マキャベリ(2)軍備なき国家は滅びる

思想の解説

 

前回記事「マキャベリ(1)目的のためには手段を選ばず」では、マキャベリズム(マキャベリ主義)の内容について述べました。

マキャベリ(1)目的のためには手段を選ばず
今回は「近代政治学の祖」と称されることもあるマキャベリの思想をご紹介したいと思います。 マキャベリの思想は(いい意味でも悪い意味でも)いろいろと考えさせられる内容で、現代においても政治を考える際の「参照軸」になるものと言えるでしょ...

 

今回はそのマキャベリズムに関連する問題について、僕なりの考えを書いていきたいと思います。

 

全体主義への転落

 

復習しておきますと、マキャベリズムとは「国家のためならば非道徳的な行為や手段であっても許される」という考え方です。

例えば「国を外国から防衛する」あるいは「国内の秩序を保つ」という重要な目的のためには、たとえ卑劣で悪しき手段だとしても厭うべきではないということですね。

 

はっきり言って、マキャベリにとって倫理や道徳はどうでもいいものでした。

ある行為が善であれ悪であれ、それが国にとって役立つならやるべきだし、国にとって有害なら避けるべきなのです。

重要なのは「国家の利益」だけです。それ以外のものは「善だ」「悪だ」と騒いでも大した価値はありません。

大切なのは国家の維持や繁栄……。

道徳などあってなきがごとし……。

 

このマキャベリズムをそのまま純粋に貫くならば、いわゆる「全体主義」に至る可能性が強いと僕は思います。

全体主義を簡単に言えば「国家(あるいは民族)という『全体』を重視するあまり、各個人に多くの犠牲を要求してくる体制」といったところでしょうか。

道徳や倫理というのは、個人を国家(や他の個人)の横暴から守ってくれる防波堤になるものでもあります。

人々を守る道徳的なルールが蔑ろにされる一方、国家の論理が最優先されるならば、全体のために個人を犠牲にする体制に陥るのは必然です。

例えば「治安維持」を名目にして、大した捜査もせずにバシバシ市民を逮捕していく……というような人権侵害も正当化できてしまいます。

また道徳観念が欠けたまま国家の栄光ばかりを求めるならば他国への侵略も押し止めることができません。

こういう危険性を孕むマキャベリズムには何らかの歯止めが必要でしょう。

 

すぐ後で述べますが、僕は「防衛」や「治安維持」を軽視しているわけではありません。

それらは国家の仕事における最重要事項の1つでしょう。

しかし何の前提条件もなく「防衛」「治安維持」を絶対化してよいとも思えないのです。

 

例えば国民を弾圧・虐殺しまくっている全体主義国家があるとします。

そういう状況でその国の市民たちが蜂起して政権転覆の戦いを始めたとするなら、その反乱を「治安維持」の名目で弾圧することは倫理的に悪となるでしょう。

またそういう国が外国に攻められたとして、国民としてはむしろ侵略してもらって国の指導層を入れ替えてもらった方が幸福……なんてこともあるかもしれません。

防衛や治安維持は大切です。ただしそこには「国がある程度まともに運営されていて、国民の幸福と繁栄のために最低限の仕事をしている」という前提条件がつくのです。

この条件を満たしていないような国が「防衛」「治安維持」と唱えても虚しいものがあります。こういう国には守られるだけの価値がないからです。

結局、マキャベリズムでは全体主義国家が個人を抑圧することを防ぐことはできませんし、むしろそれを後押ししてしまう恐れがあるわけです。

 

戦争放棄は異常

 

それでは、マキャベリズムの中にはまったく参考にすべきところ、汲み取るべき部分はないのでしょうか?

