前回記事ではルソーが文明に対する批判を行い、文明が発生する以前の自然人を理想としたことを見ました。
とは言え、ルソーも今さら原始時代に戻れると思っていたわけではなく、文明とともに生じた悪しき制度(私有財産や身分制など)の弊害を最小化することを目指しました。
そしてルソーの社会契約説もこういう視点から構想されたものなのです。
復習になりますが、社会契約説とは「国家は契約によって生まれるもの」と考える説です。
そして「国家はこういう趣旨の契約によって誕生したのだから、そこから外れている今の状況は改めるべきである」という主張につなげるわけですね。
そしてルソーの場合、社会契約とは「文明が発祥する以前を理想としながら新しい社会を構築すること」だったのです。
私有財産への扱い ロックとルソーの違い
ロックとの決定的な違いとして重要なのはやはり「私有財産」についての考え方でしょう。
ロックにとって社会契約とは「自然状態においてすでにある私有財産を確定・保障するもの」という意味合いがありました。
一方、ルソーにとって私有財産はむしろ人間の堕落につながったものであり、社会契約によって守るものではなくむしろ克服すべきものだったのです。
ルソーも自然状態の後期に当たる農耕状態では私有財産や貧富の差があると考えました。
ロックであればそれらの財産をそのまま確定させるわけですが、ルソーはさらに昔の未開状態(真の自然状態)を参照すべきだと言うのです。
その頃には(ルソーによれば)まだ私有財産はありませんでした。真の自然状態を理想として立てる以上、私有財産は社会契約によって克服・制限すべきものとなるわけです。
ではルソーの社会契約によってどんな社会になるかと言うと……。
まず人間は「自由」であるべきです。未開状態では自然人たちは自由に生きていたので当然ですね。そしてこの点はロックと同じです。
そして(上で述べた理由から)貧富の差は最小限であるべきとされます。ルソーは「百万長者と乞食、このいずれをも認めてはならない」と述べています。
また文明で堕落した心を無垢な自然人の心に戻すため、人間の内面(道徳性など)についても様々な変革を求めていますが、ここでは扱わないでおきます。
直接民主制 ~支配関係の否定~
ルソーによれば身分制もダメです。これは「よい家柄で生まれたら支配階層に、そうではない家柄で生まれたら支配される側になるという制度です。
ただルソーはそういう身分制だけではなく、そもそも「ある人が別の人を支配する」という形態そのものが文明とともに生まれたものであり、未開状態にはなかったと考えました。
これだと身分制を克服したはずの僕たちの社会であっても、政治家や官僚に支配されているからダメということになりそうです。
しかし人間が集団である以上、どうしても「支配する側とされる側」という区別は出てきてしまうように思えますよね。
ここでルソーはこう考えます。「そうだ! 〈みんながみんなを支配する〉というかたちにすればいいんだ!」と。
ある層は支配する側、また別の層は支配される側……という感じで分かれるのではありません。そうではなく「一体である人民が、一体である人民の意志に従う」と考えるわけです。
これなら「自分で自分に従う」のだから「自由」であるとルソーは言います。
これがどういう制度になって現れるかというと「直接民主制」です。
つまり僕たちがやっているような「市民たちが選挙によって政治家(代議士)を自分たちの代表にして法律を定めてもらう」という「間接民主制」はNGだということです。
ルソーは「人民が直接に集まって話し合って意志決定をしなければならない」「議員を選んで彼らに立法作業をさせることはできない」と述べています。
自分たちが選んだ人物であるとは言え、これだと結局「支配する側」(代議士)と「支配される側」(選挙民)という2つの層に分裂してしまうからでしょう。
これは間接民主制で成功していたイギリスへの批判でもあるようです。「彼ら(イギリス人)は選挙の間だけ自由なのだ」というルソーの皮肉は有名です。
選挙をしている間は確かに重要な意志決定をしているが、それ以外の大部分の時間は自分が選んだ政治家たちに支配されている不自由な存在だというわけです。
ヴォルテールをはじめ当時の啓蒙思想家の大半はイギリスを理想化していましたが、その彼らに対する攻撃でもあったでしょう。
しかし「直接に顔を合わせてみんなでワイワイ話し合う」なんてことが可能なのは村レベルまでだと思います。
古代ギリシャの都市国家(ポリス)ではギリギリやっていたかもしれませんが、広大な領域を持つ国家では無理でしょう。
ルソーは「小規模な都市国家で直接民主制をし、それらの連邦をつくる」という構想をチラッと述べてはいるものの、実現可能な方法を十分に語っているとは思えません。
全体意志と一般意志
ここでルソーの民主主義を語る上で重要な概念をご紹介します。
それは「一般意志」というものです。
直接民主制であれ間接民主制であれ、民主主義というなら人々が話し合って意志決定をする必要があります。
では多数決で物事を決めればそれでいいのでしょうか?
しかしそれでは多数意見によって少数意見が抑圧されることになってしまいます。またしても「支配する側」「支配される側」という構図の出現です。
こういう多数決によって明らかになる意志をルソーは「全体意志」と呼びます。正確には「個人の特殊利益の総和」と言っていますが、多数決の意志と考えていいでしょう。
しかしそれなら「支配する側」「支配される側」という構図にならない意志決定って何でしょうか? 多数の横暴にならない意志なんてあるのでしょうか?
