以前「科学の基準とは」と題して全4回の記事を書きました。
科学哲学の専門家たちは「どんな特徴があれば〈科学〉と呼んでよいのか」「非科学との違いは何か」ということをいろいろと議論しているので、記事ではその一部を紹介しました。
今回はそれとも関連するのですが、「科学的方法とはどういうものか」「科学理論の特徴とはなにか」についての議論を紹介します。
ただ「科学的方法」「科学理論」とは言っていますが、これから紹介するのは、狭い意味での「科学」に限らず論理的な研究ならば何でも関係してくるような話です。
その意味でどこまでが「科学」だけに特有の話であるのかは曖昧ですが、知っておくと参考になるのではないかと思います。
演繹法
では「科学的方法」についての話から。
まずは「演繹法」です。
この「演繹」とは、「1つあるいは複数の前提から、論理法則や計算に基づいて、必然的な結論を導く推理」のことです。
よく使われる(?)「三段論法」というのが典型的です。
前提1:「人間はみんな死ぬ」
前提2:「ソクラテスは人間である」
したがって……
結論:「ソクラテスも死ぬ」
……というやつですね。
※ちなみに「人間はみんな死ぬ」「ソクラテスは人間である」「ソクラテスも死ぬ」というような、判断の内容を言葉(や式)で表現したものを「命題」と言います。
この「三段論法」もそうですが、演繹法というのはこのように「すでにある前提から論理法則に従って結論を導き出すこと」です。
世界には「論理法則」というものがあって、そこに内容として正しい命題を当てはめると必ず正しい結論を弾き出してくれます。
この「命題が内容として正しい」ことを「真である」(true)と言い、「内容として間違っている」ことを「偽である」(false)と言います。
例えば「ソクラテスは人間である」というのは「真」の命題で、「ソクラテスは犬である」は「偽」の命題ですね。
また、前提となる命題が真であれば結論として必ず真なる命題を導くような論理法則を「妥当である」(valid)と表現します。
前提の命題が「偽」であれば、「妥当」な推論法則に従っていても、結論が「偽」になる場合もあります。例えば……
「人間は死なない」→「ソクラテスは人間である」→「ソクラテスは死なない」
これは論理法則としては「妥当」なのに、前提が「偽」であるために結論も「偽」になっている例です。
また、前提の命題や結論が内容的に「真」でも、推論法則が「妥当」とは言えないこともあります。例えば……
「ソクラテスは死ぬ」→「人間も死ぬ」→「ソクラテスは人間である」。
前提も結論もたまたま「真」ですが、この流れでこの結論は出てきませんよね。命題は「真」なのに論理法則が「妥当」ではない例です。
このように、命題の内容における真偽(true / false)と、論理法則の妥当・非妥当(valid / invald)は別々のものです。
さて哲学や論理学の教科書では演繹法についてよく「一般的・普遍的な前提から、個別的・特殊的な結論を導く推論」と説明されています。
確かに上の例でも、「人間はみんな死ぬ」という一般的な話から始まって、「ソクラテスも死ぬ」という個別の話に進んでいるので、「一般から個別へ」という流れこそが演繹法の特徴であるようにも思えます。
しかし「妥当な論理法則による推理」というのが演繹法の本質だとすれば、別に「一般から個別へ」という流れの推論だけが演繹法とは限らないでしょう。
例えば図形を扱う幾何学だと、円周の計算式によって「円の直径5センチ」から「円周は31.4センチ」を導き出すことがあります。
このように、何かを前提すると「論理的に」あるいは「必然的に」これこれの結論が出てくるというタイプの議論はやはり演繹法だと言えます。
必ずしも「一般的な前提から個別的な結論へ」というかたちになっていなくても演繹法は演繹法です。
この演繹法は科学的探究には欠かせません。
例えば、ニュートンは「ケプラーの第3法則」(内容は割愛)および「円運動の方程式」から計算によって「万有引力の法則」を導くことができました。これは演繹法の典型例でしょう。
しかし、純粋な論理学や数学なら計算が合っていればそれでオーケーですが、自然を相手にする科学だとそうはいきません。
例えば、ケプラーの第3法則から「妥当」な計算によってニュートンの万有引力の法則を導いたとしても、もしケプラーの第3法則そのものが内容的に「偽」であったとすれば、演繹された万有引力の法則も偽である可能性が高い……。
上で説明した「妥当だけれど真ではない」というケースですね。
