あなたもよく「パラダイム」とか「パラダイム・シフト」とかいう言葉を聞くことがあるのではないでしょうか?
今では様々なジャンルで使われていますが、もともとは「科学がどう営まれ、どう発展していくのか」ということを説明する用語でした。
今回はそのあたりのことを説明したいと思います。
これは「科学の方法と特徴(2)」でご説明した「理論負荷性」や「ホーリズム」とも関係が深い話です。
パラダイム・シフト ~天文学の事例~
以前の記事で、「天王星の軌道についての疑問が海王星の発見につながった」というエピソードを紹介しました。
それを例にしてみましょう。
18世紀、天王星の軌道がニュートン力学の計算からズレているらしいことが分かりました。
そのズレを説明するために「天王星の外側に未知の惑星があって、その惑星の引力によって天王星が引っ張られているのではないか」と考えたわけです。
そしてその考えが正しかったことはすぐに判明しました。そのとき、新たに発見されたのが海王星です。
こういうその場しのぎのような解決法を「アド・ホックな解決」というのでした。
天王星と海王星については、アド・ホックな解決がたまたま正解だった事例と言えるでしょう。
天王星の軌道がニュートン力学の予測とズレているからといって、簡単に「ニュートン力学は間違いがあるのだ。ニュートン力学を捨て去ろう!」となるかといえば、普通はそうはなりません。
ニュートン力学というのは他の多くの理論や観測事実の基礎になっている大元の理論です。
ある時代の科学の中心に君臨する、こうした大元の理論を「パラダイム」と言います(※)。
パソコンで例えるなら、個々のアプリケーションソフトではなく、パソコンを動かす基本ソフトであるOSのようなものですね。
※実際には「パラダイム」の定義はもう少し複雑ですが、ややこしいのでここでは「理論」とほぼ同じ意味として使います。
さて、パラダイムにとって少しばかり不都合な事実があるからと言って、パラダイムをいじるとなると、あちこちに影響が及んで大変です。
だからこそ、この場合でも「天王星の外側に未知の惑星がある」という〈小さな理論〉を導入するというアド・ホックな解決をしたわけです。
ここでポイントになるのは、アドホックな解決をすることによって基礎的・普遍的・中心的なパラダイムは無傷で守られるということです。
この事例の場合は、実際に海王星が発見されてアド・ホックな解決が正しいことがすぐに分かったので、それでよかった。めでたしめでたしですね。
しかしながら、そうはうまくいかないこともあるんです。
天王星/海王星は18世紀の話でしたが、19世紀に新たな問題が出てきました。
今度は「水星の軌道」の問題です。
よくよく調べてみると、水星の軌道もニュートン力学の計算からはズレていることが分かってきました。
昔の成功体験がありましたから、天文学界は今度もアド・ホックな解決でイケると考えました。
その解決法とは「水星の内側に未知の惑星があって、その引力で水星の軌道が変わる」というものです。
そして気の早いことに、まだ発見されていないその惑星に「バルカン」という名前までつけてしまいました(^^;)。
ところが、探せど探せどバルカンは見つかりません……。
結局、ニュートン力学の範囲内では水星の軌道をうまく説明できず、20世紀に登場したアインシュタインの一般相対性理論を使えばそれについて説明可能であることが分かりました。
こちらは、アドホックな解決ではうまく対応できず、パラダイムの修正・廃棄にまで至ってしまった事例ですね。
ニュートン力学から相対性理論へという風に、科学のパラダイムが大変動することを「パラダイム・シフト」と言います。
この「パラダイム」も「パラダイム・シフト」もアメリカの科学史家トマス・クーンが提唱した概念です。
どちらの言葉も有名になりましたね。科学に限らずいろんな分野で、そのときの常識を「パラダイム」と呼び、それを打ち破ることを「パラダイム・シフト」と呼んでいるように思います。
まず「水星の軌道がおかしい」という観測事実があったわけですが、「惑星バルカンのある・なし」という〈小さな理論〉をいじるだけでは対処できず、ニュートン力学というパラダイムの修正(=パラダイム・シフト)にまで発展したということです。
※もちろん、これだけが原因でニュートン力学の修正が起こったわけではありません。他にもいくつかニュートン力学で説明困難な事実があり、それらも関係しています。
パラダイムシフトはどう起きるのか?
