前回「カント(1)『純粋理性批判』を10分解説」では、カントが人間の認識能力について研究したことをご紹介しました。
主著『純粋理性批判』の結論としては「人間の認識能力は五感を超えた世界には通用しない」ということでした。特に人間の「理性」という能力は、五感を超えた世界に適用すると誤作動を起こしてしまうというのです。
五感で感じられる現実世界については「感性」や「知性」という能力で十分理解できます。では「理性」は一体何のためにあるのかという話になってしまいます。
実は「理性」については、現実世界について何かを「認識」するというのがその本領ではないのです。「理性」が本領を発揮するのは、これからお話しするように「道徳」「倫理」の領域においてなのです。
今回はそのあたりを論じたカント第2の主著『実践理性批判』について解説したいと思います。
感情や欲望からの「自由」
前回の記事で論じたような、世界についての認識を取りまとめて統一的世界像をつくる役割をする理性を「理論理性」と言います。
それに対して、何が善であり何が悪かを判断して道徳に関わる理性を「実践理性」と呼びます。
2つは別のものではありません。同じものなのですが、それに2つの機能があって呼び方が違うわけです。
実践理性は「正しい意志」と言い換えてもよいものです。『実践理性批判』はこの実践理性(正しい意志)がどのように機能するのかを分析している本です。
では、『実践理性批判』の内容を概観してみましょう。
カントはまず、実践理性(正しい意志)は「自由」であるべきだと説きます。
カントによれば、人間の意志というものはそれ自体だけで何かを判断する力を持っています。意志以外の何かに影響されて判断することもありますが、その場合は意志は「自由」であるとは言えません。自分以外のものに左右されているからです。
ここで言う「意志以外の何か」というのがピンとこないかもしれません。
意志に影響を与えるものと言えば、まず「感情」が挙げられます。
例えば、何かを判断する時に好き嫌いの感情などに左右されるならば、その意志は感情の奴隷になっていて「自由」ではないとカントは言います。
ポイントは、たとえ崇高な感情であっても、それが感情である以上、それに左右されてはならないということです。愛とか慈悲、相手の幸福を願う心であってもダメなのです(==;)ちょっと人間味がないような気がしますが……。
また欲求・欲望・願望のようなものもNGです。ということは、人々の欲求を掻き立てて「アレが欲しい!」と思わせるような対象も当然ダメだということですね。
カネ・モノ・地位・異性など、この世に存在する何らかの対象を目的として行為するというのは、意志がそれに左右されることであり、当然ながら「自由」とは言えません。
ここまでをまとめると「人間の意志は、何らかの対象やそれが引き起こす感情・欲望・欲求に左右されているならば『自由』ではないし『道徳的』でもない」ということです。
「真似されても大丈夫か」を意識せよ
しかしそれならば、「感情・欲望・欲求に影響されずに意志決定する」とはどういうことなのでしょうか? そんな意志を想像することができるでしょうか?
カントが常に意識していたのは「道徳というのは『普遍的』『法則的』なものでなければならない」ということです。
感情とか欲求がなぜダメかと言えば、それは個人的なものであって千差万別だからです。感情・欲求・欲望については普遍的・法則的なものは見い出せないというのがカントの考えです。
道徳は人類共通であるべきです。「僕にとってはこれが正しいけど、君は違うだろうね」というのでは道徳は成立しません。だから道徳を考える際には、普遍性や法則性があるとは言えない感情・欲望・欲求から距離を置かねばならないというわけです。
正しい意志決定とは普遍性を備えた意志決定です!
