ホッブズ(4)誤解だらけの政教分離

哲学者ごとの解説

 

前回記事「ホッブズ(3)ホッブズの政教分離論」では、ホッブズの政教関係(政治と宗教の関係)についての考えを紹介しました。

ホッブズ(3)ホッブズの政教分離論
前回記事「ホッブズ(2)社会契約説とリヴァイアサン」では、ホッブズの有名な「社会契約説」をご紹介しました。 今回の記事では、こうした社会契約によって誕生した国家において「宗教」がどのように扱われるべきだとホッブズが考えていたのかを見てみます...

 

今回はそこで紹介したホッブズの考えを足がかりにしながら、「信教の自由」「政教分離」などについて考えてみたいと思います。

 

ホッブズの政教関係論

 

まずは前回の復習から。

ホッブズは「国家主権の絶対性」を主張します。

要するに「国家が一番エライ」ということですが、ホッブズが特に言いたかったのは「国家は教会よりエライ!」ということでした。

当時のイギリスは、国内には国教会に属さない独立系の教会がポコポコ出てくるわ、国外からインターナショナルなカトリック教会が口出ししてくるわという状況でした。

ホッブズはこういう宗教勢力を排除して、「政治は国家がやるものだ」ということをハッキリさせようとしたわけです。

 

ホッブズの「宗教団体は政治に介入してはならない」という考えは一般的に理解されている意味での「政教分離」に近いと言えます。

ただし国家の意志は絶対ですから、もしも国家の方が「宗教に介入する」とか「国教を定める」などと決めたというならOKなのです。

分かりやすく言うと「国家が宗教に介入するのはOK」「宗教が国家(政治)に介入するのはNO」ということですね。

 

ホッブズ的な国家には「信教の自由」がない

 

当時はピューリタンたちが(国の立場とは違う)自分たちの宗教的信念に基づいて王政批判をしたり反乱を起こしたりしていました。

ホッブズとしては「こういう奴らはビシバシ取り締まって治安維持をしたほうがいい」というのが本音だったはずです。

 

だから国の公式見解とは違う宗教的な意見を自由に発表されるのは嫌だったでしょう。それを許すと、どうしても「神は王にお怒りだ」とかそういう話になりますしね。

確かにホッブズは「自由な意見を発表したら即・逮捕だ」とまでは書いていないかもしれませんが、「その宗教的信念が正統か異端かは国家が決める」と不穏なことを述べています。

ある意見を国が「異端」と判定するということは、何らかの仕方でそれを取り締まることを意味するでしょう。取り締まらないなら異端判定する必要などありませんから。

 

ホッブズが考えるこういう国家では基本的に「信教の自由」がないと言えます。

この「信教の自由」とは「人が何かの宗教を信じているせいで差別や迫害を受けたり、生命・財産を脅かされたりすることはない」ということです。

ホッブズ的な国家では、自分が信じる宗教的信念を発表したら何らかのペナルティを科される可能性があるわけで、信教の自由が保障されているとは言えません。

 

当然ですが、「国民がどんな宗教的信念を持つべきか」について国が統制したり規制したりするのはナンセンスです。

宗教的信念はその人のアイデンティティの深いところで人格形成に関わっているものであって、国家や党などにそれをどうこうする権利はないのです。

中世から近世にかけてヨーロッパで凄惨な宗教戦争が起きたのも、アメリカ合衆国が誕生したのもある意味ではこの「信教の自由」を求めてのことでした。

1つの側面から見るならば〈近代化〉とは「信教の自由が保障されていく過程」だと定義できるかもしれません。

信教の自由をどのくらい保障できているかが、その国家や政治体制がどのくらい近代化されているかの試金石であるということです。

 

信教の自由には行動の自由も含む

 

確かにホッブズは各人が自分の信じるものを私的に信仰することまで否定しているわけではないかもしれません。

国家の公式見解とは違う宗教的意見を公に発表したり、異端とされる宗教の礼拝を堂々と行ったりすることはできないものの、言わば「内心の自由」は認めているわけです。

そのため「内心の自由は認めているから」と言ってホッブズを擁護する研究者も一部いるのですが、やはりそれには疑問があります。

 

信教の自由には「宗教的信念に基づいて外面的な行動をする自由」も含まれています。

例えばイスラム教を例に挙げると、イスラム教徒(ムスリム)たちには「1日に何度かメッカの方向に向かって礼拝をすること」が求められます。

これを否定されることは信仰そのものを否定されるのと一緒でしょう。

彼らにとって礼拝は神によって命じられた信仰行為であり、礼拝を禁止されるのは信仰そのものを奪われることに他ならないからです。

 