ルソーは「ある」と考えました。それこそが「一般意志」というものです。
ところがこれの解釈が難しくて昔から専門家を悩ませているんです(汗)
ルソーの説明によれば、一般意志とは「人民全体の意志であり、間違えることはなく、人民全体の利益を目指して法を定める意志」だと言われます。
人民全体の意志とは言いますが、全体意志(多数決)とは違うそうですから、いまいちピンと来ません。ルソーの他の説明もよく分からないというのが正直なところです。
ただルソーの意図を想像すると、どうやら「変わることのない人類の良識」のようなものをイメージすると分かりやすいのではないかと僕は思っています。
多数決なら間違うことはあります。例えばヒトラーを圧倒的多数で支持した当時のドイツ人の多数決(全体意志)は間違っていたと言うべきでしょう。
しかし一時の激情が過ぎ去り、より広い視野から冷静に「あれは間違っていた」と反省する時が訪れたなら、それは人々の「良識」(一般意志)と言ってもいいはずです。
こう考えるなら、確かに全体意志と一般意志を区別することにもきちんと理由があると言えるでしょう。
一般意志はあるが悪用もされやすい
ただ一般意志(良識的判断)が存在することは認めるとしても、具体的な場面において「何が一般意志なのか」と問われると途端に困ってしまいます。
多数決がダメだとすれば、間違いなく一般意志であると判定できるような基準がないからです。
むしろ一般意志を強調しすぎると危険なこともあります。
多数決で何かを決めようとしても、「それは一般意志ではない」「一般意志はこうだ!」と主張する人が多数決を無視して独裁をやることがあり得るのです。
実際にそれは起こりました。フランス革命期の政治家ロベスピエールはルソーに心酔していて、この一般意志を持ち出して恐怖政治(大量粛清)を行ったのでした。
つまり「必ずしも多数決が正しいわけではない」というのはいいとしても、それを多数決や他者の意見を完全無視して独裁を行う口実にしてはならないということですね。
それなら一般意志を見出すなんて絶望的なのでしょうか?
これについては、ある哲学者がテレビ番組で「一般意志という説は『エミール』(ルソーの教育論)と一緒に考えると理解できる」と解説していて、僕も感心した記憶があります。
↓↓↓↓↓↓
私(ルソー)が『エミール』で示した理想的な教育を行えば、子どもたちは確かな知識・広い視野・豊かな情操を身につけた大人へと成長することができる。
そういう人たちが社会の事柄について真摯に対話してゆくならば、その過程で自ずと一般意志(良識的判断)が明らかになる……。
↑↑↑↑↑↑
ルソーはこう考えていたと想定することも可能かもしれません。実際、『エミール』と『社会契約論』は同じ年に出版されていて、セットで理解すべきだという説もうなずけます。
また『社会契約論』の中でも、ルソーは人々に道徳性の陶冶を求めています。
こうして人間性を向上させた人々がきちんとした条件の下で冷静に話し合えば、社会全体を幸福にする良識的判断を下すとルソーは考えていたのかもしれません。
全体主義との親和性?
ただこれはルソーを最大限好意的に解釈したものです(^^:)
正直に言えば、やはりルソーの社会思想には危うい要素もあるような気がします。
危うい要素の1つとしては、すでに述べたように「一般意志を強調すると多数者の意志表示を無視する口実になりやすい」ということが挙げられます。
次に「一般意志を僭称する多数者の意志が暴走していくこと」も心配です。これについてはルソーも教育論とセットにすることで彼なりの解決を考えていたかもしれません。
これらが大丈夫だとしても、さらにもう1つの懸念があります。それは「ルソーは〈社会の一体化〉ということを強調しすぎる」ということです。
もし仮に一般意志の内容がわりと良識的な範囲に収まっているとしても、そこに同調できずに漏れてしまう人々に対してルソーはやけに厳しいのです。
こういう人々は「社会の一体化を脅かす不穏分子」だとルソーは見ているようです。こうなるとそこに「全体主義の匂い」を嗅ぎ取ってしまいます。
例えばルソーは「市民宗教」というアイデアを語っています。
これは「国家と法に忠誠を誓わせ、人々を統合するための宗教」だと言います。市民たちが同じ信仰を共有していると社会の紐帯が強化されるという発想でしょう。
実際に人々の心を結びつける宗教があるというのは構いませんが、問題はそれを信じない人たちに対する扱いです。
驚くべきことにルソーは「市民宗教を拒否するなら追放」「背教者は死刑」と語っているのです! ルソー的社会では「信教の自由」がないわけです。
自分の信じたい宗教を信じたら命が危なくなるような社会では、自由などないに等しいと言わざるを得ません。
事実、ルソーは「キリスト教は地上を軽視し、国家を軽視し、国家を分裂させることにつながるので認められない」という意見です。
ルソーの描く理想社会では、キリスト教信者は迫害の憂き目に遭うのです。
それにしてもなぜ「追放」やら「死刑」やらそんな話になるのでしょう(==;)ルソーは「自由」を散々語ってきたのに、ここでそれまでの議論を台無しにしてしまっています。
ルソー思想は全体主義的なものだと考えて危険視する人たちがかなりいますが、これにも理由があると言えます。
ルソー思想には社会の近代化を促進した素晴らしい側面もありますが、(本人の危うい性格を反映してか……)危ういところもあるというのが僕の考えです。
次回はルソーや啓蒙思想がフランス革命に及ぼした影響についてまとめてみたいと思います。