前回、学者たちの見栄と保身のせいで、哲学が無駄に難解になり、一般読者に近づきにくいものになっているという話をしました。

そのことが分かる、僕の体験談がありますので、今回はその話を……。
「カント辞典」なるものがある‼
僕は大学と大学院で哲学者カントの思想を学んでいたのですが、その際には『カント辞典』なるものを利用していました。
カントの哲学用語が難しすぎるので、用語を引くと意味と解説が載っているという、カントに特化した辞典があるのです(^^;)
もちろん(僕の先生も含めて)日本の一流のカント学者たちが結集して作ったものです。
さて、当時の僕がカントを読んでいて分からない言葉に出くわしたので、カント辞典を引いてみると……。
やっぱり分からないのです。
というのも、その用語の解説のために、カントが書いた元の文章を使っているからです。
カントの文章や用語が分からないから辞典を引いているのに、その元の文章を載せられても分かるわけがない!(笑)
これもハッキリ言えば「独自の解説をして、もし間違ったら評判が落ちる」という保身に他なりません。
だから、カントの元の文章をふんだんに使って、自分独自の解説(責任が発生する部分)は最小限に抑えるのです。
他にも、こんなことが多かったのも覚えています。
Aという用語を引くと、そこに「Bという用語を参照しろ」と書いてある。そこでBを引くと、今度は「Aという用語を参照しろ」と書いてある……。
まるで「おにぎり」の意味を知りたくて辞書を引いたら「おむすびのことだ」と書いてあり、「おむすび」を引くと「おにぎりだ」と書いてあるようなものです。
これでは、おにぎりとおむすびの無限ループで、どちらの意味も分からないままです。言葉の指す対象に辿り着けません。
同じ用語の間で循環させられることもあれば、次々と参照項目を指定されてたくさんの用語を調べているうちに、「そもそも何を調べてたんだっけ?」となることもしばしばでした。
諸先輩方に文句を言うようで心苦しいのですが、カント研究者たちに「自分の言葉で説明する」という潔い姿勢があれば、こうはならないでしょう。
このように、学者たちの見栄と保身が哲学を無駄に難しくし、一般社会から断絶させている原因の1つなのです。
わざと難しく言うのはダメ
もちろん哲学の内容そのものが高尚で難しい場合もあります。
その場合は仕方ありません。内容を歪めてまで易しく書くというのも問題です。
例えば科学の場合、「アインシュタインの一般相対性理論を、素人のオレにも分かりやすく解説しろ。できないなら学者たちが悪い」と言われても困るでしょう。
一般相対性理論をきちんと理解するには、力学や電磁気学はもちろん、テンソルやら共変微分やら難しい数学も必要になります。
これについては勉強していただくしかありません。
哲学についても似たようなことはあります。
それなりに複雑な議論の蓄積があるので、必ずしも「文系だから易しく言えるはず」という場合だけではないでしょう。
だから学ぼうとする人の努力が要るものもあります。
しかしそれでも「本当は簡単に言えることを、見栄や保身のためにわざと難しく言う」という態度はよくありません。
簡単なものは簡単に伝えるべきですし、難しい内容でも、何とか分かりやすく伝えられないかと努力するのが筋です。
ドイツ哲学の研究者の中には、カントやヘーゲルの難しい文章に影響を受けて、自分もそれに近い文章を書いてしまっている人もいます。
僕としては、歴史の検証に耐えた正統なる哲学を「できる限り易しい言葉で伝えたい」と考えて研鑽しているつもりです。
哲学にいやしくも「解説」なる作業がありえるとすれば、「歪めず正しく伝える」と「できる限り易しく伝える」を両立させる力が必要でしょう。
今後とも、その困難な作業にチャレンジしていきたいと思います。
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