これに対して「内心の自由を認めさえすれば信教の自由を保障したことになるのだ」という理屈は明治から戦前にかけての日本政府の立場でもありました。

しかし戦前の日本政府が信教の自由を保障していたと考える人は少ないでしょう。

政府や官憲は「内心で何を信じようが自由だが、外面上は国家神道に従ってもらうぞ」とばかりに国家神道の礼拝を強要したり、自由な宗教活動を禁止したりしていたわけです。

日本では天理教や大本など多くの新宗教が(近代国家としては世界的にも稀なほどの)凄まじい弾圧を受けましたし、キリスト教も抑圧されていたでしょう。

信教の自由を認めるというなら「内面」も「外面」も丸ごと認めなければ意味がないということが分かります。

 

政教分離の真意

 

宗教的信念に基づいた行動を起こしてもいいのですから、当然ながら「政治に進出することもOK」ということになります。宗教が政党を結成して活動してもいいわけです。

これは内閣法制局の見解でもあります。

教義として「世直し」を説く宗教はあります。そうであるならば、その世直しの手段として政治へ進出するというのは当然あり得る選択肢でしょう。

実際、何らかの宗教的信念をバックボーンにした宗教政党というのは決して珍しくありません。

1つ例を挙げると、現在(2020年1月時点)のドイツは「キリスト教民主同盟」(CDU)という宗教政党が与党として政権を担っていますね。

先進国であれ途上国であれ、宗教政党が存在したりそれが政権を担うというのは世界を見渡せばごくありふれたことなのです。

 

え? じゃあ「政教分離」って何なのよ? こう思われるかもしれません。

 

いろいろ誤解はありますが、西欧諸国で発展した「政教分離」の本来の趣旨とは「政治権力が個人や集団の宗教活動に対して介入・抑圧・弾圧を行わないこと」です。

つまり先ほど説明した「信教の自由」とほとんど同じ意味です。あるいはそれを「公権力の禁止事項」という観点からもう少し具体的に言い換えたものと言っていいでしょう。

信教の自由を保障するために「公権力よ、人々の宗教活動に手を出すな」と命じるというのが政教分離の意味なのです。

これを仮に「政教分離の定義α」としておきましょう。

 

その一方、宗教勢力が政治に進出するのは「信教の自由」の一環として保障されます。

簡単にまとめると「宗教は政治に進出してもいい」が、「政治(国家)は宗教に介入してはダメ」ということです。

つまりホッブズの真逆ですね(笑)彼の考えは言わば「転倒した政教分離論」だったわけです。

政教分離を「宗教と政治がお互いに介入しないこと」と解釈したり、あべこべに「宗教による政治参加の禁止」と解釈したりすることがよくありますが、いずれも間違いです。

 

宗教が政治に参加するなんてちょっと怖い……。

現にオウム真理教みたいなのが選挙に出たこともあるじゃないか。

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こういう風に考える人もいるかもしれませんが、「危険な団体が出るかもしれない」というのは別に宗教に限った話ではありません。ナチスは世俗的(非宗教的)な政党でした。

危ない団体になるかもしれないから政治参加を認めないというなら、世俗的な団体も含めてすべての政党を禁止すべきということになってしまいます。

宗教政党だけが結成できないというのは、国民の権利であるはずの「集会・結社の自由」が宗教者に対してだけ認められないということなので明白な差別であり憲法違反でしょう。

 

国家が宗教的性格を持つことはいいのか

 

国家としては「信教の自由」(本来の政教分離)を保障すべきです。

国民が(法律の範囲内で)どんな宗教活動をしようとも介入せず、宗教活動を規制したり弾圧したりしないという大原則を守るべきなのです。

 

逆に言えば、信教の自由さえ守ってくれるなら国家が宗教的活動をしても構いません。さらに踏み込むなら、国家がどこか特定の宗教と結びついても構わないのです。

政教分離の意味として「政治権力が特定の宗教と結びついて優遇することの禁止」と説明されることもあります。これを「政教分離の定義β」としておきます。

この考えによると、例えば「国教を定める」というのはダメになります。

確かにこういうβの用法も広く定着しているので、言葉の使い方としては間違いとは言えません。

しかしこのβは先ほどの「政治権力が宗教活動に対して介入や弾圧を行わないこと」という本質的な定義(α)から要求される(こともある)付随的な規定に過ぎません。

確かに国家が特定の宗教と結びつくことで、それ以外の宗教を圧迫してしまうことが歴史上多くありました。だからそれを防ぐための規定ですね。

しかしもし国家と特定の宗教とのつながりがそれ以外の宗教に対する圧迫にならないなら、必ずしもそのつながりを否定する必要はないのです。

 

