前回記事「神の存在について(6)インテリジェント・デザイン(ID)とは?」では、「目的論的論証」の現代版とも言えるインテリジェント・デザイン(ID)理論を紹介しました。
僕としてはID理論は「自然界の少なくとも一部についてはデザイン(知性)の痕跡が見られる」ということを立証できていると思います。
つまり「進化は勝手に起きる」という主流派進化論の考え方はすべてに当てはまるわけではないということです。
しかし進化論はもちろんですが、ID理論の側にも課題がないわけではありません。
両者の論争とは別に、それぞれに抱えている問題があると思うので、今回はそれについて思うところを述べたいと思います。
ダーウィン進化論の決定的問題
主流派進化論(ダーウィン流の進化論)については、前回ご紹介したビーヒーやデムスキーからの反論とは別に1つ決定的な問題があると僕は考えているんです。
時々それらしいことを指摘する人はいるのですが、あまり強調されないせいか「それが決定的な問題である」という意識はあまり共有されていないように思えるんですね。
では、その「決定的な問題」を言います。
その問題とは「『すべての進化は変異と自然選択が原因で起きている』とは誰も証明できていないこと」です。
僕は「変異と自然選択というものも進化のメカニズムとしてあり得る」ということは認めてもいいと思っています。「そんなことは断じてあり得ない」とは証明できませんから。
しかし①「そういうメカニズムもあり得る」ということと②「そういうメカニズムで進化が起きたことが実際に確認された」ということの間には無限の隔たりがあります。
さらに言えば①および②と、③「すべての進化は変異と自然選択によって起きる」ということもまったく別問題なのです。
①それもあり得る(不可能であるとまでは言えない)
②それが実際にある
③それだけがある
この3つはお互いにまったく別物です。
ダーウィンもその後継者たちも確実に言えているのは①だけなんです。
②については「これは変異と自然選択で進化したのではないか?」と議論されている事例がいくつかあるようです。
僕にはどうしたら「このケースは(決して他の原因ではなく)変異と自然選択というメカニズムで起きたのだ」と証明したことになるのか分かりません。
だから②について確実に立証できたケースがあるとも思えないのです。
ただ僕は生物学の専門家ではないので、僕の知らない証明法があるのかもしれませんし、実際に立証されたケースがないことを詳細に調べたわけでもありません。
だから「変異と自然選択で実際に進化が起きたことが立証されたケースなど1件もないのだ!」と断言するのは避けますが、そんなケースは0であるかほとんどないかであるのは確かでしょう。
そして③についてはもちろんまったく証明できていません。
それなのになぜかダーウィン進化論者たちは③まで証明できているような顔をして議論をしているという現状があるのです。
もし無神論的な進化論者が生物界から「神によるデザイン」を排除したいと思うなら少なくとも③までは証明しなければなりません。①や②だけではまったく足りないのです。
したがって「現時点での進化論によって神の非存在が証明されている」ということはありません。
仮に変異と自然選択による進化があり得る(あるいは実際にあった)としても、それと同時に神のデザインがあったって構わないわけです。
それならば(まず無理ですが)③「生物界のあらゆる進化が変異と自然選択のみによって起きていること」が証明できたら、それは神の非存在の証明にもなるのでしょうか?