演繹は大事ですが、それだけでは科学は成り立ちません。演繹によっていろいろな定理や法則や理論がお互いにつながっていますが、その中の少なくとも一部は自然の「観察」によって得られたものでなければいけないのです。
ケプラーの第3法則そのものは、天体の観測によって導き出されたものですから信頼性が高いわけです。
帰納法
科学的方法について、演繹法と並ぶもう1つの柱が「帰納法」です。
帰納法とは「個別的・特殊的な事例から出発して、一般的・普遍的な法則を導く推論」のことです。
個別的な事例から出発するということは「目の前に展開される自然現象から出発する」ということです。
多分、帰納法が「個別から一般へ」という流れなので、これと対比させたくて演繹法が「一般から個別へ」と言われるのではないでしょうか。
個別的な事例から出発するという意味では帰納法は意味が広く、いくつかの種類があります。
最も単純な形としては、100羽のカラスを観察して、それがすべて黒かったという事実から、「すべてのカラスは黒い」という結論を出すというタイプの議論があります。これを「枚挙的帰納法」と言います。
同様に、石を落とす実験を何度やっても「石が落ちる距離が時間の2乗に比例する」なら、それは一般的な自然法則だと結論することができるでしょう。
演繹法と違って、世界や自然を実際に観察したり実験したりしていることがポイントです。
頭の中で演繹するだけでは科学は成り立たないと言いましたが、それを補うのがこの帰納法であるわけです。
枚挙的帰納法だけではなく、観察や実験から一般的な結論を導くタイプの議論は、広い意味ですべて帰納法に含まれます。
ケプラーは天体運動に関する有名な法則を3つ発見していますが、それらは観測のデータを整理することから発見されたので、この経緯は帰納法ですね。
さてこの帰納法ですが、哲学的には「どうして帰納法を信用していいのか」という大きな議論があって、「帰納の正当化問題」などと呼ばれています。
これは少し長くなるので、別記事にしたいと思います。
仮説演繹法
このように科学の方法論として大きくは演繹法と帰納法があるわけですが、実際にはこれらは混然一体となって使われています。
例えば、「ある仮説を調べたいのだが、それを直接に検証することが難しい」というケースがあります。その際に次のような方法があります。
①その仮説から「仮説が正しいならそうなるはずだ」という何らかの予測を「演繹」する。
②その予測が正しいかを「帰納」によって(=実験や観察によって)確かめる。
これは「仮説演繹法」と呼ばれています。
仮説そのものを直接に検証することが難しい場合、その仮説から(こちらは検証可能な)予測を演繹し、それを帰納によって確かめます。
それが予測通りになったら、その予測を引き出した最初の仮説はおそらく正しいと考えてよいというわけです。
仮説演繹法の例としていろんな本で挙げられている事例があるのでご紹介します。
19世紀、ウィーンで活躍した医者ゼンメルヴァイスの話です。彼は「医者はお産の前に手を消毒すべきだ」と説き、「院内感染予防の父」と呼ばれている人物です。
彼はあるとき、産婆さんが立ち会っていた病棟のお産と、医師だけで直接に赤ちゃんを取り上げていた病棟のお産とを比べると、後者の方が10倍も産褥熱の発生率が高いことを疑問に思いました。
医師の方はしょっちゅう死体に触れているため、ゼンメルヴァイスは「死体に含まれる何らかの物質が(医師の手を介して)産褥熱の原因になるのではないか」という仮説を立てました。
しかし当時の技術では、「産褥熱の原因になるような物質」を直接に突き止めることができませんでした。つまり、仮説を直接に検証できませんでした。
そこで、①その仮説に基づいて「医師がお産の前に手を消毒すれば産褥熱が減るのではないか」という予測を立てました(ここは演繹法)。
そして、②医師がお産の前に手洗いを実施すると産褥熱の発生率が下がることが観察されました(ここは帰納法)。
こうして彼の立てたもともとの仮説が正しいであろうことが実証されました。これが仮説演繹法です。
この仮説演繹法などが典型的ですが、現実の研究では演繹も帰納も混然一体となっていて、科学者たちも「今、自分は演繹法をやっている」「さっきは帰納法だった」とか、いちいち意識してはいないと思います。
ただ現実には区別しにくくても、理論的な考え方としては2つの大きな柱があるということを知っておくことは、科学や哲学の特徴を押さえる上で大切かもしれません。
「科学の方法と特徴(2)理論負荷性とホーリズム」では、この帰納法の問題から出発して、科学理論の特徴について話を広げられればと思います。