今回はマルクス(Karl Marx / 1818-1883)を取り上げます。ドイツ(プロイセン)出身の哲学者・経済学者です。
この名前は、思想や哲学にあまり縁がない方でもよく聞くことがあるのではないでしょうか?
マルクス主義(共産主義)は一時期、世界の半分くらいを席巻しました。数十年前までは日本でも多くの人が信奉していて、直接的な影響力があったと思われます。
その後、共産主義に基づいて運営されていた旧ソ連や東ヨーロッパ諸国が次々と崩壊していったため、今は急激に衰退していると言っていいでしょう。
しかしマルクス主義の中にある「発想」「物の見方」「マインド」といったものは、まだまだ多くの人の潜在意識にガッチリこびりついていて、世論や政策に隠然たる力を及ぼしています。
その大元であるマルクスを知ることで、僕たちの中にある「マルクス的な発想」を逆照射して顧みることができるようになると思います。
「唯物論的弁証法」の成立
マルクスに影響した思想がいくつかあるので、そこから話を始めます。
まずはヘーゲルですね。
マルクスはヘーゲルの「弁証法」という思想を軸にして自分の哲学を築いています。マルクス主義の「骨格」と言っても過言ではないでしょう。
ヘーゲルの弁証法については以下の記事を参照。
↓↓↓↓↓↓
ヘーゲルの弁証法はあらゆるものを支配する原理でしたが、マルクスを考える場合には「社会を動かす弁証法」を考えておけば十分でしょう。
この場合の弁証法というのは、社会が発展していくときの「法則」であり次のようなものだと考えておけばよいと思います。
ある社会に潜在していた矛盾が露わになり、分裂や対立が起きる。やがてその分裂・対立は克服されて社会は再び統一される。そのとき、社会はより高次な段階へと進化している。
マルクスはこの弁証法の考え方に則り、「前の時代の矛盾が露わになり、そこから生じる人々の分裂や対立を克服することで、より高度な次の時代が訪れる」と考えたのです。
時間が流れ、歴史が展開してゆくと、最終的に「素晴らしい社会」「ユートピア」が実現する。これは歴史の必然であるという発想です。
さて、マルクスに影響を与えた次なる人物を挙げるならフォイエルバッハです。
フォイエルバッハについては以下の記事を参照。
↓↓↓↓↓↓
マルクスがフォイエルバッハから何を受け継いだかと言えば「唯物論」「無神論」です。
要するに「あの世とか天国とかはない」「神も存在しない」ということですね。
ヘーゲルの弁証法の根底には「神」がいました。社会もそうですが、あらゆる物事の根底にあってすべてを弁証法的に展開させる力が「神」「絶対精神」だったのです。
フォイエルバッハはこれを否定し、明確な無神論を説きました。そしてマルクスはこのフォイエルバッハの無神論を土台にして自身の思想を発展させたのです。
ヘーゲルの段階では「神による弁証法」だったものが、マルクスはフォイエルバッハの影響でそこから「神による」の部分を引き算したわけです。
マルクスは「ヘーゲルはせっかく弁証法の存在に気づいたのに、神を持ち出してそれを説明するというアホなことをした。弁証法はあくまで『この世』だけのメカニズムなのだ」と考えたのです。
これは唯物論に立脚した弁証法なので「唯物論的弁証法」と言えるでしょう。
「神による弁証法」 - 「神」 = 「唯物論的弁証法」
唯物論的弁証法とは、神や人間精神が主役だった弁証法を「モノ」を主役にして反転させたものですね。マルクスによれば、世界は「モノ」の論理で動くわけです。
ちなみにヘーゲルの弁証法がモノを軽視しているわけではなく、現実社会の分析も行っています。ただヘーゲルによればモノも神の顕われですから、すべてが神に帰着しているのは確かです。
先輩の社会主義者たち
マルクス主義へ影響を与えた人たちとしては、初期の社会主義者たちもいます。
イギリスのオーウェン、フランスのサン=シモンやフーリエといった19世紀の前半に活躍した人たちです。
当時はヨーロッパで資本主義が軌道に乗って社会の富が増大していった一方で、一般の人々の劣悪な労働環境などが問題になっていました。
彼らの共通点として挙げられるのは、まず「悲惨な状況に置かれた労働者たちをどうにかしてあげたい」という問題意識でしょう。
その意味で社会主義の出発点に人道主義的な動機があったことは事実だと思います。
そして労働者を救うためには無軌道な資本主義・自由主義を制限し、何らかのかたちで経済を「計画」「管理」すべきだという発想も共通しています。いわゆる「計画経済」です。
そして人によって程度の差はありますが、「財産の共同管理」(=私有財産への敵視)も社会主義の本質の1つとして重要です。
