突然ですが「心」って何でしょうか?
このテーマを総合的に考えようとすると、古今東西の哲学者や思想家たちがいろいろなことを言っていますので、とても1つの記事には収まりません。
ですので、ここでは「心とは脳が生み出しているものなのか?」という論点に絞って話をしてみたいと思います。
これは現代人にとっての最重要論点だと思うからです。
この「脳が心を生み出す」という考え方は着実に僕たちの「常識」として浸透しつつあります。
すこし本屋をのぞいてみれば「脳はいかにして心を生むのか」というテーマの本はすぐに見つかるでしょう。
テレビ番組や雑誌などでもよく出てきます。「心とは何か!?」という感じの取り上げ方の番組を見てみたら、ほとんど脳の話だったりとか。
この「脳はいかにして心を生むのか」という切り口だと、問題は「いかにして」という部分であって、脳が心を生むということ自体は大前提の事実になっているかのようです。
でも「いかにして」を最初に持ってくるやり方そのものが、「本当に脳が心を生んでいるのか」という疑問を封じる役割をしてしまっていると僕は感じます。
ともあれ、こんな感じで「脳が心を生む」という認識はいつの間にか人々の意識に定着しつつあるように思うのです。
死んで心が消えるなら「道徳」など無意味
さて、脳が心を生んでいるのだとすると、当然ながら「人間が死んで脳がなくなってしまえば心も一緒に消滅する」ということになります。
宗教や昔話で言われる、死後も残るような「霊魂」「霊」「魂」というものは否定されます。
他の記事でも言っていますが、僕の考えは「脳が心を生んでいるのではない」というものです。
心は脳からは独立したものであって、肉体や脳がなくなっても消滅しません。つまり心は「霊」あるいは「魂」として人間の死後も残ります。
脳は物質です。脳内で起きているのは物理的な現象です。ここから心が生じているのだとすると、一体それのどこが尊いのでしょう?
僕たちは、石が下に落ちるとか、パチンコ玉が釘に当たるとか、そういう単なる物理現象を尊いとは考えません。脳内の物理現象も本質的にはこれと変わらないのです。どこにも尊い要素はありません。
でも僕たちは「人間の心は尊いものだ」ということを前提として社会を営んでいます。法律もそうなっています。人の身体を傷つけることだけじゃなく、心を傷つけることも罪になりますよね。
もし心というものが、単なる「物理現象」もしくは「物理現象に付随して起きるだけの何か」にすぎないのなら、どうしてそれが尊重すべきものであるのか、さっぱり説明がつかないのです。
脳が心を生んでいるなら、死んで肉体が焼かれてしまえばそれで人間は完全消滅です。
あなたがどんな生き方をしようと、善人として生きようと悪人として生きようと、死ねば平等に消滅してそれでオシマイ……。
さてこれが真実だとしたら、僕たちが道徳的に生きる必要などありません。同じく消滅するなら善悪なんか無視して好き勝手に生きたほうがいいに決まっています。
人間が「死ねばオシマイ」という存在なら、道徳や倫理など無意味になるのです。
霊魂否定論を完全論破する
しかしあえて断言します。
この「心は脳とは独立して活動できる」ということはすでに「証明」されています。
すでに「証明」されているのです。
「仮説」「意見」「主張」ではなく「事実」です。
19世紀以降の心霊研究や20世紀以降の臨死体験研究によって、数多くの証拠がすでに蓄積されています。これはフェアに見て「証明」と判定してよいレベルに達しているのです。
もちろん、あれやこれやの理由をつけて認めようとしない「唯物論者」の皆さんがおられることは僕も知っています。
やれ「脳の起こす幻覚だ」とか、やれ「日常的な錯覚だ」とか。霊体験によって得た情報が事実だったと判明しても「それはあくまで偶然だ」とか……。
しかしながら、これらの議論はほとんどすべて破綻しています。
僕の著書『現代哲学で考えた「死」と「魂」:新しい「心の哲学」』は、唯物論者によるこれらの反論を完全論破するものです。
Kindle本です。↓↓↓↓↓↓↓
あくまで信じないと決意している人は何でも疑えるでしょう。目の前にリンゴを出されても、リンゴの存在を認めたくなければ「私は今、幻覚を見ているのだ」と言えばいいんですよ(笑)
要は「そこまでして疑いますか?」「そんなレベルの疑い方をしていいなら、科学だろうが常識だろうが成り立ちませんよ」ということです。
唯物論者の反論は実はほとんどこのたぐいなのです。要するに、あくまで認めないための「いちゃもん」です。
この辺りの事情を『現代哲学で考えた「死」と「魂」』ではかなり詳しく論じています。唯物論者たちの「思考パターンのおかしさ」を徹底して分析しています。
一方、臨死体験の事例をまとめるなどして「死後の世界」の存在を肯定するような本もけっこう出ています。
最近では東大の先生でもそういう本を書く人がいます。非常にいいことです。
そういう本は僕もたくさん参照させてもらいましたし、とてもとても重要なものだと思います。
でも物足りないと思う点もあるんです。
こういう本では、唯物論者の反論に対して再反論をしていることもあるのですが、それが場当たり的でまとまっていないのです。
それに対して僕の本では、よくある唯物論者の反論パターンを整理して、すべて列挙して、その1つひとつについて丁寧かつ論理的な再反論をしています。
さらに、彼らの反論がどういう思考回路から生じているのかについても心理分析をする……。ここまで徹底しているものは他にありません。
世間によくある霊の肯定本はこういうことができていません。だから実際には霊の証明になるような事例を紹介していても、何となく「学問的」じゃないのです。
多くは「こんな驚くべき事例があるんだ! だから私は信じる!」というレベルなんですね。「これは証明なのだ」「これは事実なのだ」と断言するほどの学問的な説得力がないわけです。
これに対して『現代哲学で考えた「死」と「魂」』は論理的・哲学的な分析がメインです。この意味で類書のない本に仕上がっています。
人間の尊厳を貶める霊魂否定論は捨て去るべき
さて話が戻りますが、人間が「死んで焼かれればオシマイ」の物質なら、ハッキリ言って石ころや生ゴミと価値は変わりません。
この「死ねばオシマイ」なんていう考えを持っている人は、少なくとも潜在意識では「自分も他人もゴミだ」「善人も悪人も同じだ」と思っているわけです(潜在意識って怖いですよ)。
そういう価値観は確実にあなたの人生に悪影響を及ぼしますし、本当の幸福感にはつながらないでしょう。いち早くオサラバするに限ります。
あなたがもともと死後にも残る心(=霊)を信じているなら、この本でその信念を確実なものにして下さい。というか、信念ではなく「事実」になるでしょう。
もしあなたが唯物論者なら、この本で考えを改めて下さい。「どんな証拠があろうと霊なんか信じないぞ!」と最初から決意している人(唯物論を信仰している人)でなければそうなるはずです。
類似本はありません。
これを読むことは「人間は数十年で消滅するはかない存在ではない」「人間にはモノ以上の価値がある」ということを証拠に基づいて論理的に確信できる唯一の機会ではないかと思います。
あなたの人生が豊かで意義深いものになることを祈っています。