと思います。
ハイデガーの仕事は、神や宗教に触れずして「存在」の奥底に迫ることはできないことを図らずも示していると言えるのではないでしょうか。
さて、ハイデガーの思想そのものは今回で終わりにしたいと思います。
次回「ハイデガー(5)ナチスへの加担問題」では、しばしば問題になる彼とナチスとの関係について触れたいと思います。