「いや、だからそれってどんなのよ?」ってなりますよね(^^;)補足します。
人間はみんな自分なりのポリシーのようなものを持っています。「俺はこう生きる」みたいな考え方ですね。これをカント用語で「格律」などと言います。
カントが主張するのは「自分のポリシーを仮に人類全員が採用したとしても(普遍的なものになったとしても)大丈夫かをチェックしろ」「もしそれでも大丈夫ならそのポリシーに従った意志決定は正しい」ということです。
例えば「私は人を殺さない」というポリシーは人類の共有物にしても大丈夫ですね。むしろそうしないといけないでしょう。
反対に「私は人を殺す」というポリシーは人類の共有物にはできません。そのポリシーを採用すると社会が崩壊してしまいます。
このように「普遍的になっても大丈夫なポリシーかどうかを考える」「大丈夫ならそのポリシーに従う」というのがカントが説く正しい意志決定のあり方です。
そして自分のポリシーがこの普遍性という基準をクリアしていれば、それは「道徳法則」と見なされるのです。そのような道徳法則に従って生きることこそが人間にとっての「義務」です。
簡単に言ってしまえば「みんなに真似されても大丈夫な生き方をしろ」ということですね。
ちなみに感情・欲望・欲求に支配されるということは、その都度その都度の状況や環境に振り回されているということでもあります。
おカネを見ればそれが欲しくなり、異性を見ては欲望をそそられ……という具合ですね。
そういう人たちの意志決定は「もしおカネが欲しいなら真面目に働くべきだ」「もし異性にモテたいなら優しくなるべきだ」とか、「もし●●なら▽▽すべきだ」という感じで行われるとカントは言います。
こういうのは「もし●●なら」という条件の部分がなくなれば効力がなくなるような道徳にすぎません。
これに対して真の道徳法則は普遍的なものですから、状況にかかわらずいつでも通用するものです。だから「もし●●なら」という条件の部分はなく、心の内なる実践理性はただ端的に「▽▽せよ」と命じてくるというのです。
この端的に「▽▽せよ」と命じてくるかたちの命令を「定言命法」と言います。真の道徳法則はこの定言命法のかたちをとっているというのがカントの考えです。
これに対して条件つきの命令を「仮言命法」と言い、仮言命法のかたちをしている命令は真の道徳法則とは言えません。
自分で自分を律するなら「自由」である
さて、正しい意志というのは普遍的でなければなりません。
しかし、正しい意志というのは「自由」でないといけなかったはずでは? この話だと「普遍性」という枠をはめられて不自由な気がするけど……?
こういう疑問が湧くかもしれません。
しかしカントに言わせると、こういう疑問は無用のものなのです。
というのも「正しい意志(実践理性)とはもともと普遍的なもの」だからです。
もともと普遍的な実践理性が普遍的に働いているだけなのだからそれを「不自由」とは呼びません。むしろ、それ本来のあり方をしているので「自由」です。
正しい意志(実践理性)が自分で自分を律しているのであり、カントはこのことを「意志の自律」と名付けています。
これに対して、感情であれ何らかの欲望の対象であれ、そうしたものに意志が左右されるならそれは「意志の他律」です。
もともと実践理性は普遍的に判断するようにできているのですが、感情・欲望・欲求などの「不純物」に邪魔されることによって本来の働きができなくなることがあります。
だからこそ、そうした曇りを取り去って実践理性の本来の働きを阻害しないようにすべきだということですね。
カント倫理学のキモの部分をまとめると、大体次のような感じでしょう。
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感情や欲望に惑わされるな。
モノへの欲求にも惑わされるな。
道徳法則(普遍性のあるポリシー)にだけ従って生きよ。
我々の内なる実践理性は、定言命法のかたちをした道徳法則を命じてくる。
その厳粛な声に耳を傾けよ。
それが人間の「自由」でもあり「義務」でもあるのだ。
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こうまとめてみると、燃え盛る「煩悩」を丁寧に取り去って「仏性」を顕現させていく仏教に似ているようにも思えます。「仏性」を「実践理性」だと読み替えればそうですよね。
僕は大学生時代に初めてカントの本を読んで、彼の「自由」についての考え方に触れた時、それなりに新鮮に感じた記憶があります。
僕もそれまでは「自由」という言葉に「自分の感情や欲望に素直に生きること」というイメージを持っていたので、感情や欲望に振り回されるのは逆に「不自由」なのだという発想にはハッとさせられました。
それはそうですよね。
感情や欲望というものを自分の本質だと考えているから、それを規制してくる理性や道徳が自由の敵になるわけです。それと反対に、もし理性や道徳こそが自分の本質であるなら、それを邪魔してくる感情や欲望のほうが自由の敵です。
人間の本質を何だと考えるかによって、「自由」「不自由」の意味が正反対になるんですね。
こういう気づきを与えてくれたこともあり、カントの倫理学は僕にとって印象深いものです。
とは言え、やはりカント倫理学にもいろいろと問題点が指摘されていて、そうした批判の中には確かに急所を的確に突いているようなものもあります。
次回「カント(3)他人を救うウソもダメなの?」ではカント倫理学が抱える問題を取り上げてみたいと思います。