僕は「難しい哲学を易しい言葉で」をポリシーにしながら、哲学の講義・普及活動をしています。
以前の記事でも、わざと哲学を難しく語る学者・研究者を批判しました。

一方、最近の書店には『●分でわかる哲学』とか『サルでもわかる哲学』とか、そんなタイトルの本がけっこうあって、一見、簡易な言葉で哲学を解説しているように見えます。
アカデミズムの世界(学界)では不必要な難しさが蔓延する一方、一般向きには簡単さを売りにした哲学本が溢れるようになっているわけです。
僕としては、これらの書籍(以下、簡易本と呼びます)は確かに「易しい言葉」で説明してはいるものの、「きちんとした哲学」の解説にはなっていないと考えています。
もちろん簡易本もとっかかりとしてはいいですし、インスタントに情報だけ欲しいというニーズもあるので、それがあっても悪いとは言いません。
けれども、以下に述べるような理由により、簡易本を読むだけでは本格的な哲学の学びにはまったく足りないと言えるのです。
歴史的に重要な哲学テーマを軽視する簡易本
僕が思うに、哲学とは「人間にとって根源的な問題を(いろいろな前提や偏見から離れて)一から合理的に思索しようとする試み」です。
根源的な問題とは、例えば……。
- 人間とは何か。
- 善とは何か、悪とは何か。
- 死とは何か。
- 正しさとは何か。
- 徳があるとはどういうことか。
- 心の本質とは。
- 社会(国家)と個人の関係とは。
こういう普遍的で変わらないテーマについてじっくり思索を巡らせるのが哲学の核心です。
当然ながら、哲学の歴史(哲学史)は、主にこれらのテーマを巡って展開してきました。
ところが……!
世間のほとんどの簡易本では、これらのテーマがかなりスルーされています。
代わりに、AI問題やら、環境問題やら、ジェンダーやら、最近流行りのトピックがあれもこれもと盛り込まれています。
これらも大事なのは分かりますが、まずは数千年にわたって思索されてきた根源的テーマを、それにふさわしい比重で取り上げるのがスジというものでしょう。
それぞれのテーマが哲学史において占めてきた「本当の比重」というのが無視されていて、バランスが滅茶苦茶なんですね。
ストーリー性のない「ぶつ切れの情報」では智慧にならない
さらに簡易本は、哲学者たちの置かれた時代などの背景事情をカットしていて、彼らがなぜその問題と格闘したのか、そのストーリー(物語)も伝わってきません。
哲学とは、哲学者たちの立場に身を置いて、彼らになったつもりで思索を追体験することによって智慧(×知識 ×情報)を獲得していく営みです。
ストーリーがなければ、追体験もできません。したがって智慧も身に付かないのです。
哲学の智慧とは、①人生にとって普遍的・根源的テーマについて、②哲学者たちのストーリーを追体験しながら、真剣に考察することによって、ようやく得られるものなのです。
かつて哲学者ヘーゲルは「哲学を学ぶには、哲学史を学ばねばならない」と言いましたが、その通りだと思います。
だからこそ、哲学をきちんと学ぶためには、予備知識も要りませんし、特別に優秀な頭脳も要りませんが、ほんの少しの根気だけは要るわけですね。
情報もインスタントの時代で、何でもWikipediaその他で調べられますが、精神や人格を高める哲学の智慧は、そういった「情報」とはまったく違ったものなのです。
哲学は「学問」! 根気は要る
というわけで、僕は「易しい言葉で伝えること」にこだわっていますが、それと同じくらい「歴史的に尊重されてきた哲学を正しい比重で伝えること」にもこだわっています。
歴史上、重きを置かれてきた正統な哲学を、バランスよくお伝えするということです。
そうでないものを易しい言葉で説明しても、意味がないですから。
こう考えてくると、『●分でわかる』『サルでもわかる』のような入門書では、とても哲学の智慧を獲得することはできないことが分かります。
何と言っても、哲学は〈学問〉なのです。物理〈学〉や政治〈学〉と同じです。
ある程度の労力がかかることは覚悟して、じっくり腰を据えて取り組まなければ、身につかないのは当然です。
それならば、大学の哲学科などで基礎からみっちり勉強するのはどうか?
しかしながら、これはこれで大きな問題があるのです。
次回はその辺の話を僕の体験談を交えながらお伝えしたいと思います。(了)

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