例えば日本は「日本神道」という宗教と結びついています。ある意味では「祭政一致」「政教一致」であると言えるでしょう。

だって「日本国憲法」の第一章がいきなり「天皇」から始まっているのです(^^;)

そして天皇とは日本神道の祭司長ですから、誰が何と言おうとも日本はある意味における宗教国家です。

 

でもそれで構わないのです。

日本が日本神道と結びついていても、国民は他の宗教を信じることができます。キリスト教や仏教を信じているという理由で生命や財産を脅かされることはありません。

現在のイギリスは国教会制度ですが、それ以外の宗教・宗派を信じているからといって法的に差別されるということはないでしょう。これはこれでOKなわけです。

 

日本ではよく「政治家の靖国神社参拝は政教分離違反ではないか」「地鎮祭で玉串料を公費から支出するのは政教分離違反ではないか」という議論がなされます。

これに関連した裁判もたくさん起こされていますが、「それが他の宗教の迷惑にならない程度なら構わない」という穏健な判決が多かったようです(最近は少し怪しいですが)。

 

僕もそれでいいと思っています。

政治と宗教が密着しているものには、歴史的な経緯があってそうなっているものも多くあります。

それを無理に引き剥がそうとすると、むしろその宗教に対するイジメになるかもしれませんし文化破壊につながる危険すらあります。

例えば市有地に建っている神社が政教分離違反の疑いで訴えられ、あやうく鳥居を撤去させられそうになったケースもあります(北海道砂川市の空知太神社)。

こんなことを全国でやり始めたら大変です。それこそ明治初期の「廃仏毀釈」や中国の「文化大革命」のような大規模な宗教弾圧になって「信教の自由」の趣旨に反します。

信教の自由を守るための政教分離なのですから、政教分離を使って宗教文化を傷つけるのは本末転倒であろうと思います。

 

ちなみにβの意味での政教分離にしても、そのやり方は国によってまちまちです。「こうなっていれば政教分離だ」という明白な基準があるかどうかは分かりません。

日本でも「宗教団体に公金を支出してはならない」などの(ある意味での)政教分離規定がありますが、この辺りは国ごとにいろいろでしょう。

 

近代の意義 ~個人の自由と国家の調和~

 

長くなったのでまとめると……

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政教分離とは「信教の自由」を保障するために「公権力が宗教に介入することを禁止する」という意味です(定義α)。「宗教の政治参加を禁止する」のではありません。

もう1つ、「国家が特定の宗教と結びつくことや国家が宗教活動をすることを禁止する」という意味で使われることもあります(定義β)。

しかしこれは多くの宗教の圧迫にならないための規定であって、もしその心配がないなら必要なことではありません。

むしろ政教の強引な分離は文化を傷つけることがあるので要注意です。

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ホッブズの政治思想から一般論にまで話が広がってしまいました。

一応ホッブズに戻って話を終えておきたいと思いますが、「ホッブズの政教関係論はダメダメだ」というのが結論です(笑)

何しろ近代の大原則である「信教の自由」(およびαの意味での政教分離)を蔑ろにしていますからね。

 

ホッブズの基本的な考え方は「信教の自由や言論の自由を認めると騒乱が起き、国家の秩序が保てない」ということだったと思います。

この発想は現代の全体主義国家ととてもよく似ています。しかしながら「信教の自由」「言論の自由」を認めても日本や欧米などの自由主義国家は立派に続いています。

自由を認めたら崩壊してしまうような国家なら、その国家のあり方に問題があるのでむしろ潰れた方がいいでしょう。

 

近代の歴史は「人々の自由を認めながら国家を安定的に運営する」という課題への取り組みだったと言えます。

もちろん現代でもその課題をクリアできずに苦闘している国や地域はあります。

ホッブズの政治思想はそうした「前近代的な思考」をよく反映しているものだと言えるのではないでしょうか。

現代の自由主義とホッブズ的思考を対比させることで「人類は近代史を通じて何を勝ち取ったのか?」「何を失ったら前近代へ逆戻りしてしまうのか?」が浮かび上がるでしょう。