ではここで、クーンが説明した「パラダイム・シフトが起きる仕組み」をまとめておきましょう。
科学者集団はその時代・地域で受け入れられているパラダイムのもとで研究している。そうした研究をクーンは「通常科学」と呼ぶ。
ニュートンが登場した17世紀から、彼の理論が中心にあった20世紀初頭までの科学は、ニュートン力学のパラダイムに則った「通常科学」の時代というわけ。
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通常科学が行われている間にも、実はそのパラダイムの理論では説明しづらい変則的な事例はいくつも存在する。それを「アノマリ」と言う。
ただ、それらのアノマリ(変則事例)はアド・ホックに解決されたり、些細な問題として放置されたりするのが普通。
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ところが、アノマリの数が多くなってくると、アド・ホックな解決を続けることに無理を感じる人が増え、自分たちを縛っているパラダイム自体への疑いが生じるようになる。この状態が通常科学の「危機」。
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そしてある時、多くのアノマリをよりうまく説明できるまったく別のパラダイムへの移行が起きる。これこそが「パラダイム・シフト」あるいは「科学革命」。
天動説から地動説へ移行した、ニュートン力学から相対性理論へ移行した……例えばこれらがパラダイム・シフトの例です。
パラダイム論への反応
さて、クーンのパラダイム論ですが、様々な反響を呼びました。実はその中にはネガティブな反応も多くあったのです。
別にそれほど変なことを言っているとも思えないのに、何が引っ掛かったのでしょう?
クーンのパラダイム論がネガティブに受け止められた原因は、「科学的発展はかなり主観的な要因で起きる」とクーンが主張していると思われた点にあると思います。
例えばアノマリが蓄積されていても、それを深刻に受け止めるか、それともスルーするかには研究者たちの主観的な要因が関係するでしょう。
若い人が新たな発想で解決しようとしても、頭の古い先生世代がそれを封じてしまうということもあるかもしれません。
科学理論とは言っても論理や観察だけで理性的に優劣を決めているのではなく、研究者集団の社会的要因(人数や力関係)や心理的要因に大きく左右されているというわけです。
少し極端な言い方をすれば、研究者たちの主観によって決まるというなら「パラダイムなんてどれでもいい」ということにもなりかねません。
科学の理論というのは、客観的世界の真実を表していると普通は考えられています。それなのに、パラダイムはまるで好き嫌いの問題であってどれを選択してもいいだなんて……
クーンの考え方はこのように解釈されることがあったのです。
このあたりのことが「科学とは客観的な営みであり、研究者の主観とは関係なく証拠に基づいて発展していく」と強調したい人たちのカンに触ったのでしょう。
ですが、クーンは「アノマリ(変則事例)の劇的な解決として科学革命が起きる」と言っているわけですから、少なくともアノマリを解決する能力については新パラダイムの方が優れていると考えていたはずです。
また、異なるパラダイムや理論を比較する際の合理的基準として、それらの「正確さ」「無矛盾性」「単純性」などいくつかの項目を挙げているので、パラダイム間の優劣がまったくないと考えていたとは思えません。
確かに科学というのは、証拠や根拠に基づいて客観的に発展させていくものです。
しかし一方、科学をやるのは人間です。どちらが優れたパラダイムなのか、ハッキリと決着のつかない間は主観も入ってくるはずです。
結局、クーンと反対派との議論は、科学の営みにおける客観的要因と主観的要因のどちらの側面を強調するのかで対立していたように僕には思えます。
本質的な部分でお互いにまったく異なることを言っていたようには思えません(実際、反対派のラカトシュという学者の考えもクーンとよく似ています)。
実際の意見の相違がどの程度のものだったのかは疑問で、「言い方」「強調点の置き方」にすぎないものが感情的な対立にまで発展しただけかもしれないと思っています。
とは言え、科学的発展においては客観的な側面ばかりが語られていたのに、そこに主観的な要因があることを指摘し、科学にも心理学的・社会学的な側面が多分にあることを主張したクーンの業績は重要なものだったと言うべきでしょう。
次回「科学の方法と特徴(4)「科学らしさ」とは何か」では、結局、僕たちが「科学らしさ」と感じているものの正体は何なのかということを考えてみます。