金持ちの資本家に自由に経済活動なんかさせたら、強欲に金を貯め込んで肥え太るわ、労働者をこき使うわでロクなことはない。
だから彼らから金を取り上げて政府が管理すべきだ。そして労働者にもきちんと金が行き渡るようにする。
それぞれの企業が「何を生産するか」「どのくらい生産するか」「いくらで売るか」を考えるよりも中央政府で一括して計画した方が効率的だろう。
……とまあ、こんな感じですね。
教科書的な説明ですが、「社会主義」とは「政府による計画や管理によって財産を平等にしようとする考え方」ということになるでしょう。
初期の社会主義者たちが持っていたこのような特徴をマルクスもしっかり継承しています。
ところで、初期の社会主義者たちの傾向として「宗教的な思想や経営者の善意・良心に頼るかたちで社会改革を進めようとする」ところがありました。
マルクスや彼の盟友エンゲルスは、こういう初期の社会主義を「非科学的である」として「空想的社会主義」と呼んで揶揄しました。
そして自分たちの思想を「科学的社会主義」と呼んで区別したのです。ここで「科学的」というのは「弁証法をきちんと踏まえている」「社会の必然的な流れを理解している」ということです。
マルクス主義のその後を知っている現代人からすれば「弁証法は科学だ」「マルクス主義が科学だ」というのは噴飯ものですが、本人たちは大真面目だったのですね。
「共産主義」と「社会主義」
ここで「社会主義」とか「共産主義」とかいう用語が出てきたので少し整理を。
もともと「共産主義」(コミュニズム)という言葉は昔からあったようです。要するに、個人の私有財産を認めずにみんなで平等に財産管理しながら暮らしていく仕組みです。
ただこの言葉には「非現実的」「空想的」「過激」といったネガティブなイメージがつきまとっていました。共産主義者というと「アブナイ奴」という感じだったわけです。
そんな中、19世紀の前半に「社会主義」(ソーシャリズム)という用語が出てくるようになり、これまで「共産主義者」と言われていた人たちが自分たちをそう呼称するようになります。
マイナスイメージの定着した言葉から逃げて、新鮮な言葉に飛びついたのですね。
ただ「共産主義」という言葉もなくなったわけではなく、その後も使われ続けたので、似たような2つの言葉が混在して今日に至っているということです。
マルクス自身はこの2つの用語をあまり区別していないと思いますが、彼の後継者たちが使い分けを始めます。
それによると、マルクスが目指した社会の最終段階が「共産主義」、そこへ至るまでの過渡的段階が「社会主義」です。今ではあまり聞かない気がしますが、昔はけっこうあった使い分けです。
さて現時点におけるこの2つの言葉の使われ方を見ていると、大体、以下のような傾向があるように思います。
一方の「社会主義」については「政府の計画・管理によって財産の平等を目指す考え方」という先ほどの定義で大体いいでしょう。
もう一方の「共産主義」は、社会主義の中でも特に徹底的なもの(要するにマルクスやその後継者たちの思想)を指すと考えればよいのではないでしょうか。
例えば現在「社会主義」と言うと、税金を高くして(そして金持ちから多く取る累進課税にして)その代わりに福祉を充実させる所得再配分型の制度を指すこともあります。北欧とかですね。
従来からのイメージからすれば随分と穏健ではありますが、これを「社会主義」にカウントする人もいるのです。
それに対して「共産主義」とは、それこそマルクスのように「私有財産制の廃止」「共産党による一党独裁」「暴力による資本家の打倒」といった主張を含むものです。
様々な用例を見ると、このように社会主義の中でも「徹底的なもの」「容赦仮借ないもの」を「共産主義」と呼ぶという理解が一番ピッタリな気がしますね。
学者さんの説明などでは、もっと細かい制度の違いを云々しているものも見かけますが、基本的には両者の「程度の違い」をさらに具体的に説明していると思えばよいでしょう。
とまあこんな感じでしょうか。とは言え、人によって違った使い方がなされているのが実情かもしれません。
僕としては、基本的には上で述べたような使い方をしていると思って下さい。
マルクスやその後継者が説いた思想を「共産主義」と言い、それとは異なる穏健な思想も含めたい場合には「社会主義」と言っていると思います。
そうなっていない箇所もあるかもしれませんが(笑)
以上で、マルクス主義への導入を終わります。
次回「マルクス(2)資本主義、崩壊せず」ではマルクスによる資本主義への批判を見ていきます。