前回「マルクス(3)共産主義がダメな理由―前編」では、共産主義がどうして必然的に全体主義になるのかについて、制度や構造の観点から考察しました。
今回も引き続き、共産主義が全体主義になる理由を論じていきたいと思います。
共産主義が全体主義になる理由③ 一党独裁
前回の記事では「共産主義社会は、計画経済などによる失政をごまかして不満を押さえつけるために粛清や情報統制に走る」と述べました。
しかし、もし民主主義国家のように「為政者が悪いなら交代させられる」というシステムがあれば、圧政に対してもどこかでストップをかけることができます。
ところが共産主義は原則として「一党独裁」であり、共産党への対抗勢力がありません。やりたい放題の共産党を牽制してくれる勢力が存在しないわけです。
三権分立にもなっていないので、悪政を行う内閣や官僚組織(行政)を議会(立法)が抑えるということもありません。両方とも共産党員がやっているからです。
ライバル政党がいないので、議会があっても基本的に「出来レース」です。党のお偉いさんが決めた方針を讃えたり拍手したりする場でしかありません。
あくびしたら消されるかもしれないので、そういう意味では真剣かもしれませんが(^^;)
ちなみに、理想として目指すのは共産主義(あるいは社会主義)であるものの、一党独裁を否定するタイプの人たちもいます。
つまり選挙できちんと議席を獲得し、法律を通すことによって共産主義(社会主義)を実現しようとする立場です。これを「民主社会主義」などと呼ぶことがあります。
マルクス主義の主張の一部を放棄しているわけですが、一党独裁をなくすだけで確かにずいぶんソフトになる気はしますね。民主社会主義に分類される政党は世界中にあります。
もし彼らが多数派を形成して「私有財産軽視」「計画経済」といった政策をやれば社会がおかしくなるのはおそらく同じでしょう。
しかし本人たちが民主主義のプロセスを踏もうとしてくれているおかげで多くの国では多数派になれず、そうならずにすんでいます。
共産主義が全体主義になる理由④ 暴力の肯定
ここまでは、ある意味で共産主義社会の制度的・構造的な問題を扱ってきました。
ここからはどちらかと言うと思想的・心理的な問題です。
まず共産主義の重要な特徴として「暴力の肯定」が挙げられます。
マルクスは「労働者が暴力によって資本家を打倒する」「それが歴史の必然である」と説きました。革命を起こすための暴力を肯定したわけです。
正しい目的のためには、手段としての暴力は許される! こういうメッセージがマルクスの思想の中に入っています。
こうなると革命のときだけで済むわけがありません。革命が成就した後も、当局は都合の悪い人々を延々と暴力で粛清していきました。
共産主義社会にはもともと為政者を暴力へと誘う構造的問題があるわけですが、マルクスが暴力を認めていることによって「心理的リミッター」が外れてしまうのです。
あー、あいつら邪魔だなあ。
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正しい目的のための暴力は許される。
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殺せばいっか。
この暴力肯定思想には、マルクス本人の性格も関係しているような気がします。
もともとマルクス自身が怒りっぽく、誰とでもすぐケンカするような人物だったようです。
少しでも自分と意見が違うとその人を認めることができず、相手を罵倒しなくては気が済まないというタイプです。
またマルクスは定職に就かず経済的に困窮していたため、子供たちが次々と栄養失調や病気で亡くなるなど、その人生は不幸だったと言えるでしょう。
確かに不幸だったとは思いますが、彼の場合はハッキリ言って自分の責任です。ところがマルクスには、自分が招いた不幸を社会のせいにしているところがあると思えるのです。
マルクスは「社会が悪い」「資本家が悪い」などと責任転嫁して、自分の「嫉妬」「怒り」「破壊願望」「被害妄想」を正当化する理論をひねり出したのではないでしょうか。
暴力肯定思想も「こんな社会をぶっ壊してやりたい!」というマルクスの鬱屈した感情の表現でしょう。
しかしそれが現実世界にもたらした惨禍は、とても彼1人で責任を取れるようなものではありませんでした。
もしマルクスが「まともに働いて家族を養う」というタイプの人だったなら、共産主義という思想は出てこなかったかもしれません。
※現在働いていない人・働けない人を批判しているわけではありません。事情は人それぞれです。けれどもマルクスの場合、そのために生じる不都合を社会のせいにして理論化する執念が異常なのです。
共産主義が全体主義になる理由⑤ 無神論と唯物論
さて、共産主義が全体主義へと至る思想的・心理的要因として、僕としては共産主義が「無神論」「唯物論」であることを挙げたいと思います。
なぜか?
他の記事でも述べたことがありますが、共産主義は唯物論ですから、人間というのも単なる物質でありモノです。
唯物論なら理論的には人間も機械と一緒ですから、「役に立たないなら壊しても(殺しても)いい」ということになってしまうでしょう。
むしろ「体制にとって邪魔なモノはどんどん壊して(殺して)いく」という誘惑に駆られてもおかしくありません。
そして共産主義は無神論です。彼らによると神は存在しません。
西洋人のイメージする「神」とは「善とはなにか」「悪とは何か」を決める存在です。
したがって神がいないなら世界には善も悪もないことになります。何をしても悪や罪を犯したことにはなりません。
これが、共産主義がどこでも破壊・闘争・虐殺を招く理由でしょう。少なくとも心理的リミッターが解除されてしまう理由の1つとして重要だと思います。
もちろん、神や宗教を大事にしすぎて国がひどくなるケースもあります。歴史的にも「神」の名の下に多くの迫害や弾圧が起きました。今でも原理主義の問題などがあります。
ただ宗教の場合は「ひどくなるケースもある」ということにすぎません。歴史上ほとんどの国は何らかの宗教精神を柱にしていたのですから、いいことも悪いこともあるのは当然です。
しかし「共産主義は本質的に全体主義であり必然的に恐怖政治を生む」のです。悪いことしか起きないのです。
それはこれまで述べてきた通りです。ここは決定的な違いだと言えるでしょう。
ただ共産主義が全体主義に陥る主たる原因が「私有財産の否定」「計画経済」などの制度にあるのか、「無神論」「唯物論」という思想にあるのかは判別しがたいところもあります。
とは言え、これらが混然一体となってお互いを強化し合いながら、共産主義を「悪魔の思想」にしていることは確かです。
共産主義は現実に恐ろしい惨禍を招きました。この思想のせいで犠牲になった人は数千万人とも1億人とも言われています。
そしてそれが決して「たまたま」や「偶然」ではなく、思想の内容から必然的に導かれる結果であることも明らかです。
現実的にも理論的にも共産主義の恐ろしさはすでに明らかになっているのですから、僕たちはそれを完全に克服するよう努めてゆくしかありません。