科学の方法と特徴(4)「科学らしさ」とはなにか

科学哲学

 

これまで「科学の方法と特徴」と題していくつか記事を書いてきました。今回はそのまとめとして「科学らしさ」とはなにかということについて考えてみたいと思います。

 

科学と非科学を分ける厳密な基準はない

 

以前書いた「科学の条件とは」という記事(全4回)では、〈いわゆる科学〉と〈いわゆる疑似科学〉とを厳密に分ける基準がないことを強調しました。

ここで〈疑似科学〉というのは、心霊現象・UFO現象・超能力現象などの研究のことです。

科学の条件とは(1)観察できるとはどういうことか
これから何回かに分けて、「科学とは何か」という問題について考えをまとめてみたいと思います。 というのも、この問題については僕もいろいろと思うところがあるからです。 科学の条件? 僕はいわゆる「死後の世界」や「霊魂」を信じていて、なぜそう思う...

 

科学(とされるもの)と疑似科学(とされるもの)を明確に区別する(線引きする)ための基準はありません。

どんな基準を示しても、科学とされるものがそれを満たせないことは多いし、疑似科学とされるものがそれを満たしていること(あるいは満たすようになる可能性)はあるからです。

 

しかし誤解があってはいけないと思うのですが、さすがの僕でも(明確な「線引き基準」がないからといって)ある程度の目安になるような「科学らしさを示す特徴」がないと言っているわけではないのです。

では、「科学の方法と特徴」を概観してきて、現時点において「科学らしさの特徴」についてどんなことが言えるでしょうか?

 

どうなっていれば〈科学〉っぽいのか?

 

例えば「ケプラーの3法則」というのがあります。「天体はどのように運行するのか」についてケプラーが発見した3つの法則です(内容は省略)。

このケプラーの3法則は星空の観測データから導き出されたものです。つまり「帰納法」で導き出されたものです。

観測によって得られた内容ですから、厳密に言うならば、「理論負荷性」や「過小決定」の問題を言い立てて「その観測は本当に証拠になっているのか」を疑うことができるのです。

 

理論負荷性とは「同じ実験結果や観測結果を前にしても、その研究者が事前にどんな理論や背景知識を前提しているかによって、そこから引き出す結論が異なることがある」ということでした。

観測でケプラーと同じ数値を得たからといって、そこからきれいに「ケプラーの3法則」を抽出できるとは限りません。まったく異なる背景知識を持っている人はまた別の結論を出すかもしれないのです。

 

しかし一方、ケプラーの3法則は別の理論であるニュートンの万有引力の法則や円運動の方程式から「演繹法」によって(=論理的・数学的計算によって)導き出すこともできるのです。

そうなると、ケプラーの3法則についての確証度はかなり上がってくると言えるでしょう。それ独自に天文観測から「帰納」されたケプラーの3法則がニュートン理論からも「演繹」されて二重に導かれているからです。

図にすると次のような感じでしょうか。

 

 

この例などから、次のように言えると思います。

 

科学の理想としては、複数の理論や法則がお互いに演繹的に(論理的に)結びついており、少なくともその一部は帰納法によって実験や観察の検証を受けることによって、全体として信頼性の高いシステムになっていることが望ましい。

※ただし、そうなっているからといって「科学が絶対に間違わない」ということにはならない。

理論や法則の1つひとつについては「理論負荷性」「過小決定」を言い立てることはできます。

しかし、それなりに実験や観察によって支えられていることは事実ですし、同じく実験や観察によって支えられている他の理論と論理的に結びついてもいるわけです。

 

以上のような特徴を一応「科学らしさの特徴」として認めてもよいのではないでしょうか。

私たちが現在の「天文学」を信用して「占星術」は怪しいと考える、あるいは、現在の「化学」を信用するが中世の「錬金術」は怪しいと考える理由はこのあたりにあるのかもしれません。

 

しかし繰り返しになりますが、これはあくまで「科学らしさ」の特徴です。「こうなっていると理想的だね」というモデルのようなものにすぎません。

現実の科学でもこれを満たしているものは少なく、もしかすると理論物理学のごく一部かもしれません。

要するに、これを満たしていないからといって「疑似科学」「偽科学」とは言えないわけです。したがって、当然ながら「科学」と「非科学」を峻別する線引き基準とはなり得ません。

疑似科学の否定論者たちが否定したいと思っている心霊現象・UFO現象・超能力現象については、現在のところ以上のような特徴があるとは言えないかもしれませんが、将来どうなるかは分からないでしょう。

やがて高度な理論体系が構築され、「科学らしく」なってくる可能性はあるわけです。

 

このように、「科学らしさの特徴」と「科学の線引き基準」(科学であるための必要条件)とは似て非なるものです。

ここで述べたような「科学らしさ」を理想として目指すのはいいのですが、それを「線引き基準」として誤用し、未知なるものの研究を「非科学」として断罪することは避けなければなりません。

そんな非生産的なことばかりしていると、科学そのものの研究に枠をはめて萎縮させ、科学の発展を大きく制約することになってしまうでしょう。

科学のために疑似科学批判をやっているつもりになっている人たちが一部いますが、彼らの行為があべこべに科学の発展を阻害するのではないかと僕は恐れています。