やはりそうではありません。

マキャベリが強調したことで、特に僕たち日本人が学ぶべき点があります。

それはズバリ「軍事力の重視」です。

これを言うと嫌われるかもしれないのはよく知っていますが……(^^;)でも大事なことなので哲学としてもスルーすることはできません。

 

ご存知のように日本は憲法9条で「戦争放棄」を定めています。

そして僕たちはそれを素晴らしいことだと教育されてきました。僕も中学生や高校生の頃まではそう信じていたと思います。

マスコミ界も教育界も学問界もほとんどは「戦争放棄」を支持していると言えるでしょう。要するに「社会の表側」「公共の空間」ではそういう空気が支配しているわけです。

例えば「軍備をしっかり整えよ」「軍事力の強化が必要だ」などと言うと、そう言った方が白い目で見られがちです。

 

しかし……です。

この「戦争放棄」は世界を見渡してみても極めて異常な条項だと言えます。

かつて評論家の竹村健一さんが「日本の常識は世界の非常識」という名言を吐きましたが、このセリフはまさに防衛の分野にこそ当てはまります。

旧宗主国に防衛を丸投げしている小国は一部あるかもしれませんが、日本のようなサイズと人口を持つ国で「戦争はできない」と定められた国は他にないでしょう。

これに対して「だからこそ憲法9条は唯一無二の尊さなのだ!」「世界遺産レベルなのだ」と言う人もいますが、残念ながらそうは思えません。

正しいことで唯一なら尊いでしょうが、戦争放棄が正しいことであるとはどうしても思えないからです。

 

どうして戦争放棄が正しくないと言えるのか?

実に実に簡単な理由です。

戦争放棄が正しくないのは「戦争を放棄したら他国から侵略された時に国民を守れない」からです。軍事力で対抗できなければ、虐殺されようが奴隷にされようがなすすべがありません。

だからこそ国家が防衛のために軍事力を整えることは人類普遍の大原則であり、極めて当然のことなのです。古今東西、それは変わりません。

もちろんこれは上で述べたように「国がある程度まともに運営されている」「国民がある程度の安全・幸福・繁栄を享受している」という条件下での話です。

国民を弾圧している国家でも防衛は試みるでしょうが、それは必ずしも倫理的に正当化できるとは限らないでしょう。

しかしそうではない日本のような国ならば、当然ながら国家を防衛することに正当性があります。

 

ちなみに「永遠平和」を説いた哲学者としてカント(1724-1804)が有名ですが、実はカントも防衛戦争は認めています。

詳しくは以下の記事をご覧下さい。

↓↓↓↓↓↓

カント(4)永遠平和のために
カントと言えば永遠平和、永遠平和と言えばカント……。 こんな感じで結びつくほど、カントが永遠平和思想を説いたことはよく知られています。 今回はカントの永遠平和思想を簡単に紹介します。 カントの永遠平和論イコール絶対平和主義か?...

 

絶対非戦論の決定的欠陥

 

さて日本の絶対平和主義者たちは実にバラエティ豊かな非戦論を説きます。

例えば……。

  • すべての戦争は「防衛」の名目で始まる。 だから防衛のための軍備もダメだ。
  • 戦争は軍需産業の企みによって起きる。 彼らの企みを見抜き、戦争の芽を摘め。
  • 戦争は資本主義の自己増殖プロセスと関係している。 強欲さが戦争を生むのだ。
  • 異論を許さぬ空気が戦争へと導く。 戦争を肯定する意見に抵抗しろ。
  • 戦争は多くの人々を不幸にする。 だからとにかく戦争は絶対ダメ。

 

なるほど。当たっているものもそうでないものもあるでしょう。

しかしこういう議論には決定的な欠陥があります。

それは「それでは実際に侵略されたらどうするのか?」という素朴で単純な質問に答えてくれていないということです。

たとえ侵略されても「何もしない」「無抵抗を貫く」ということでしょうか。

侵略された際に「何もしない」というのは、同胞たちが他国軍に虐殺されようが、母・妻・娘たちが凌辱されようが、子どもたちが連れ去られようが見て見ぬふりをするということです。