おそらくそうではないでしょう。
例えば「神は変異と自然選択に任せておけば生物は勝手に進化することを知っていて、あえて自らは介入せずに自然の推移に任せている」と考えることもできるからです。
ID派が言う通りに「自然界にデザインの痕跡があること」が示せるなら、それは確かに人間を超えた知性が存在していることの裏付けになります。
しかしその反対に「自然界にはまったくデザインの痕跡はないこと」が示せたとしても、それは人間を超えた知性が存在しないこととは何の関係もないのです。
したがって一般に流布しているイメージとは違いますが、ダーウィン進化論と無神論との間に論理的なつながりはないと考えるべきでしょう。
ID理論の決定的問題
それではID理論の方に目を転じてみましょう。
ID理論と主流派進化論とを比較するならば、僕はID陣営の方に好意的です。
しかしそれは「ID理論に何の問題もない」ということではありません。僕はこちらの方にも決定的な問題があると思っています。
いや、正確に言うと「デザインの痕跡から神の存在へとつなげる」論理展開に問題があるのです。
僕はID理論の「自然を観察するとそこに『デザイン』『知性』の痕跡がある」という意見についてはかなりの説得力があると感じています。
しかし問題はその先にあります。
ハッキリ言ってしまえば「自然や生物をデザインしたその知性は『神』である保証はない」ということです。
さらにハッキリ言ってしまえば生物をいろいろとデザインしたのは「宇宙人」や「未来人」かもしれないのです。
ここまで言ってしまうと「あ~あ、オカルトに踏み込んじゃったよ、この人」と思われてしまうかもしれませんね(笑)
でもあえて言いますが、そう思う人の方がおかしいんです。
宇宙人が存在していて、しかも地球を訪れているのは確実ですので、遺伝子操作などによって地球の生物種をいじっている可能性は大いにあります。
他の惑星から生物を地球に導入したということだって考えられます。
実際、神を認めるのは絶対に嫌だけど確率論・統計学の観点からID派を一笑に付すこともできないという無神論者の中には「宇宙人の介入」に言及する人もいるのです。
神を認めるくらいなら宇宙人を認める、という感じでしょうか(^^;)
ID派の中には「神を認めるのが嫌だからといって宇宙人を持ち出すとは呆れたものだ。そちらの方こそオカルトではないか!」と批判する人もいます。
でもこれは可能性としては大いにあり得る解釈なので、こんな風に小馬鹿にして済むものではないのです。
宇宙人の問題は「生物学」「人間学」「神学」「哲学」とも関連しているわけです。
僕は以前4回ほど宇宙人についての記事を書いたことがありますが、それはここでの議論につなげるためでもありました。
そこでは「宇宙人が地球に来訪していると言える確実な根拠」をまとめていますので、ぜひご参照下さい。
生物学・人間学・神学・哲学・宇宙人論……。
学問の世界では複数の分野(ましてオカルト)にまたがる議論をするのは「非学問的」と言って嫌われる傾向にありますが、論理的に関係があるものはつなげて考えなければなりません。
学問の世界の取るに足らない「常識」がどうであれ、「真理の探究」を志向する者ならばそれが当然の合理的態度であるはずです。
相対性理論によるとタイムマシンだって夢ではないのですから、「未来の地球人が過去へ旅して生物の遺伝子をいじった」と考えることも不可能ではないでしょう。
もっともこの場合は「子孫が先祖にあたる生物をいじれるのか」という「タイム・パラドックス」の問題が出てくるかもしれませんが……。
ともあれID陣営としては「自然にデザインの痕跡があること」を頑張って主張したのに、そこから「神」の存在へ導けないとしたら深刻な問題です。
しかしID理論が無駄であるということにはなりません。
僕は次回以降の記事で述べる理由から神の存在を信じています。そういう観点からこのID理論を振り返ると、やはり大自然は「神の創造」によるものだと実感します。
デザインは自然の至るところに見られるので、それを全部「宇宙人や未来人がやった」と考えるのは不自然でしょう。だとすれば忙しすぎます(笑)
ID理論が単独で「神の存在証明」になっているとまでは言えないと僕は考えています。
でも他の存在証明とセットで考えた時、ID理論はやはり神の超越的な智慧と力を証しするものとなっているのではないでしょうか?
地球の多様な生物種がどのようにして今ある形になったのか、いわゆる「種の起源」についてはほとんどが謎のままです。
主流派の進化論者は「少なくとも原理は解明されています」みたいな顔をしていますが、それは嘘です。
ダーウィン以前の時代から何が変わったかと言えば、「変異と自然選択」という〈あり得る仮説〉が1つ出てきただけで、学問の進歩としては微々たるものではないでしょうか。
僕としては「神の創造」もあれば「宇宙人の介入」もあれば「変異と自然選択による進化」もあったのではないかと考えています。
それらのメカニズムが混然一体となって現在の生物種の繁栄につながっているのではないかと思うのです。
生物種の起源については、現代人が考えているよりもずっと深い謎に包まれています。
次回「神の存在について(8)目的論的論証の拡張版」では、生物界を離れて目的論的論証を拡張させた議論をご紹介します。