自分1人の場合に無抵抗主義を貫くというなら少しは理解できますし、そこにはもしかすると崇高な精神があるのかもしれません。

しかしそれを全体に適用すると、周りの人たちを危険に曝し、いざという時にも見殺しにするという極めて低劣な思想になってしまいます。

自分が抵抗しないのは構いませんが、周りの人に「抵抗せずに殺されろ」と言う権利は誰にもありませんし、女・子どもを見殺しにすることも許されないでしょう。

こんなものを「善」「正義」などとはとても呼べません。多くの日本人の幻想とは反対に、絶対非戦論は大いなる悪へ転化する可能性すらあるものです。

 

いわゆる「左派」「リベラル」と呼ばれる人たちはインテリが多く、学者的な用語を使いながらもっともらしい反戦論を展開します。

しかし「侵略されたらどうするの?」という決定的な論点に答えられないような議論は、言葉は厳しいですが「思想ごっこ」に過ぎないでしょう。

戦後の日本は「戦争放棄だ」「非戦は尊い」「軍隊は要らない」などという発言をしても「侵略されたらどうするの?」というツッコミを受けずに済むという極めて特殊な言論空間でした。

絶対非戦論とはそういう特殊な言論空間でしか通用しない思想なのです。

 

そもそも戦争を行うこと自体は国際法違反ではありません(よく言及される1928年の「不戦条約」も戦争自体の禁止とは解釈できません)。

戦争を行うことは主権国家の有する当然の権利だと理解されているのです。

それはそうでしょう。

戦争は常に相手があってのことです。こちらだけが平和を祈念したところで相手が一方的に侵攻してきたら戦わざるを得ないのですから、法で禁止できるはずもありません。

だからこそ日本政府も文面上かなり苦しい強引な解釈をして「憲法9条は自衛のための戦いまで禁止しているわけではない」と弁解しているわけです。

 

ということで「いかなる場合でも絶対に戦わない」「戦争自体の禁止」という意味での絶対平和主義には大きな問題があります。

もちろん軍隊があれば戦争が起きる可能性は常にあります。

しかしだからと言って単純に「戦争放棄」「軍隊廃止」というわけにはいかないのは今述べた通りです。

各国は互いの脅威に対抗する軍事力を保有せざるを得ません。それを認めた上で、力の均衡を保って戦争勃発を防ぐための智慧を磨いていく以外に平和を維持する方法はありません。

 

理想をリアルに追究する

 

さて「マキャベリが軍事力を重視していた」ということから話が広がってしまいました。

しかし多くの政治学者は軍事力を重視しているので、これは特にマキャベリに特有の考え方というわけではありません。

したがって「マキャベリズムに学んで」というよりはむしろ「リアリズム(現実主義)に学んで」と言う方が正確な表現でしょう。

 

リアリズム自体は政治に必要です。

現実を見ずに空想的な議論をしていると国家や国民を危険に曝すことがあるからです。要するに実害があるのです(今の日本がまさにそうです)。

軍事力をきちんと整え、現実的な情勢判断を行っていくべきです。

 

しかし!

この「現実をちゃんと見ろ」という考え方が「理想なんかどうでもいい」という方向に進むならこれもまた問題です。

リアリズム自体はいいとして、政治において「善」「正義」「理想」「理念」というものが見失われるならば善悪や道徳を軽視するマキャベリズムに陥るでしょう。

リアリズムは必要だとしても、それは崇高な政治的理想に奉仕するものでなければなりません。

そうでないと「力がすべて」になり、本記事の前半で述べたように国民を弾圧し他国を侵略して恬として恥じない全体主義になってしまいます。

 

まとめます。

理想や正義を無視してリアリズムだけを追究すると「道徳無視の節操なきマキャベリズム」になります。

反対にリアリズムを無視して理想だけを追究すると「有害な空想主義」になります。

やはり「高尚な理想を掲げながら、それをリアリズムでもって探究する」という考え方が大事であるように思います。

例えば「自由を勝ち取る」「人権を守る」「平和を実現する」などの政治的理想を掲げつつ、その目標をあくまでリアリスティックな観点から追究するのです。

真剣に理想実現に燃えれば燃えるほどにリアリズムが求められます。こう考えてこそ理想主義とリアリズム(現実主義)をうまく調停できるのではないでしょうか。

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